白洲次郎論#4

白洲次郎論#4

白洲次郎論では、最初に読者に参加を呼びかけた。#3を終わった段階で多くの反応があった。読者のコメントに対して、木庵もコメントとして返事をしているのであるが、ここではその読者とのやり取りを再現し、またあるコメントに対して新たに木庵の感想なり、考えを書いていく。新たに書いたものは<    木庵>の枠の中で書くことにする。

#1の反応
そうなんです、確か、ドラマもあったと思います。
書店に白洲次郎に関する本が前面に並べられていたことがありました。興味があったのですが、読んでいません。
続きを読ませてもらいますね。 kayomi
kayomiさん、これからもっと白洲次郎について書いていきます。さて、どのような話が展開しますか、今のところ私も分かっておりません。木庵
ごあいさつが遅れまして、大変失礼致しました。先にコメントを頂戴し恐縮致しております。kayomiさんよりご紹介をいただき伺わせていただきました。白洲次郎論、楽しみに拝見させていただきます。どうぞ宜しくお願い致します。
ゆずさん。ブログによる繋がりの発展ですね。これからも宜しくお願いします。kayomiさんの詩は心が豊かな人の作品だということが分かります。kayomi さんの友達ですから、貴女も心豊かで優しい人なのでしょうね。木庵
木庵さん

初めまして、不死鳥の何でも屋と申します。
私のブログを訪問されたようですのでお邪魔させていただいたところ
白洲次郎」の名前が目に入ったため読ませて頂きました。

本論文の最後の方「〜、疑問とするところである」ですが私も全く同感です。実は私も白洲次郎に関して一度ブログで触れたのですが、木庵さんの文章を読んだ後に自分の文章を読み返すとその稚拙さ(相手に分かり易く説明がされていない文章)に恥ずかしくなってしまいました(触れたというのもおこがましい内容です)。と、同時に言葉の使い方次第で伝え方はどうにでも変わるとういう当たり前の事を改めて感じさせられました。

久しぶりに言葉に感動をさせられました。ありがとうございます。
今後とも拝読させて頂きますがよろしくお願いします。 不死鳥の何でも屋
<ゆずさんとの繋がりは嬉しい。このように人と人が繋がっていくことはとても素晴らしいことだと思う。今後ともゆずさん宜しくお願いします。不死鳥さんのコメントもありがたかった。ヤフーブログでは記事を載せると、『このような記事もあります』と、書いた記事に関連する記事を紹介してくれる。不死鳥さんのブログを訪問した。コメントを残したかどうか記憶がないが、上のような丁寧なコメントをいただいた。嬉しい限りである。お若い方だと思うが木庵の記事に興味を示してくださったことを感謝したい。不死鳥さんの了承を得ていないが、彼の白洲次郎についての文章をここで載せさせてもらう。不死鳥さん、結構ですね。彼のこの記事のブログアドレスは次の通りである。 http://blogs.yahoo.co.jp/justaboutak/2018748.html 木庵>

白洲次郎
年末だか年始に日本で白洲次郎のドラマを見て興味を持ち最近『占領を背負った男』を読んだ。


面白くてあっという間に読み終わったけどいやぁ、この人かっこいい。いっぺんにファンになった。

まず見た目。今で言うチョイワルオヤジだ。こりゃ女の人にもてたろうな。

ケンブリッジ大出身ていう経歴も良いしそこで培ったマナーも

当時の日本人は当然今の日本人にとっても彼を魅力的というか特別な感じにさせる。

英語はペラペラでみんなが尻込みする中戦後GHQに楯突いて日本人の気概みたいなもん見せたり

コンプレックスを感じる事が無かったんだろうな。

一方で派手な暮らしというよりご隠居生活を好み、有事の時のみ駆けつける。



と、同じ男として憧れた僕はもう一度この本を読み直したんだけどいくつか疑問が。

『占領を背負った男』は彼の武勇伝というか偉人伝的な本で当然彼の良い事が書かれているけど

実はもっと色々あったんじゃないかな、と僕の疑い深い性格が出てきてしまった。例えば、

?彼の時代で、まだ中学生なのに外車買ってもらったりイギリス留学したりでかなりの金持ち。
 
 コンプレックスの無さは何不自由無い環境から来たもの?もしや鼻っ柱の強いボンボン?

?第二次戦争中、この人の年齢であれば徴兵に呼ばれてもいいんじゃないかとふと思ったんだけど
 
 呼ばれなかったのかな?それとも金持ちだから裏技使ったのかな



これはもっと知らねばなるまい、白洲次郎のことを。

まぁ例え今後彼の事を調べてダークサイドが出て来たとしてもそれはそれとして、

そういう所もあるけどそれを補うほどの魅力的な人間であってほしいなぁ、

と言うのが僕の今の気持ち。実際彼はせっかちなところもあったみたいだし

パーフェクトな人間なんていないんだから。


とにかく白洲次郎は僕にとって『このオッサンかっこいいじゃん』と思わせる人です、今のところ。

だってビジネスの世界で相手を一括したり出来ないでしょ、なかなか。爽快だよね。

まぁ彼と一緒でウルサ型のジジイにはなれそうだ。プリンシプルは無いかもしれないけど 笑。。
つづく

白洲次郎論#3

白洲次郎論#3
ケンブリッジ時代の友情と豪放な遊び、そして影

   次郎はケンブリッジで終生の友と出会った。貴族の青年ロバート・セシル・ビング(Robert Cecil Byng)である。ロビンと呼ばれていた。ロビンは次郎より二歳年下である。彼の家系はウイリアム征服王の流れを汲むスロラッフォード伯爵家である。ウォーテルローの戦いに参戦し陸軍元帥になった先祖もいる名門である。次郎は群れることを嫌い、英国でも、パブなどに行ってもひとり店の隅で飲んでいるようなことが多かった。ロビンも内気で人見知りする性格であった。ある日、ロビンが学友から絡まれることがあった。そこに通りかかった次郎が、「おい、嫌がっているんだからやめてやれよ」と割って入った。日本での喧嘩の実績があった次郎には一種の威圧があった。次郎の介入により、難を逃れることができたロビンは非常に感謝した。地味なロビンと派手な次郎。見た目は正反対でも性格はどこか似ていた。この事件以降ロビンと次郎の関係が急接近し、意気投合するようになった。後に爵位を継承して7世ストラッフォード伯爵となるロビンも、その頃は並の金持ちの子供にすぎなかった。それに比べると次郎の方は前述したように桁違いの仕送りを受ける身分であった。中学時代に車を買っもらっていた次郎は、自動車の本場で、自動車に熱中するのは当然である。ましてや莫大な金を送金されているのだから、当然車を購入することになった。手に入れた車がペントレーの3リッターカー。当時のカーマニアの垂涎(すいぜん)の的の車であった。耐久性がル・マンの優勝でも証明されただけでなく、時速100マイル(約160キロ)近いスピードが出るというから、現在でもF1並である。次に購入したのがブガッティ。走る宝石とまでいわれた名車である。車が貴重品であった当時、超高級車を二台所有するというのは普通ではない。次郎とロビンはよく一緒にドライブをした。と言っても運転するのは殆ど次郎であった。当時、英国内でスピードの出しすぎが社会問題化し始めていた。若者が公道で自動車レースをするのが流行(はやり)始めていた。次郎は一度大事故を起こしている。足と鎖骨のあたりを負傷している。当時ケンブリッジの友人は二人のことを、「オイリーボーイ」と呼んでいた。オイリーボーイとは、油まみれになって車をいじっているカーマニアのことである。この時代のことは次郎にとって一番華やかな時代であった。だからNHKのドラマ紹介のために、次郎扮する伊勢谷友介がさっそうと車に乗っている写真(#1の冒頭に掲載した)が使われている。また、白洲次郎について書かれた本の中でもこの時代のことが多く扱われている。高級車を乗り回し、イギリス人美女との恋、西洋文化にコンプレックスを持つ視聴者や読者を引きつけるのに絶好の場面である。東洋人でありながら背が高くハンサムでイギリス人と対等以上に振舞う姿は絵になる。白洲次郎を美化するのには最高の場面である。木庵もこの時代のことを読んでいると胸がスカッとした。しかし、次郎の心の中がどうであったかを考えると、本人もあまり書いていないし、ましてや並の伝記作家が彼の内面まで見通せるわけがない。仮に嘘でも当時の次郎の内面の葛藤のようなものを書くことが出来る作家がいれば、その人は本物だろう。山崎豊子あたりが書けば、ドラマ全体が壮大に展開し、そして次郎の矛盾した微妙な心の動きを描きだすであろう。人間の内面は複雑で簡単に表現などできない。しかし、想像するのに、次郎のような心ある青年が、贅沢な生活をただ安穏と喜んで過ごしていたはずがない。木庵の読んだ本の中に、次郎の心の葛藤のようなものがほとんど描かれていない。ただ次郎ではないが、彼より5歳年上の、尚蔵について書かれた箇所があったことに興味がもてた。次郎は二男三女の5人兄弟の二男、三歳上の姉と、二歳下と九歳下の妹がいる。尚蔵は京都帝国大学を卒業してから、次郎に少し遅れて、オックスフォード大学に入学した。尚蔵は上品でハンサムな好青年であった。次郎は二男ということから自由奔放な性格を持っていたが、尚蔵は優等生タイプの人間であった。どちらかというと人生を真面目すぎるぐらいに考える人間であった。次郎を陽とすると尚蔵は陰と言いたいころだが、木庵はそう簡単に二人を対比させない。むしろ、次郎に尚蔵の陰さえも持ちえたと解釈したい。伝記作家や、次郎の友達が陽のところばかりを表現しているものだから、次郎の陰が見えてこない。もし、次郎が自分のことについて書かれた伝記やこのたびのNHKのドラマを観たとするなら、「そんなところだけじゃないんだがな。俺だって暗いところもあったんだ」と苦笑いするに違いない。とは言っても、尚蔵は次郎に比べれば影(陰)は濃い。そこで、尚蔵の影をこれから少し述べる。ここで読者に気をつけてもらいたいのは、尚蔵の影の部分は次郎の影と重なることを考えてもらいたい。つまり尚蔵の影の部分が次郎にも投影される構図を想像してもらいたい。
   オックスフォードを卒業した尚蔵は、ロンドンのイーストエンドと呼ばれた貧民窟に住み始めた。大学時代、社会問題に目覚めた彼は、貧しい人々に目を向けようと自らその中に飛び込んでいったのである。アヘン窟が軒を連ねているようないかがわしい場所に身をおくのである。尚蔵は大英帝国の繁栄の陰に隠された闇の部分に焦点を合わしてしまったのである。次郎が大英帝国の繁栄の陽の部分に焦点を合わせている時代に、尚蔵はあまりにも恵まれている自分の境遇とのギャップに悩み、苦しみ、煩悶する日々を重ね、ついに心を病んでしまったのである。そして帰国してしまうのである。子供のときから頼りにし、尊敬していた兄がこのような運命を辿っていったことに対して、感受性の強い次郎がもの思わなかったはずがない。今回のNHKのドラマではこのあたりの次郎の心の葛藤など描いていないはずである。木庵であれば、自動車やガールフレンドと楽しく過ごしている次郎と対照して兄を描き、「兄とは関係はない」、「兄とは俺は違うんだ」と虚勢を張っているように見えて、兄の動向が気になって仕方がない次郎の心の様を描くのだが。そのような心理描写ドラマなど誰も興味を示さないだろうから、ただ次郎の華やかな男らしい青春を描いて聴衆を魅了する道を選んだに違いない(ドラマを観ずに不遜な態度であると認めつつ書いている)。 

   ここから、木庵の勝手な想像、妄想をより発展させる。当時英国には三つのタイプの人間がいた。一つは、大英帝国の繁栄はインドなどの植民地などから搾取にも似たやり方で得た富を何の苦悩もなく享受した人間、その罪悪的な行為に対して罪の意識にさいなまれた人間、そして、そのような社会的なこととは一切無関係な人間(大衆)がいた。ケンブリッジやオックスフォードで勉強するような人間は前者二つの中のどちらかに属していた。イギリスの偉大なところは、植民地搾取という極悪行為をしておりながら、それに反対するグループもいたというバランスがとれているところである。若者は理想主義に燃えているのだから、己の恵まれた境遇が大英帝国の恩恵の結果であることを知りつつ、帝国主義の罪悪性。矛盾に苦しむインテリが多くいたのも不思議ではない。そのようなインテリの影響をモロに受けたのが尚蔵であり、植民地政策を暗黙のうちに是認するグループに影響されたのが次郎ではなかったか。次郎にとって貴族ロビンとの交友は英国の影ではなく陽の部分を見る機会が多くあり、また陽を肯定する考え方に自然に影響されたと考えられる。しかし、大英帝国の陰に沈んでいく兄の姿が気になって仕方がない。自分まで陰に進んでいく気になれないが、完全に陽を満喫できなかったのである。次郎には生きるエネルギーが人一番あった。植物が太陽に向かって伸びるように、自然に英国の良いところばかりを見ようとした。それに対して、兄尚蔵は陽を背にむけ、日陰、日陰へと沈んでいく。それは次郎の理解を超えた世界であった。しかし、現実に兄は病気になり日本に帰ってしまった。兄とのギャップをどう捉えてよいものか、次郎の心の中に陰の粒子が舞い込み、混乱をきたすことになった。ところで、次郎と尚蔵とどちらか自然な生き方であったのだろうか。もし神という者がいるとすれば、バランスとして兄に陰、弟に陽を選ばせたのだろうか。白洲次郎論も陽だけにスポットライトを当てると次郎が保有していたであろう陰が描けなくなる。東洋哲学ではないが陰と陽のバランスの関係で社会も人生も動いているとするなら、次郎の父・文平が毎晩のように花街で放蕩していたのと対象的に、妻・よし子は慎み深い女性であったことはバランスとしてはよい。時代が時代だといっても主人が妾を囲むのを好む女性などいない。そのような父親(陽)や母親(陰)の姿を見て次郎は母親の味方をして、陰を好ましいものと思ったはず。たとえ贅沢のし放題をさせてもらえるのは父親のおかげで、陽の性格を持ち合わせていても、陰に惹かれる。そのような心理が働いていたとするなら、次郎は兄尚蔵の中に自分にない陰の深さを感じたはずである。次郎が熱狂した車の世界は陽の世界であり、所詮切ない物の世界である。母親のことを「好きで、尊敬する」と後年次郎が述べていたことはもう書いたが、これをマザコンのレベルで見るより、母親の陰の部分に深く感じるところがあったと解釈した方がよさそうである。そして、あれほど憎んでいた父親と同じプレイボーイへの道を歩んでいくのも、神の陰陽のバランス感覚の悪戯と考えてよいのかもしれない。
つづく

白洲次郎論#2

白洲次郎論#2
  白洲次郎と木庵との共通点といえば、生まれ、育ちが同じ兵庫県ということである。白洲家の祖父が三田藩の家老であったというが、木庵の故里は三田に隣接する田舎である。また、白洲が育った芦屋や伊丹の近くで大学時代からアメリカに来るまで住んでいた。だから地域性から白洲に親しみを覚える。しかし、育ちは雲泥の差がある。貧しさの中に育った木庵は、いつしか金持ちの弱さというか陰を見ようとする習性がついている。どう転んでも彼たちの域まで達せないとするなら、彼たちは自分の求める世界ではない、己の世界の方が豊かなんだと思うようにしたのである。その思いが持続すると、おもしろいことに、本当にそう思ってしまう。今では金ではない、己の心が満足すればそれでよい、逆に金持ちに同情するようになっている。なぜなら、金持ちが今幸せだとするならその幸せはいつまでも持続しないことが分かるからである。人生なんて、落ちれば誰も同じである。一時金持ちであったり、権力を握ろうと、持続などできっこない。そうであるなら、他人と比較するより、短い人生であろうが、自分が満足すればそれでよい。そう思うようになったのである。
  白洲は大衆と桁違いに違う育ちをしているが、どことなく親近感が持てる。それは、彼の破天荒さにあるようだ。我々普通の人間は羽目を外そうとしても外せないしがらみのなかで生きている。しかし、白洲のような特権階級(?)の人間は軌道から外れても、世間はそれを許すところがある。それは、極端に言えば金の力である。白洲が友達と喧嘩して傷つけたとしても、それを補う金の力がある。あまりにも次郎が喧嘩にあけくれるものだから、白洲家には謝罪のための菓子折りが常備されていたという。これは金の力というより、親の気配り、世間への気配りがいき届いていたのである。貧しい家庭で育とうが裕福な家庭で育とうが、次郎のような暴れん坊はどこでもいる。この暴れん坊が近所の人から可愛い暴れん坊と映るか、どうしょうもない暴れん坊と見られるかは、親のフォローによって違ってくる。少なくとも、白洲家にはそのフォローが行き届いていたのである。だから周囲からそれほど白い目で見られることなく、自由な子供らしさを謳歌できたのである。それに対して、親のフォローがない暴れん者は、周囲から煙たがられ、結局本当のひがみ者になっていく。子供や、たとえ大人でも周囲の目が気になる。周囲から暖かい目で見られていることは、それだけで人間をおおらかにし、より自由人になる第一ステップを踏むことができる。ひがみ者は自由人にはなれない。そして一番大事なことは母親の愛情をどれだけ受けているかによって、人間性が決まる。次郎は母親の愛をことのほか強く感じながら育った。幼い頃は身体が弱く何度も大病に罹って死の淵をさ迷ったが、その都度、母・よし子の献身的な看病のおかげで生命の危機を乗り越えている。後年その頃を思い出すたびに感謝の思いが胸いっぱいになったという。彼は雑誌のインタビューで、「世の中でいちばん好きで、いちばん尊敬しているのは母だ」と照れることなく語っている。ここで、木庵の独善的な男らしさ論を述べる。先ず、男たるもの母親の深い愛情があればあるほど男らしくなる。観音様のような慈しみ深い母親から本物の男が生まれる。近頃の、ただ子供の側にびったりくっついている母親ではない。次郎にも母親から愛されるだけの聡明さと愛らしさがあったのだろう。同じ子供でも可愛いと思う子と、どことなく可愛くない子がいる。次郎は可愛い子であったのだろう。次郎の家の近所に鰻屋があり、その店の女将から特に次郎は可愛がられた。幼い次郎のことを「坊ちゃん」と呼び、他人とは思えないほどの愛情を注いだという。おいしい鰻を食べさせただけでなく、次郎が病気をしたときには、よし子に代わって何日も看病したぐらいである。こういうことから考えても、次郎は元々他人から寵愛される天性の性格を持っていたようである。
  次郎は天性の男らしさを具える環境に育ったことは分かるが、輝ける玉も磨かなければ本物の美しさを醸し出すことはできない。

白洲次郎の男らしさのルーツ#2(ケンブリッジ時代のこと)

   ケンブリッジ大学には31のカレッジがあったが、次郎が入学したのは最難関のクレア・カレッジであった。クレア・カレッジ入学式のときの写真がある。四角い学帽にマントの69名の中で、東洋人はただひとりである。最後部で他の学生と身長は同じ程度で、超エリートイギリス人学生がどこかまのびしているのに対して、次郎は正面を見据え威厳さえある。当初の成績は最下位であったが、猛勉強の結果二年目にはトップクラス入りを果たした。教授陣は優秀で、かの有名な経済学者ジョン・メイナード、ケインズもいた。ケンブリッジ時代のエピソードとして、J・J・トムソンという物理学者(電子の発見で有名)のクラスでテストを受けた。次郎は徹底的に勉強して、結果には自信があった。ところが返ってきた点数はよくなかった。不満に思いながら答案を仔細にチックすると、「君の答案には、君自身の考えが一つもない」と書かれていた。これはショックであると同時に次郎にとって喜びであった。というのは中学時代から疑問に思っていた日本の暗記中心教育に反発していたものが、イギリスで解けたからである。自分の頭で考えることの重要性を認識するに至ったのである。これこそ、次郎が次郎として花を開く修行時代にさしかかったことを意味する。それ以後の次郎は自分の頭で考える勉強を続けることになった。それにケンブリッジでは英国紳士道を学んだ。武士の血を引く次郎が英国流騎士道によって涵養されていったのである。親元を離れた不良少年(?)であった次郎にとって、イギリス式紳士への道は厳しくも、華やかなものに映ったにちがいない。木庵は白洲より恐らく7歳ほど年長でアメリカのコロンビヤ大学に留学(彼は留学ではなく、遊学であったと言っていたが)したSという人から懇意にしてもらっていた時期があった。Sの家も白洲家ほど裕福で、月々500円の仕送りがあった。当時500円とは小さい家が買えたという(本によると、次郎の場合一度に一万円ほどの送金があった。現在の金に換算すると3000万円になる。Sが月500円の仕送りを受けた話が本当だとすると、次郎より7年前を考慮にして今のレートで約200万円になる。確かに当時の小さな家は買えたのだろう)。白洲次郎のことを考える時、Sと比較したくなる。Sも芦屋の豪邸に住んでいたが、戦後新しいビジネスを始めたのがあまり芳しくなく、最終的にはこの豪邸あとにアパートを建て、その家賃収入で生活していた。アパートの一室にSも住んでいて、93歳で天寿を全うした。Sは華やかさがなかった。ごく普通の妙好人であった。アメリカ留学経験者であるにかかわらず、彼の発する言葉のなかに英語の単語がほとんどなかった。アメリカかぶれ、西洋かぶれしていないのである。白洲が戦後、日本社会の桧舞台に引き出されたのと対照的に、地方のビジネスに携わっていたSは地味であった。しかし、この年老いた妙好人に木庵は引かれるものがあった。もし二人が私の前に現れたとすれば、きっと、Sの方により親しみを感じるであろう。それはSも白洲と同様、戦前の超裕福な家庭に育ち、超エリートの教育歴がありながら、どことなく日本人として普通の感覚があるように思えるからである。Sは名刹禅寺の総代であった。その寺の総代であるだけで、著名人として世間が認めた。それにかかわらす、彼には威張りや奢りがなかった。私のような若輩者でも、1人の人間として接してくれた。私が彼の住んでいるアパートを訪問すると、よく私と話に付き合ってくれた。Sも白洲と同様、子供の頃やんちゃ坊主で、特に絵が苦手であった。夏休みの宿題に絵を描いて提出しなければならなかったが、他人の描いた絵をそのまま提出した。絵の裏側にその絵を描いた人のサインがあったが、それを消して、自分のサインに書きかえた。教師はその巧妙なSの細工を見破り、Sを職員室に呼びだした。しかし、教師はSを叱ることなく言った。「このようなことをするのはよくない。しかし、お前のサインの消し方はたいしたものだ。お前の消し方のうまさに免じて、今回は許してやる」。Sはそれ以上の説明をしなかったが、ようするに、戦前の教育者は余裕を持っていて、子供一人ひとりの個性をよく知っていた上で、Sのようなやんちゃ坊主に暖かく接して+いたことを言いたかったのだろう。木庵はこのような老人の話を聞きながら、戦前のことをよく想像したものである。少しわき道に逸れたが、ようするに、Sには、悪い言い方であるが、白洲のような西洋かぶれ、イギリス崇拝主義がない。アメリカ留学から後、逆作用として日本の良さを認識するようになったのではないか。木庵もアメリカに留学し、今もアメリカで生活をしているが、アメリカのよさは分かっていてもアメリカかぶれなどしていない。むしろ、日本の文化の中に、歴史の浅いアメリカにはない豊かさを感じている。白洲のことを調べるにつれて、彼の良い意味のイギリス主義・欧米主義と同時に日本の伝統文化にあまり興味がなかったのではないかと憶測するに至っている。戦後昭和天皇のプレゼントをマッカーサーに持って行ったことは冒頭に述べたが、私の読んだ本のどこかに、「白洲次郎天皇制の支持者ではなかった」という気になる記事があった。このあたりの分析は後にするとして、#3では、次郎のケンブリッジ時代の遊び、友情、それに次郎の兄尚蔵のことにについて書く。
つづく

白洲次郎論#1

白洲次郎論#1
  白洲次郎というと、次のエピソードが一番有名だろう。終戦後日本政府を代表して白洲がGHQの交渉窓口を任されていたとき、昭和天皇からクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に持参した。そのときマッカーサーは、そのプレゼントを「そのあたりにおいてくれ」言ったものだから、白洲は血相を変え、「いやしくもかつては日本の統治者であった者からの送り物を、その辺に置けとは何事か!」と叱り飛ばし、贈り物を持って帰ろうとした。さすがのマッカーサーは無礼を詫びたという。
  敗戦は日本人の自尊心を奪いさられてしまった。その中にあって、戦後の日本国王のごとく君臨していたマッカーサーを叱り飛ばしたとは痛快な話である。「日本男児まだ消滅せず」と拍手喝采したいところである。先日ロサンジェルスの日本語書店を訪れたが、白洲次郎、それに彼の奥さんの白洲正子コーナーが設けられていた。聞くところでは日本でも、今や白洲ブームが到来して、NHKで彼のドラマが放映されたとか。
  さて、これから白洲次郎論を展開していくが、どのようなものが書けるか、今のところ検討もつかない。いつものごとく書きながら考えることにする。読者の方も参加してもらいたい。一応本は白洲次郎に関しては3冊、それに白洲正子に関しては一冊読んだ。まだ読むかもしれない。一応、白洲次郎の歩んできた道、人間性について何とか理解したつもりでいる。NHKで放映されたとか、白洲ブームであるということから、読者の方は彼のことについてある程度の知識はあるとみた。本に書かれたことを参考、引用はするが、木庵の文章を主にしたものにしようと思っている。白洲次郎の生い立ちから始まる時代にそった書き方にするのがオーソドックスな書き方であろうが、今回は自由気ままに木庵の頭に過ぎる白洲次郎論を展開していこうと思う。読者は全部を読まれることにより、結果として、白洲の歩んできた道のり、彼の人間性、日本に与えた影響などがわかるようになればよいと思っている。

読んだ本:「白洲次郎占領を背負った男」、発行所:講談社、第一刷発行:2005年8月2日、「白洲次郎プリンシプルのない日本」、発行所:新潮社、第一刷発行:平成18年6月1日、「風の男白洲次郎」、発行所:新潮社、第一刷発行:平成12年8月1日、「白洲正子両性具有の美」、発行所:新潮社、第一刷発行:平成15年3月1日。「白洲正子自伝」、発行所:新潮社、第一刷発行:平成11年10月。


何故、今白洲次郎

  戦後60年経って、何故今頃白洲ブームか。日本は敗戦の憂き目にあい、戦後のGHQ体制により、大和魂は喪失した。会田雄二が「男性待望論」を書いたのは、木庵が大学時代であった。それ以降木庵は、日本の男性がどう去勢されていったかという研究(?)テーマに向かって人生を歩んできた。そのためには自分が男らしく生きなければならない。元々虚弱で女々しい木庵が戦後の軟弱文化の中で、男らしさなど通せるはずがなかった。しかし、せめて男らしさの理念だけでも持とうともがいた結果、アメリカまで辿りついてしまった。アメリカから日本をみると、間違いなく戦後の日本はアメリカによって去勢されたことが手にとって見える。
  考えてみれば、20世紀はヨーロッパ文明がアジア文明を虐げようとした時代であった。その渦中のなかで日本だけがヨーロッパの挑発に屈することなく、挑み、矢つきて敗北したのである。敗北は今にして思えば「力不足であった」と簡単に片付けられるが、少なくとも男たちは頑張ったのである。大和魂を振り絞って頑張ったのである。そのことをアメリカの男も認めている。しかし、戦争が終ってから大和魂を復活されては安穏としておれない。だから、日本男児の去勢化を謀ったのである。これはごく普通の戦勝国が敗戦国にする常套手段である。日本の弱体化は致し方ないが、去勢までされまいというのが戦後の男の歴史であった。天皇終戦詔勅、「忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え」というのは、敗戦した厳しい現実を直視しながら、潔く戦勝者の無理難題に耐えるしかないが、「去勢だけはされるな」というメッセージであった。GHQの去勢政策は実に巧妙であった。そのことは「GHQ焚書図書開封西尾幹二)」http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/27620222.html で述べたので、ここでは省く。この巧妙な罠に嵌ってはいるが、いつでももとの男になれるチャンスはあった。しかし、GHQの敷いた足かせから脱却する男らしさが残っていなかったのか、どんどん女性化、平和ボケの日本人になり下がってしまった。田母神氏がロスで講演をしたとき、「今日本は強い親父を求めているんです」と言っていた。また同氏は「戦後日本が妥協に妥協を積み重ね、支点がどんどん左へ左へと移動して、もはや保守陣営はなくなった」とも言っている。白洲次郎ブームはこの左傾化からの脱却のための動きなのか、ただ単なる男らしさへの回顧なのか。

白洲次郎の男らしさのルーツ#1(誕生からケンブリッジ入学までにおける)

白洲次郎は明治35年(1902年)2月17日、兵庫県武庫郡精道(せいどう)村(現在の芦屋市)において、父・文(ふみ)平(ひら)、母・よし子の次男として生を享けた。昭和天皇誕生の翌年のことであった。白洲家は三田藩兵庫県三田市)において代々儒官を務めた家柄で、次郎の祖父,退蔵(たいぞう)は大参事(家老職)に抜擢されるほどの名家であった。父・文平は、大正から昭和初期にかけて綿花貿易で大成功をおさめた実業家で、留学経験も長く、考え方や行動も万事欧米流であった。文平は花柳界に出入りして毎晩派手に遊び、妾を囲っていた。詳しくはわからないが、次郎には母親の違う弟や妹もいたようである。次郎の名前は、次男だから次郎とつけられ、そのことで次郎は父親を嫌っていたという。幼少の頃身体が弱かったが小学高学年あたりからやんちゃ坊主へと成長していった。芦屋の次に移り住んだのが、現在の伊丹市である。昭和4年頃撮影された航空写真によると、白洲邸が写っている。優に学校ほどもある広さで、給水塔がある屋敷である、現在屋敷跡は、自衛隊伊丹駐屯地の幹部宿舎や個人宅にもなっている。何不自由もない暮らしの中、全国屈指の名門校神戸第一中学(現在の県立神戸高校)に進学する。次郎はこの学校になじめなかった。卒業生が一高や三高に進み、その後東京帝国大学京都帝国大学に入学するのが当たり前という風潮に反発していた。ガリ勉でいい成績をとる人間より次郎の方が頭がよいという自負もあった。唯一神戸一中時代に見せた積極的な行動は野球部への入部であった。父・文平は野球草創期の花形選手であり、次郎も幼いころから文平相手にキャッチボールをしていたことがあって、野球に興味をしめした。ところが、根性をつけさせることを主眼においた厳しい練習になじめず、熱中とまではいかなかった。熱中はむしろ車の運転であったというから、このあたりから普通の人間ではない。当時大人でも車を持つ人間などごく少数であったのに、父・文平は次郎にペイジ・ゲレンブルック1919型という米国車を買いあたえている。想像しただけでも小生意気な金持ち坊ちゃんの姿が浮かんでくる。教師も次郎の態度に不快感を抱いていたようである。成績表の素行欄に「やや傲慢」、「驕慢」、「怠惰」という文字が並んでいた。神戸一中時代の友人のひとり今日出海(作家、佐藤内閣伝での初代文化庁長官、作家の今東光は兄)によると、「背が高い、訥弁、乱暴者、かんしゃく持ち」であったという。また次郎のことを、「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼んでいる。このような次郎にとって日本は窮屈であったにちがいない。普通この程度のはみ出し者は、日本社会でくすぶってしまうのだが、金持ちというのは世界が開けるものである。旧制中学を卒業してから、ケンブリッジに留学というから、桁が違う。
  次郎の生まれ、育ちから見ると、我々の大衆から程遠い生活環境に育ったということが分かる。このことと、男らしさと結びつけることができるのであろうか。ある人は次郎の育ちの良さに、男の条件として合格点をあげるだろう。またある人は、ひがみぽっく、どうせ成金の息子だろうと、次郎の欠点を探すだろう。木庵はどちらの感情も次郎に対して抱く。どちらかというと後者の方が強いのかもしれない。大体、歴史上の人物について書かれた本というものは、どうしてもその人物を美化するものである。私の読んだ本も本当の白洲次郎を浮かび上がらせているかどうか、疑問とするところである。所詮、過去に生きた人物を現代に蘇らせることなどできない。しかし、人物伝は作家の人生観や考えのフィルターを通しているとはいえ、作家が書こうとする人物と対決した後がうかがえ、後は読むものの想像に突っ走ればよい。木庵もそうする。白洲次郎論とは木庵論である。木庵が白洲を男らしく見るか見ないか、白洲は知恵者であったかなかったか、白洲は善人であったか、なかったか。結局木庵の白洲に対する思いを書く。
つづく

*自然農法(わら一本の革命)#48
自然農法(わら一本の革命)#48

kayomiさん、そうなんです。我がアパートにあるバナナです。この写真は昨年撮ったもので、このバナナ1房は知り合いの家でのバースデーパーティーで皆さんと一緒にたべました。今日バナナを見ますと、熟したものがありましたので近い内にいただけるものと思っています。ところでバナナの向こう側の木は何だとおもいますか。アボカドの木です。隣の家のものですが、たわわに実がなってよく頂きます。ロスでは一般の家の庭にアボカドが植えられているんです。アボカドの木1本あれば、家族だけでなく近所親戚友達に分け与えることができ、素晴らしいです。ただし根を張りすぎて、水道管や下水菅を壊してします難点はありますが。木庵

アボガドの気はそんなに大きくなるんですね!
実は、私はアボガドが大好きで、一昨年に種を小さい庭に埋めました。それが芽を出し、今は2メートルほどになっています。
実がつくのかな〜とちょっと楽しみだったのですが、下水管がすぐ近くを通っています。どこかに移す事にしますね、残念ですけど^^;

kayomiさん、アボカド、日本で実をならすのでしょうか??相当暖かいところでなければだめでしょう???木も少なくとも4メートルほどしないと実をならさないとおもいますよ。木庵
ヤギおじさん、コメントありがとうございました。この後、すぐにアメリカの「イミテーション自然」について、ブログに載せます。日本は折角、理想的な自然環境があるのに、窒素過多とは困ったことですね。屋久杉は日本の自然が生んだ世界の誇りです。この素晴らしい環境を守っていかなければいけませんね。木庵

スペインのコロンブスアメリカを発見したことは、foxtailなどのいろんな災ひをも持ち込んだのですね。インカ帝国もスペイン人に滅ぼされました。エスキモーも、インディアンも、中南米の原住民も、みな日本人と血液型がよく似てゐるさうです。(今で言へばDNAが似てゐるといふことでせうか)アジアと米州が一枚岩でつながってゐたかもしれないといふのは面白い話ですね。(10万年ほど前、ムー大陸が突然太平洋に沈没したとの話を読んだことがありますkoreyjp
お早うございます。続けざまのコメント失礼します。
こちらは梅雨に入ったかのような雨が2.3日続いております。
期待どおりの記事、ご同慶の至りでございます。
10年前欧州を訪ねた際に驚いた事がありました。
紳士の国イギリスの下水道は最近まで浄化処理施設も無く、何キロも先の海まで排水管を延ばし海洋投棄していたとのこと。
そして、ゴミの分別収集が徹底していたフランス。なのに当時まだ有鉛のハイオクガソリンでした。
過去の植民地支配で手に入れられる安い原油なるが故か、いずれ本能なるがまま生活領域を広げた結果であることは明白です。
凹凸ある道より平らな道、庭のほうが確かに楽です。楽をした分、結局失っているものがありました。
不自然なる思想原因の根っこがよく分かります。全く同感です。 ヤギ

確かに、アメリカ人はイミテーションを好むやうですね。私が高校生のとき、シカゴの郊外に住む一家にホームステイしましたが、その家の中には本物の観葉植物と、それらのイミテーションの植物が同じくらいの割合であり、それをhost mother がながめて悦に入ってゐるのを見て、なんとも奇異に感じたものでした。今、私の会社の事務所内にも、オールイミテーションの樹木が置いてあります。呼吸もせず、水分も出さず、ただただ埃を載せるだけのイミテーションです。 koreyjp

「我思ふ、故に我あり」、、、なつかしい言葉です。ルネ・デカルトは従軍して北ドイツに駐屯し、夜営の焚き火を囲んでゐたとき、ふとこの言葉を想起しました。岡先生は、デカルトの「我」を主宰者の意味だと言ってをられます。それは神に近いものでせう。しかしデカルトは低い次元並に誤解され、そこから自我が西欧に一人歩きをし始めたのかもしれません。パスカルですら、「瞑想録」の中で「かの無用にして有害なるデカルト」と警句を吐いてゐます。パスカルは「神がゐるかゐないか確立はともに二分の一だ。神がいないほうに賭けて、実際に神がゐなくても、得るものは0だ。神がゐても、得るものは0.一方、神がゐる方に賭けて、実際に神がゐ無くても、得るものは0.しかし神がゐれば、無限の恩寵を得られる。二分の一といふ高い確率で、無限の恩寵が得られるのに、神がゐる方に賭けないのは馬鹿げたことだ」と、やや損得勘定で神の存在を証明しようとしました。このパスカルを、岡先生は「低い天」と評されました。koreyjp
十年以上前ですが、旅行会社のポスターに、こんなのがありました。
若い女性が一人、広い空間にポツネンと立ってゐます。キャプションに「何もしないをしよう」とあります。つまり旅行をして、ボケーとしてみたら如何ですか、といふことを言ひたかったやうです。 koreyjp
木庵さん
福岡さんの話と同様、このブログも皆さんの話がからみあって、有機的に発展しました。お互いに大変有益でした。これからもこの調子でやって行きたいですね。どうもありがとうございました。koreyjp
koreyjp さん、次は白州次郎論です。また、よろしくお願いします。木庵
2009/6/8(月) 午前 1:13[ tak*ona*tou*a ]
かうして振り返ってみると、私たちは結構まじめに大切なことを論じ合ってゐたことが判ります。ブログの有意義な活用が出来たことを本当に嬉しく思ひます。次のテーマの白洲次郎についても期待してをります。 2009/6/9(火) 午前 1:31 [ koreyjp] }

自然農法(わら一本の革命)#47

自然農法(わら一本の革命)#47
{koreyjpの最新のコメント
かうして振り返ってみると、私たちは結構まじめに大切なことを論じ合ってゐたことが判ります。ブログの有意義な活用が出来たことを本当に嬉しく思ひます。次のテーマの白洲次郎についても期待してをります。 2009/6/9(火) 午前 1:31 [ koreyjp] }
農とは確かに大切なものです。大自然の神と交流する、人間の基本的な営みですね。岡先生も日本の百姓は勤勉で「自分で耕して自分で得る」喜びを知ってゐる(これを自作自受(じさじじゅ)と言ふのださうです)」と仰ってゐます。しかし福岡氏が言ってゐることは無為の喜びであって、これは老荘思想に通ずるものです。
猶、福岡氏とは逆の考へ方を道元がしてゐます。道元は、食べるものを得るための営みなんて、仏を極める仏道に比べたら最低のものだと喝破してゐます。道元は、農業も唯物論だと言ひたいのでせうか。koreyjp ]

[ koreyjp ] さん、道元は食べるものを得るための営みに集中するすることは駄目で、食することは重要な修行の一つであると思っていたようにおもいます。現に、曹洞宗では典座(てんぞ)(料理をつくる係り)を重要に扱っています。道元が中国に渡った時、椎茸を買いに来た老僧に、もう遅いから舟に泊まっていけばよいではないですか」と言うと、この老僧は「日本からこられた若い方、まだ仏教の意味が分かっていないようです。私はこの歳になってようやく典座になれたのであって、私が帰らなければ多くの修行僧が腹を減らしているのです」のような会話があります。ですから禅宗では食事はとても大事な修行であると考えております。ところが農業そのものに対して道元がどう言ったかは分かりません。貴族出身の道元は農業そのものに興味がなかたのかもしれませんね。上座仏教でも僧侶は生産に従事するのでなく、信者から供されるものを食べることを良しとするところがあるますからね。木庵
[ koreyjp ]さん、禅宗は貴族的、武士的ということは宗教として洗練されているのですが、泥臭い世界に目を向ければ、違った世界も見えてくるとおもいます。洗練さを温存しつつ、泥臭い農業に目を向けるも本来の禅にあっても良いとおもいます。木庵

農業の改良を指導した宮沢賢治は、法華経の信仰が篤い人でした。「決シテイカラズ、イツモシヅカニワラッテヰル、サウイフ人ニ私ハナリタイ」です。ところで、http://polestar.0510main.jp/といふジャーナリスト出身の方のブログは大変面白いです。アウンサン・スーチーのこともでてきます。ご参考まで。 koreyjp
[ koreyjp ] さん、上のブログ、どのようにアクセスするのですか、私流にやってみましたが、出てきませんでした。木庵
岡潔先生は、「人類は相対性理論を発見してから僅かの間に原爆をこしらえた。これは科学の行きかたが間違ってゐた」といふ意味のことをよく仰ってゐました。人間は人間らしく生きることが必要であり、そのために教育勅語は良い指針でした。これは万難を排して復活させる必要があります。 koreyjp

[ koreyjp ] さん、相対性理論は哲学的に面白い考えですが、価値判断の基準がふらつくというところがあります。人間社会には生きる基準が必要です。教育勅語ほど人間社会を上手く機能させてくれる教えはないと思います。これを失った日本民族は混沌としていおります。復活が必要です。木庵
:自然:の意味を間違って使用したり認識されているように感じていましたが勉強になりました。有難う御座います。

mimiさん、コメントありがとうございました。ところで自然はどう定義すればよいのでしょうか。自然について福岡氏が述べたものと、木庵が述べたものがありますが、どちらが自然の意味を間違って使用したり認識しているのでしょうか。木庵
勉強になりました。
「自然」まで、つくられているような思いがありました。

「魂があって姿形がない」自然は、受け入れられない現代。
「形骸があって魂がない」自然が、自然となっている現代。
なんですね〜。

日本は、本当に自然の栄養に恵まれていると思います。
口伝に引き続けられている昔の人々の知恵には、感動します。
与えられた物ではなく、なにもないところから工夫していく能力は、
全ての人間に備わっているはずなのに、与えられることが当たり前になってきた結果、その能力はなくなってしまったのでしょうか。
kayomiさん、現代人は哲学や科学という、自然そのものを一部抽出する道具によって、本当の自然が見えなくなっているようです。ゲーテは言っております。「プリズム(道具)を通し雷光を見たくない。この目で直にみたい」と。福岡氏も言っています。このような態度で自然と接触するのを本能という次元で捉えて否定するのではなく、無分別智として捉えるなけらばならないと。実に壮大な自然観だとは思いませんか。木庵
木庵さん
すべて自然の中で生活し、何があってもそれを神の恵みだと受け止めれば、こんな幸せなことはありませんね。戦後のトンデモ憲法押し付けにより、日本人は正しくゆとりをもって思考することができなくなってしまひました。ちょっと振り返れば、自然に反して無駄なことはたくさんある筈です。 koreyjp
[ koreyjp ] さん、戦後憲法がいかに自然から反するものであることを今の日本人は知りません。GHQのニューディーラーが、実験的、どこの国の風土にも適さないような憲法を作ったのですから。それを有難くいつまでも持ち続けていることは全く自然に反します。木庵

今日も、勉強になりました。ありがとうございました。
バナナは先生の家にあるのですか?
私は、奄美大島の小さな村で生まれました。このようなバナナの木や、パイナップルの木が当たり前にありました。
日本の片隅の小さな島の小さな村が、私の記憶の中ではこれまで住んだ何処の土地よりも鮮明です。今もその頃と変わらない所も残っていると思います。もう、長い年月帰っていません。内海があり、山もあり、川もあって、今思えば、なんてステキなところで育ったのだろうと感謝です。 kayomi
つづく






自然農法(わら一本の革命)#48
kayomiさん、そうなんです。我がアパートにあるバナナです。この写真は昨年撮ったもので、このバナナ1房は知り合いの家でのバースデーパーティーで皆さんと一緒にたべました。今日バナナを見ますと、熟したものがありましたので近い内にいただけるものと思っています。ところでバナナの向こう側の木は何だとおもいますか。アボカドの木です。隣の家のものですが、たわわに実がなってよく頂きます。ロスでは一般の家の庭にアボカドが植えられているんです。アボカドの木1本あれば、家族だけでなく近所親戚友達に分け与えることができ、素晴らしいです。ただし根を張りすぎて、水道管や下水菅を壊してします難点はありますが。木庵
アボガドの気はそんなに大きくなるんですね!
実は、私はアボガドが大好きで、一昨年に種を小さい庭に埋めました。それが芽を出し、今は2メートルほどになっています。
実がつくのかな〜とちょっと楽しみだったのですが、下水管がすぐ近くを通っています。どこかに移す事にしますね、残念ですけど^^;

kayomiさん、アボカド、日本で実をならすのでしょうか??相当暖かいところでなければだめでしょう???木も少なくとも4メートルほどしないと実をならさないとおもいますよ。木庵
ヤギおじさん、コメントありがとうございました。この後、すぐにアメリカの「イミテーション自然」について、ブログに載せます。日本は折角、理想的な自然環境があるのに、窒素過多とは困ったことですね。屋久杉は日本の自然が生んだ世界の誇りです。この素晴らしい環境を守っていかなければいけませんね。木庵

スペインのコロンブスアメリカを発見したことは、foxtailなどのいろんな災ひをも持ち込んだのですね。インカ帝国もスペイン人に滅ぼされました。エスキモーも、インディアンも、中南米の原住民も、みな日本人と血液型がよく似てゐるさうです。(今で言へばDNAが似てゐるといふことでせうか)アジアと米州が一枚岩でつながってゐたかもしれないといふのは面白い話ですね。(10万年ほど前、ムー大陸が突然太平洋に沈没したとの話を読んだことがありますkoreyjp
お早うございます。続けざまのコメント失礼します。
こちらは梅雨に入ったかのような雨が2.3日続いております。
期待どおりの記事、ご同慶の至りでございます。
10年前欧州を訪ねた際に驚いた事がありました。
紳士の国イギリスの下水道は最近まで浄化処理施設も無く、何キロも先の海まで排水管を延ばし海洋投棄していたとのこと。
そして、ゴミの分別収集が徹底していたフランス。なのに当時まだ有鉛のハイオクガソリンでした。
過去の植民地支配で手に入れられる安い原油なるが故か、いずれ本能なるがまま生活領域を広げた結果であることは明白です。
凹凸ある道より平らな道、庭のほうが確かに楽です。楽をした分、結局失っているものがありました。
不自然なる思想原因の根っこがよく分かります。全く同感です。 ヤギ
確かに、アメリカ人はイミテーションを好むやうですね。私が高校生のとき、シカゴの郊外に住む一家にホームステイしましたが、その家の中には本物の観葉植物と、それらのイミテーションの植物が同じくらいの割合であり、それをhost mother がながめて悦に入ってゐるのを見て、なんとも奇異に感じたものでした。今、私の会社の事務所内にも、オールイミテーションの樹木が置いてあります。呼吸もせず、水分も出さず、ただただ埃を載せるだけのイミテーションです。 koreyjp
「我思ふ、故に我あり」、、、なつかしい言葉です。ルネ・デカルトは従軍して北ドイツに駐屯し、夜営の焚き火を囲んでゐたとき、ふとこの言葉を想起しました。岡先生は、デカルトの「我」を主宰者の意味だと言ってをられます。それは神に近いものでせう。しかしデカルトは低い次元並に誤解され、そこから自我が西欧に一人歩きをし始めたのかもしれません。パスカルですら、「瞑想録」の中で「かの無用にして有害なるデカルト」と警句を吐いてゐます。パスカルは「神がゐるかゐないか確立はともに二分の一だ。神がいないほうに賭けて、実際に神がゐなくても、得るものは0だ。神がゐても、得るものは0.一方、神がゐる方に賭けて、実際に神がゐ無くても、得るものは0.しかし神がゐれば、無限の恩寵を得られる。二分の一といふ高い確率で、無限の恩寵が得られるのに、神がゐる方に賭けないのは馬鹿げたことだ」と、やや損得勘定で神の存在を証明しようとしました。このパスカルを、岡先生は「低い天」と評されました。koreyjp
十年以上前ですが、旅行会社のポスターに、こんなのがありました。
若い女性が一人、広い空間にポツネンと立ってゐます。キャプションに「何もしないをしよう」とあります。つまり旅行をして、ボケーとしてみたら如何ですか、といふことを言ひたかったやうです。 koreyjp
木庵さん
福岡さんの話と同様、このブログも皆さんの話がからみあって、有機的に発展しました。お互いに大変有益でした。これからもこの調子でやって行きたいですね。どうもありがとうございました。koreyjp
koreyjp さん、次は白州次郎論です。また、よろしくお願いします。木庵
2009/6/8(月) 午前 1:13[ tak*ona*tou*a ]
かうして振り返ってみると、私たちは結構まじめに大切なことを論じ合ってゐたことが判ります。ブログの有意義な活用が出来たことを本当に嬉しく思ひます。次のテーマの白洲次郎についても期待してをります。 2009/6/9(火) 午前 1:31 [ koreyjp] }

自然農法(わら一本の革命)#46

自然農法(わら一本の革命)#46
<koreyjpさんの最新のコメントを紹介し、読者の方との交流を再現させる。読み返しても、お互いに向上しあったあとがうかがえ、嬉しくなる。木庵>
{木庵さん
福岡さんの話と同様、このブログも皆さんの話がからみあって、有機的に発展しました。お互いに大変有益でした。これからもこの調子でやって行きたいですね。どうもありがとうございました。koreyjp }
[ koreyjp ] さん、鈴木大拙の本に、「日本的霊性」、タイトルははっきりしないのですが、このような本がありましたね。木庵
[ koreyjp ]さん、日本人がおおらかさがなくなったのはいつからなのでしょうか。おおらかさとは相手を思いやる気持ちでしょうね。自分を振り返る前に相手のことが気になって仕方がないのですね。昔の人は身の程を知っていたように思います。木庵
自然は生きてゐる。人間も自然の一部として生きてゐるんですね。お百姓さんには自然の知恵が身につきます。木庵さんにもその知恵が大分身につかれたのではないでせうか。 koreyjp
[ koreyjp ] さん、私もお百姓さんのような知恵が身につくことを望んでいます。木庵
木庵さん
食糧危機が来ても、野生のもので食いつなげることができるやうですので少し気分が楽になりました。 koreyjp
[ koreyjp ] さん、以前こちらの教育番組で観たのですが、ロスあたりでも栄養満点の野草がいっぱい採れるのだそうです。どの野草が食べられるかどうかの知恵を元々アメリカインディアンはもっていたのですが、近頃その知恵が受け継がれていないと聞きます。残念なことです。木庵
木庵さん
日本でも「摘み草」といふ風習があります。私が小学生の頃、母がよく摘み草に連れていってくれました。嫁菜、くこ、せり、などなど、なつかしく思ひ出します。特に嫁菜は良い香りで、それをゆでてご飯にかけると最高でした。インディアンの野草も、きっとおいしいのでせう。 koreyjp
[ koreyjp ] さん、私には野草の知識があまりなく、せいぜい、せり、はこべ、ぜんまいぐらいしか知りません。知り合いがたんぽぽの葉っぱが食べられるといっていましたが、食したことはありません。つくしは鞘をとるのは大変ですが、最高に美味しいですね。木庵
今若者が農業をビジネスとして見直し始めています。
戦後進歩的と言われていた知識人は、日本文化の崩壊を目的とした、欧米の手先として活動、それに輪をかけているのが官僚です。
身体が狂うと身体に良い物がおいしく感じなくなります。
身体が健康になると身体に良い物がおいしく感じるようになります。
胃液の弱い人は、玄米を弱火で弾けないよに20分間位煎った後、白米に混ぜて炊くと大丈夫です。 iwa*ima*u*a1949
[ iwa*ima*u*a1949 ] さん、早速貴方の言われるようにして玄米を食べてみることにします。そうですよね、身体が健康だと何でも美味しく感じるし、体に滋養として吸収してくれますよね。木庵
木庵さん
「国民皆農」といふのは、大変に健全な考え方ですね。「自分の食べるものは自分で作る」「自分の国は自分で守る」これが基本です。 koreyjp
[ koreyjp ] さん、戦後、農業から離れることが新しい生き方であると思ってきましたが、自分の食べるものは自分で作る、これほど健康的なことはないですね。それに玄米は栄養があるのでそれほど肉などを食べなくても良い。ということは食事代が余りかからないことになります。私が玄米食をしていた頃、沢山お金を貯めました。その金が留学費用になったのです。木庵
かつて、朝鮮の民族舞踊を見たことがありますが、垂れ幕に「農者國之基也」(農は国のもとなり)と書いてありました。聖業とは、いい言葉ですね。
ところで森信三先生の『修身教授録、一日一言』をやっと入手しました。なかなか奥が深いですね。快調に読み進んでゐます。koreyjp
[ koreyjp ] さん、「士農工商の農が二番目であったのは武士が農民から米を搾取するために二番目にランクして農民をおだてて、搾取しやすくしていた」というようなことを学校で習いました。これはマルクス的階級史観が影響されていたのです。正しい日本的な見方は「聖業」であるから二番目だったんですね。武士も元はといえば農民でした。木庵
木庵さん
いつもTBを有難うございます。
贅沢をしないで余裕のある生活をするといふことは、人生設計の基礎ですね。俳句を作る余裕もよいことです。宮沢賢治の詩は、「一日5合の玄米と、味噌と少しの野菜を食べ、、」だっと思ひます。
猫の写真も、可愛いですね! koreyjp
こんばんは。
この記事を読ませてもらって、先日23才の次男と話したことを思い出しました。今、若者の就職難といわれ、若者でなくても失業している人たちがもの凄く多いです。仕事がないのではなく、仕事はあると思うということを次男と話したのです。農業や福祉の方は、人手不足なのです。ですから、都市部に集中して仕事を選んでいる事と、
福祉の方は、過酷な労働にもかかわらず低賃金である事で、その方面にに希望する人たちが少ないようですね。福祉関係者の賃金の事は国にきちんと整備してもらいたいと思います。農業につく若者達の支援策もきちんと国が立てて援助するべきだと思うということを話しました。今の不景気は、車も電気製品も、もういいんだということかもね〜と二人で言っていたんです。
[ koreyjp ]さん、この猫は姉の家に飼ってある猫です。「ガブちゃん」と言って、よく噛むのです。私も一度噛まれました。わがままな顔をしていますがどことなく愛嬌がありますね。今の日本人の生活を考えると貴族の生活です。衣食住、贅沢すぎます。他人が贅沢だから贅沢しないと時代に遅れると思っているのですね。賢治の世界に生きれば案外面白く人生に余裕ができるんですけどね。木庵
kayomiさん、そうなんです。仕事はあるのです。農業のような仕事は最初はつらでしょうが、やってみるときっと楽しくなるでしょう。それも福岡氏の農業はあまり働かない手を抜く農業ですので、なおさら良いとおもいます。先ず、世間体を気にすることを捨てることです。綺麗な服を着たい、綺麗な家に住みたいという欲望をすてれば、玄米と野菜と少しの魚で食生活は大丈夫、余裕が出来れば、教養もついて、形ではなく内面の豊かさを感じ自信もつくことでしょう。このような発想が今日本に必要だと思いますよ。それにしても次男さんと根のある話が出来ていますね。それもkayomiさんが地に着いて人生を歩まれているから、息子さんにそれが通じるのですね。木庵
つづく