白洲次郎論#7

<#6の反応は大きい。紹介する。木庵>
あはは、面白いです。天国で小林さんや白洲さんが「うん、よく言ってくれた。その通りだよ」と喜んでゐるやうな気がします。 [ koreyjp ]
『次郎と正子』の筆者である牧山桂子さんの次兄と、小林秀雄の娘が結婚したのです。小林が神田に住んでゐたころ、近所に住んでゐていつもやさしくしてくれたお兄ちゃんがゐましたが、戦死してしまひました。小林は自分の息子が生まれたら、その兄ちゃんの名前「龍太」(りょうた)をつけようと思ってゐましたが、女の子で、白洲次郎の息子に嫁いだ。しかし姓名判断上、白洲に龍太は合はないと言はれた。そこで、妹の息子に付けた、といふことなのださうです。
「『まきやまりょうた」と口に出して言ってみろ。何といういい響きだ、「牧山龍太」と書いてみろ、何と美しい字だ、と、小林さんは自分の孫のように喜んで下さり、将来の幸せが約束されたような気になりました」と桂子さんは書いてゐます。なんとなくジンとくる話ですね。 [ koreyjp ]
[ koreyjp ] さん、喜んでいただき嬉しいです。貴方のコメントが、思わぬ白洲次郎論、小林秀雄論日本人批判論に展開しました。今後も本質に繋がる次郎、正子、小林の逸話やコメントをお願いします。木庵
なにも知識のない私も、おもしろかったです。koreyさんとのやり取りも、とてもおもしろいです。この場所にくることができて、よかったです。
kayomiさん、これからどの場所に行くのでしょうか。私も分かりません。kayomiさんやkoreyjpさんのコメント次第で、たどり着く場所も変わってくるのでしょうね。木庵
木庵先生。
トラックバックありがとうございました。小林秀雄。一冊だけ持っております。
中学の時に買った「考えるヒント」です。時折、ペロッとめくって楽に読めますんで、未だに持っています。ページは、もう茶色くなっていますけど。愛読書というわけではないんです。これ1冊だけですし。書店に行き、「なんとなく」という緩慢な気持ちで購入した事を覚えています。それから30年。ずっと「なんとなく」読んでいるような。そんな事を思い出してしまいました。
白洲次郎論」毎回、楽しみであります。ありがとうございます。 [ ケロっと。君 ]
ケロっとさん、先日私も「考えるヒント」を買いました。古本屋でなんと1ドルでした、他の小林の二冊もそれぞれ1ドルでした。とても安い買い物をしたことになります。「考えるヒント」、これから読むところです。知り合いのレストランが私の図書館です。現在ロス時間の午後3時5分、今から出かけます。木庵

ご訪問、コメント有難うございます。
小林家と白洲家とは、小林秀雄の長女明子が白洲次郎・正子の次男兼正に嫁いでいるという関係です。小林と正子の関係は骨董を通じた交流があり、正子は小林について、「たいへんこわい先生」という言い方でその畏敬の念を示しています。
戦後小林は、「俺は反省しない」と述べた意味は、けっして戦争が勝つなどと思っていたからではなく、「神国日本」とか「討ちてし止まん」とか叫んでいた日本人が、戦後いとも簡単に、軽薄に、民主主義を謳歌し、反省している姿に苛立ったからに他ならないものと思われます。(ある読者から)
ある読者さん、私の読んだ本によると「戦争は勝つと小林は信じていた」と書いてありましたが、戦後「俺は反省しない」と言った理由は貴方の言われたことが主な理由だと思います。貴方のブログを覗かせていましたが、貴方の考え方の深さを感じました。今後とも宜しくお願いします。木庵(注:内緒でコメントがきましたので、ある読者からと表示した)
久しぶりにコメントをさせていただきます。日本がドイツと手を結んだのは日本一国では列強に対抗できないと、感じていたからでしょう。ドイツと組む前は、日英同盟というものがあり、それを一方的に破棄したのは英国ですから、当時の権力者は危機感を募らせ独逸、伊太利へと走らざるを得なかったと考えます。その結果は歴史の示す通りです。 [ 天空小僧 ]
[ 天空小僧 ] さん、コメントありがとうございました。英国の日英同盟の一方的な破棄の背景について、GHQ焚書図書開封西尾幹二http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/27916666.htmlで書いております。宜しかったら読んでください。体質的に日本とイギリスが結びつかないものがあったのでしょうね。木庵

父の事業破綻と次郎の帰国

 次郎のケンブリッジでの日々は夢のように過ぎ去った。車やデートだけに夢中だったわけではない。優秀な教授陣に囲まれて学問の楽しさも理解できるようになり、「できれば学者になりたい」と、いつしか思うようになっていた。白洲家は元々儒学者の家柄であり、学者の血が目覚めたのである。そのような希望に夢膨らましていたときに、一つの電報を受け取った。金融恐慌のあおりで父・文平が経営していた白洲商店が倒産したという知らせであった。家が倒産した以上、イギリスにはおれない。あまり好きでない父親でも、支えなければならない。兄が心の病気に侵されているからには、次郎が長男の役割を演じなければならない。友人ロビンは真剣に心配してくれたがどうすることもできない。再会を約束して、一路帰国の途についた。

  昭和3年(1928年)、8年間の留学生活にピリオドをうち、次郎は日本の土を踏んだ。心配していた兄・尚蔵は思ったより落ち込んでいないのに安心した。父・文平はもはやかつての実業家としての張がなくなっていた。それも家にいると債権者との対応をしなければいけないので、しょっちゅう家を空けて花柳界に憂き晴らしをしていた。家にいるときは、部屋を一歩も出てこない。いつも逃げられどうしの債権者は、文平にぶつけられない不満の捌(は)け口をしばしばよし子に向けた。次郎は無責任な文平に迫ることがあった。文平は次郎の生意気な態度が許せなく、次郎を殴りとばした。次郎はもはや父親より大きくなり本気になれば父を殴り返すこともできたが、さすがにそれはしなかった。よし子が中に入ったからである。しかし、次郎はもはや父親とともに生活することをやめ、東京で仕事を探すことにした。結局次郎が就職したのは「ジェパン・アドバタイザー」という英字新聞社であった。ちょうど昭和3年11月に昭和天皇即位の御大典が行われたこともあって、日本の歴史や文化を外国人にわかりやすく紹介する連載記事を持たされ、相当の収入を得ることができた。そのほとんどは伊丹への仕送りにあてた。もちろんよし子宛であった。
   この時代に次郎にとって運命的な出会いがあった。その相手は後に妻となる樺山正子である。ここで、樺山正子、後の白洲正子について述べてみる。木庵の白洲次郎論はどのように展開するかわからないと最初の断ったように、ここから少し脱線する。言い訳をする。小林秀雄を今読んでいて、このあと小林秀雄論を書くと前に書いた。小林秀雄の文章が難しいのは、語彙の豊富さやトピックスの高尚さだけではなさそうであることを今の段階で木庵は感じだしている。難解さのもう一つの理由は、小林が文章の構成とか順序を無視して自由気ままに、瞬間瞬間に思いついたことを書いているところからきているようだ。彼も告白している。「今書いているが、この後どうなるか判らないのだ」と。要するに自由人小林は関西弁の言葉で言えば「エエカゲン」にペンを動かしていたのである。ただ天才小林にはそれでも十分、読者を引き付ける筆力があり、文化勲章までもらう文豪としての評価が定着した。木庵は文学など理解できないいわば文学における子供である。この子供木庵が裸の王様の小林秀雄を後ほど批判、批評しようと思っているが、白洲次郎論で、小林の悪乗りを真似てみたくなり、支離滅裂にも白州次郎論から急遽白洲正子論へとレールをスイッチすることにする。読者は、まだ次郎のことがまだ掴めていないのに正子論への移動に拍子抜けされたであろうが、これも最初に述べたように、もはや読者は白洲次郎については大体のことがわかっておられるとした上での、木庵の独断と偏見の白洲次郎論にお付き合いを願いたい。
つづく