白洲次郎論#9

白洲正子小林秀雄との出会い

白洲次郎、正子を語るとき、小林秀雄についてどうしても触れなければならない。小林秀雄論は後ほどに書くとして、正子は、次郎、正子と小林の最初の出会いについて、「白州正子自伝」で次のように書いている。

小林秀雄さんに私がはじめて会ったのは、終戦後(1946年)のことである。その頃白州は吉田茂氏の下で働いていたが、重大な話があるというので河上さんの紹介で鶴川村(木庵注:戦争が始まってからだと思うが、白州次郎は戦争が負けることを予見し、また東京は空襲で焼け野原になることも予見して、東京の郊外の鶴川村に引っ越し、農民生活を送っている。このことは、後ほど触れるであろう)訪ねて来られた。重大な用件とは、吉田満の『戦艦大和ノ最期』の出版の許可が降りないので、GHQに頼んでくれ、というのだった。・・・田圃の中の一本道をせかせかと歩いてくる男がいた。すぐ小林さんと解った。玄関(土間)へ入って外套を脱ぐ間もなく、暖炉の前に座っていた白州と、ろくに挨拶もせずはや口で喋べりはじめた。まわりにいる河上さんも私も子供たちも完全に無視され、進駐軍から貰ったとっときのウイスキーにも手をふれなかった。これこれしかじかで、・・・今、どうしても出版しなければならない本なんだ。よろしく頼む。・・・会談はそれだけで終わった。小林さんの単刀直入の話しぶりは気持ちよく、初対面の人間を全面的に信用している風に見えた、白州もそういう人間が好きだったから、話は一発できまり、必ず通してみせると胸を叩いた。後は酒宴となり、世間話に打ち興じたが、著者の吉田満のことを小林さんが『そりゃダイアモンドみたいな眼をした男だ』と、ひと言で評したのを覚えている。・・・間もなく創元社から『戦艦大和ノ最期』は出版されたが、・・・その後吉田満は(私の知る範囲では)大した仕事もせずに亡くなったが、作家にとって、数多い凡作を残すより、ただ一冊の名著を後世に伝えることの方がどれほど意味のあることか。『戦艦大和ノ最期』は今や日本の古典となって生きつづけている。」


正子は小林の最初の印象を実に旨く表現している。小林が「ダイアモンドみたいな眼をした男」吉田満という作家のことが気になる。また『戦艦大和ノ最期』も読みたいところである。

ところで、ym7**2さんという方が以下のような吉田満の文章や『戦艦大和ノ最期』について書いておられたので、紹介する。


   死の存在は、太陽のように明々白々であり、かつ測り難く奥深い。死は永遠の時を支配し、しかも人間の思慮をこえて唐突にやってくる。死にたいしては、ただ謙虚におのれを差し出して、一日一日を生きるほかないであろう。

                 吉田 満  『戦中派の死生観』「死」
 
    吉川英治小林秀雄林房雄河上徹太郎三島由紀夫。『戦艦大和の最期』の跋文に名を連ねた作家、評論家である。だからといって言うわけではないが、同書は戦争文学の名作として長く記憶されるべきものであろう。世界に誇る戦艦大和が沖縄の海に轟沈されるまでの悲劇が、抑制された文語体により格調高く描かれている。その作者が、戦後折にふれて書いたエッセイ集が『戦中派の死生観』である。『戦艦大和の最期』は当初、進駐軍の検閲により出版が出来なかった。小林秀雄白洲次郎に頼み、進駐軍に許可の働きかけをしてもらったという興味深いエピソードも、披露されている。しかし、内容の多くは、平和な時代にあって、戦争とは何だったのかという真摯で知的な内省である。戦後レジュームの見直しなどという時代にあって、ますます読み継がれるべき一冊であろう。
    上の「死」と題する文章も、死の淵から生還した人間にしか言えない重みをもっているのは言うまでもない。

   上の文章のブログアドレスは次の通りである。http://blogs.yahoo.co.jp/ym7562/trackback/1512351/45800860

木庵は『戦艦大和の最期』を読んでいないので吉田満の文学について何も言えないが、「死」の文章は、死を「太陽のように明々白々」とは、少し次元が違うが、小林が「ダイアモンドみたいな眼をした男」と賞賛した意味が理解できそうである。

白洲次郎吉田茂との繋がりがなければ、小林との接点はなかったことは間違いない。そこで、これから白洲と吉田茂との出会いから絡みについて、青柳恵介著「風の男白次郎」や北康利著「白洲次郎占領を背負った男」を参考にしながら白洲がどのようにして政治と関わってきたかを述べる。吉田茂は戦前戦中戦後における、日本に大きな影響を与えた外交官、政治家であることは誰も知るところである。二人の関係を述べていくのに、当時の政界、世情にも触れなければならないであろう。吉田について述べる前に、近衛文麿について簡単に触れる。


近衛文麿
 
近衛家藤原鎌足を始祖とし、平安時代以降、摂政関白を輩出してきた五摂家の一つ。天皇家から養子を迎えたことがある唯一の家系である。同じ家族でも明治以降の論功行賞で爵位をもらった”新華族”とは格が違う。近衛文麿は貴族社会の頂点に立つ人物、まだ40代前半と若く、世間では“近衛首相待望論"が出ていた時代に、白洲は近衛に接近しだしている。二人の仲をもったのは白洲の幼なじみの牛場友彦であった。牛場は近衛の私設秘書をしていた。次郎は貴族的な雰囲気が嫌いではない。牛場がいるという気安さもあって、しばしば近衛邸を訪れるようになった。そしてそれは、白洲が政治の世界に関心を持ち始めるきっかけとなった。近衛は昭和天皇の前でひざを組む唯一の人間として知られていた。「後年次郎が時代の風潮である天皇崇拝に染まらなかった一つの理由は、近衛の近くにいて天皇制度を客観的に見ることが出来たからかもしれない」と、北は述べている。牛場は第一次近衛内閣「昭和12年6月~14年1月」の成立に際して首相秘書官に起用され、側近たちの活動はより活発なものとなっていった。松本重治、西園寺公一(きんいち)、細川護(もり)、犬養健(たける)、尾崎秀(ほつ)実(み)、といった面々が側近グループの中心である彼らはいつも近衛と朝食をともにしながら情報交換を行っていた。ところで尾崎はゾルゲ事件で死刑になるが、彼のペンネームが"白川次郎”であったから、次郎のことを親しみを持って見ていたにちがいない。側近は近衛のことを“カンパク"と呼んでいたが次郎は”オトッチャン"と呼んでいた。次郎は一時近衛の要請で長男文隆の面倒を見ていたときがあった。文隆はプリンストン大学に学んでおり、ゴルフ部の部長を務めたほどの活発な青年であった。ところが次郎のケンブリッジ時代と同じようにカーレースに熱中したりして学業不振のため卒業できずに帰国していた。帰国後も名家に生まれたことに反発し、わざと不良っぽいことをしたりして、手を焼かせていた。近衛は文隆に面と向かって小言を言えないので、次郎に説教役を頼んだ。ある時次郎が近衛邸の二階で文隆を大声で叱っていると、「そんなに言わなくても文隆は分かるよ」と近衛が泣きをいれた。それに対して次郎は、「これはもともと、あなたの指図でやっていることでしょう」と声を荒げて言い返すと、近衛は肩をすくめながらほうほうの体で階下に降りていった。次郎、近衛の人間性がよく出ている逸話である。ところで、近衛文隆はその後出征し、満州終戦を迎えた。近衛の息子だと目をつけられ、11年の長きにわたり極寒の地シベリアに抑留され、昭和31年10月29日、ついにチェルンツイ収容所で最期を遂げている。
つづく