白洲次郎論#11

白洲次郎近衛文麿吉田茂との関係について書いたが、読者は次郎が帰国後、「ジャパン・アドバイザー」という英字新聞社に勤めたことは理解したが、その後次郎がどのような仕事に就いたかなどの動向について、分からない部分が多いであろう。それを知らずして次郎の実像が掴めないと思われている方もいるであろう。そこで、「ジャパン・アドバイザー」以降の次郎の動向について書く。

「ジャパン・アドバイザー」以降の白州次郎の動向

昭和6年(1931年)、次郎はケンブリッジ時代の同級生ジョージ・セールからは一通の手紙を受け取った。貿易商社の御曹司だった彼から、不振だった日本法人の整理を手伝ってくれという内容であった。次郎の父・文平が綿花貿易をしていたことから次郎も貿易には興味を持っていたので、すぐに引き受けた。ジャパン・アドバイザーを退社し、セール・フレーザー商会の取締役に就任した。月給は500円、当時の東京府知事の月給が450円の時代であった。次郎は給料に見あった仕事をするため猛烈に働いた。当時の日本ではまだ欧米を知る者はそう多くなかった。次郎のような人材は引く手あまたであった。この頃彼は、共同漁業の田村啓三社長から強烈なアプローチを受けていた。田村社長は日産コンツェルンの鮎川(あいかわ)義(よし)介(すけ)の協力を得て業務を急拡大させようとした。そのためには次郎の英語力と海外の人脈が必要だったのである。田村は次郎に次のようなことを言った。「わが国は鉱物資源のない国。外貨を稼ぐのも至難。ただ日本には海洋資源がある、それを冷凍したり缶詰にして加工すれば付加価値がでて、外貨を稼ぐことが出来る。これはまさに国のためである」。金儲けのためではなく、国のためだということに次郎の心は動いた。セール・フレーザー商会の仕事が一段落していたので、田村の申し出を受けた。田村の次の言葉の方が白州を動かせた理由なのかもしれない。「白洲さんには役員になってもらい好きにやっていただきます。世界中を回ってもらいますが、とくに英国には毎年行ってもらうことになるでしょう」。昭和12年(1937年)3月、まずは買収先の日本食糧工業に入社して合併準備を行い、同年12月、共同漁業と合併後名前が変わった新生"日本水産"の取締役外地部部長に就任した。35歳の時であった。缶詰、鯨油の輸出先拡大が主な仕事であった。鯨油はマッコウ油とナガス油に大別されるが、前者は蝋燭や洗剤、口紅などの原料になり、後者はマーガリンに加工された。鯨油マーガリンはこの当時、オランダ、ドイツ、イギリス、デンマークなどで大規模生産が行われており、次郎の仕事の中心はこれらに国への日本産鯨油の売り込みであった。当時次郎は一年に4ヵ月ほどしか日本にはおらず、世界中を飛び回っていた。毎年ロンドンにも出かけ、ロビンとの友情も復活した。彼から大口の顧客を紹介してもらったりした。次郎は当時、貿易こそ、国を豊かにするとことを身をもって知ることになる。次郎が出張している間、正子はひとり暮らしをしていると錯覚するほどであったが、結構次郎のいない生活をエンジョイしていたようである。というのは、正子は華やかな社交界によく呼ばれることがあったからだ。長男・春正が最初に覚えた言葉が“お呼ばれ”だったというから、笑えない話である。春正は成人してから、次のようなことを言っている。「戦前の華やかな社交界の生活が、戦後振り返ってみるといかにむなしい虚飾の世界であったかいうことに気づき、そのことが正子を”侘(わ)び寂(さ)び“の世界に駆り立てたのではないでしょうか」。

ドンキホーテーと見られた吉田

海外出張の多い次郎は吉田のために、イギリスの駐日大使ロバート・クレーギーとの連絡役も買って出た。英国のチェンバレン首相は当初、吉田の開戦回避の動きが、宮中に影響力を持つ牧野を通じて皇室にまで繋がっていることを高く評価していたが、やがて外務省内が松岡の息のかかった枢軸派(親ドイツ派)で占められるようになると、吉田の提案と日本の外務省の動きとがあまりにも離れてきたため、次第に吉田がドンキ・ホーテのようにしか見えなくなっていった。失意の中、昭和13年9月3日、吉田に帰国命令が出た。帰国して浪人状態となった吉田だがまだあきらめてはいなかった。昭和15年7月、第二次近衛内閣が発足。三国軍事同盟締結の機運が高まると、吉田は。「是が非でも同盟締結だけは阻止しなければ」と、近衛に対し内閣総辞職を求めた。しかし、吉田の願いもむなしく、同盟は締結された。近衛は蒋介石とは対決姿勢を明確にしていたが、米英との開戦だけは何とか阻止しようと努力した。だが、第二次近衛内閣に閣僚として入れた東条英機陸相と松岡洋祐外相に振りまわされ、なかでも南仏進駐は致命的で、米国の対日石油禁止措置・在米日本資産凍結という態度硬化をもたらした。時間がむなしく過ぎ、昭和16年11月、ついに“ハルノート"を手渡された。

  この一連の歴史の流れの中で、吉田、近衛、東条、松岡の行動をどう分析するか。これは歴史家によって解釈が違ってくる。吉田茂のこの当時の活動を高く評価すれば、当然東条や松岡を非難することになる。東条は東京裁判での堂々たる態度に、東条の一連の動きを評価する風潮も現れている。ところが松岡に関しては、特に松岡は昭和天皇からも嫌われていたということから、よく書いているものをあまり見たことがない。

松岡擁護論

歴史上の人物にしても普通の人間にしても、完全な悪人や善人という者は存在しない。松岡は少なくとも日本の国を思って国際連盟脱退、日独伊同盟を推進したのであって、現在の歴史家が彼の行った選択は全て悪かったとするのは、どこか浅い了見のように思える。松岡が強気の選択をせざるをえなかった国際情勢や国内事情があったことを考えなければならない。未来を予見する読みが浅かったことはあるだろう。直情型松岡が世界情勢を冷徹に見ることが出来なかったことはあるだろう。前述したように、松岡が連盟総会に脱退を決意して参加するとき、吉田から、「出かける前に頭から水でも浴びて、冷静になりなさい」と言われたように、松岡は察するに策士ではなかったようである。連盟を脱退した後、どのような情勢が待っているかの把握が甘かったようである。よく言われることであるが、「脱退後、日本が世界から孤立したが故に松岡の選択は間違っていた」という論点を木庵は納得しない。なぜなら、脱退することが当時の国際情勢から考えると、孤立への道を進むとは考えられないからである。アメリカはもともと連盟に参加していない。連盟自身の機能が戦後できた連合とは比べものにならないほど弱体であった以上、脱退の意味するのはそれほど大きなことではなかった。だから、連盟脱退を日本の孤立化とは直接結びつかない。ただ、日独伊同盟の決断は孤立化というより、明らかに米英を敵とする意思表示であったと言える。当時の一連の動きの中で、松岡一人に責任を押しつけているのは、戦後の風潮である。江戸時代農民が一揆をおこない、処罰の段階で、リーダーの一人が処刑されることによって収拾を図る(処罰する側においても、される側においても)日本的解決法があった。そのとき、処罰される側において、犠牲者の魂を永遠に伝えようとした。例えば義民の碑を建てて犠牲的精神を後の世まで伝えようとした。このような人情があった。ところが、松岡に対して、松岡は一種の戦争の生贄であったのだが、一揆のリーダーのような人情的同情や尊敬がない。木庵は松岡が戦前にどのようなことを行ったか、それがどのように戦争への道を歩ませる要因になったかのようなことに対して興味を持つと同時に、戦後の松岡に対する国民感情があまりにも冷たく、戦後日本人のある種の感覚の欠落を発見する。戦前の日本国民は多少の違いはあれ、ほとんど松岡の考えを支持し、どちらかというと松岡的であった。それを戦争が負けたとたん、松岡一人を悪者にして、自分はあたかも吉田や白州のように反戦の考えであったとか、米英と結びついていた方がよかったという戦後の流れに迎合した考えに自己を変えていった浅慮さに呆れている。こういうのを厚顔無恥という。ただ松岡を批判するとするなら、戦前の時流の流れに彼は乗りすぎた。時流に乗るような人間は自分の考えではなく大きな流れの中に自己を埋没させてしまう傾向がある。その点、戦前の吉田や白州には自己を埋没させることはなかった。ただ言えることは、同じ人間でも、時代の流れに同調しなかった時期があっても、ある時から時流に乗り出すと、自己を失うことがある。人間とはそのようなものである。そういう意味で、戦後権力側に立つようになった吉田、白州が、自己を失っていくようになるのか失わなかったのか、興味のあるところである。そのあたりも後に分析できればよいと思っている。
つづく