自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編#18

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編#18
第4章 不磨の大典となった「村山談話

「日本人はいつからこれほど悪く言うようになってしまったのだろうか。大東亜戦争中に独立を果たしたビルマの初代首相だったバー・モウは日本の戦前、戦中世代には馴染みの深い人だ。日本が呼び掛けて昭和18年(1943)に東京の国会議事堂で二日間にわたって開いた大東亜会議でも出席してこう述べている。『アジアの独立した諸国代表が、史上初めて一堂に会する機会を持った。それは1943年11月5,6日の両日、東京で開かれた大東亜会議(
THE ASSEMBLY OF GREATER EAST―ASIATIC NATIONS)である。事実これは歴史を創造した』(『ビルマの夜明け』太陽出版)
   大東亜会議は、米英などの連合国の大西洋憲章に対抗して日本の戦争目的を討議したもので、参加者は日本(東条英機首相)、中国(汪兆銘行政委員長)、タイ(ワイワイタヤコン首相代理)、満州国(張景恵国務総理)、ビルマ(バー・モウ首班)、フィリピン(ラウレル大統領)、インド(チャンドラー・ボース自由インド仮政府代表)の七カ国の代表であった。すでにこの年はガダルカナルからの撤退、5月にはアッツ島守備隊玉砕があって戦況は悪化していた。バー・モウはサイゴン、台湾経由で日本にやってきたが、途中サイゴンを出たところで搭乗機が墜落、危うく一命を取り留めている、しかし、アジアの代表は危険を乗り越えて東京に集まり話し合った。インドネシアはこの段階で独立していなかったため参加しないが、会議のあと、スカルノとハッタが東京に招かれて昭和天皇に拝謁している。ベトナムラオスカンボジアは独立が終戦直前であったため参加しない。・・・日本は、結局は大東亜戦争に敗れたが、バー。モウは『歴史的にこれを見るならば、日本ほどアジアを白人の支配から離脱させることに貢献した国はない。しかし、また、その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから日本ほど誤解を受けている国はない』(『ビルマの夜明け』)と日本の立場を深い共感を示してる。・・・戦後GHQの下で働き労働基本法の策定に携わった米国の日本専門家のヘレン・ミアーズ女史は『アメリカの鏡・日本』(角川書店)で、『歴史的に見てアジアの民衆を『奴隷にしていた』のは日本ではなく私たちが同盟を結ぶヨーロッパの民主主義諸国である』と明確に断じている。・・・それを侵略戦争と決めつけ、一方的に謝罪する『村山談話』なるものは、祖先への冒涜であり、現代を生きる私達や子孫への犯罪であるということなのだ。・・・1975年にタイの首相をやったククリット・プラモードという人がいる。彼は、現地の新聞、『サイアム・ラット紙』の主幹をしていた1955年6月、国賓待遇で現地を訪れた元駐タイ日本軍司令官中村明人陸軍中将に対して次のように述べたと言う。『日本のおかげでアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話が出来るのはいったい誰のおかげであるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。12月8日は、我々はこの重大な思想を示してくれたお母さんが一身を賭して重大な決意をなされた日である。さらに8月15日は我々の大切なお母さんが病の床に伏した日である。我々はこの二つの日を忘れてはならない』」

<日本国が大東亜戦争を決意した時、詩人高村光太郎は次の詩を書いている(「私たちは忘れない」という映画の中で紹介してあった。少し聞き違いがあるかもしれない)。
黒舟以来の総決算の時が来た。民族の育ちがそれを可能にした。

長い間 こづきまはされながら、なめられながら、しぼられながら、

仮装舞踏会まで敢えてしながら、彼等に学び得る限りを学び、

彼らの力を隅から隅まで測量し、彼らのえげつなさを満喫したのだ。

いまこそ、古しへにかへり 源にさかのぼり 一瀉(いっしゃ)千里の 奔流となり得る時が来た。

詩人高村の魂の叫びである。当時の日本の置かれた状況をこれほど的確に表現したものはない。このような先人の魂に、唾を吹っかけたのが村山である。国賊と呼ばれても仕方がない。一般市民が村山のようなことを言うのはある意味で仕方がない。ところが国家の長である者が、世界に日本の戦争責任を認めたことの重大さは計り知れない。国家としてのプライドを傷つけただけでなく、命を犠牲にして国難にあたった英霊に対し、どう釈明するのか。憤りを越して、情けなさと悲しさが押し寄せてくる。歴史に対してもっと真摯でなければならない。日本人でないバー・モウやククリット・プラモードが日本の犠牲によってアジアが独立したことを感謝しているではないか。日本の戦局がよくないときに、日本に集まったアジア各国の首脳の思いは如何なものであったのだろう。「大樹の陰」というような打算ではなかったはず。大東亜共栄圏という発想が、日本のみの繁栄を目指すものではなかったはず。百歩譲って、日本中心に考えた大東亜共栄圏だとしても、アジア全体の繁栄なくして欧米勢力に立ち向かうことが出来ない当時の情勢があったのである。欧米の植民地政策がアジアに侵食し、アジア人から莫大な富を奪い取り、アジア人の心をもて遊んでいたのである。それに真正面から対抗したのが唯一日本であったのである。日本を兄と慕い、日本と運命を共にしようとしたこれらアジアの首脳の思いが今も蘇る。歴史とはこのように、静かに心を沈思し、当時を想像すれば、先祖の心の響き伝わってくるものである。ところがイデオロギーに汚染されたり、党利党略のみに心が奪われ、乱れた心で歴史を見れば、現在の価値観でしか過去が見えてこない。村山氏と言えば、阪神大震災のとき自衛隊への援助要請を出すのを渋り、瓦礫の下で助けを求めていた多くの人を見殺しにしてしまった張本人である。過去の人間の命を侮辱した上、現存する命までないがしろにした責任は、彼が鬼籍に入っても、この悪行は記録されることになる。問題は、本人に罪の意識がないことである。村山なる人物、個人的には好人物と聞く。好人物であれば反省する心もあるのだろうが、彼の周辺が彼の反省を妨害する状況を作り出している。現に現政権でさえ、村山談話を受け継いでいる。何故破棄しないのか。田母神氏も言っている。「一度妥協により、基軸を左にしてしまえば、左によったところが次の基軸になり、妥協妥協を重ねるに連れて、基軸がどんどん左にずれていき、保守が保守ではなく左翼に変わっていく」。そのような状況を作り出した日本で、村山は罪の意識などどこにもない。ただ元総理大臣という栄誉(?)に満足しているだけなのだろう。木庵>

英国も自虐史観に悩んでいた

「自国のことを悪くいう自虐史観に悩んでいたのは日本だけではない。大英帝国として世界中に植民地を持ち、アフリカの奴隷貿易を行っていたイギリスもかつてはそうだったのである。1970年代から80年代に入って、イギリス人は誇りを失い、働く意欲を失っていた。かつての威光はどこにも感じられなかった。世に言う『英国病』である。学校でも学級崩壊といった現象があって学力も極端に落ち込んでいた。その学校でまかり通っていたのが、大英帝国を『侵略者』と断罪する教育である。例えば、ロンドンの初等教育で使われる教科書に『人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか』という教科書があった。左翼団体が公費を使って作っていた教科書で、そこにはドクロで埋め尽くされたイギリスの地図や、アフリカを搾取するイギリス人を太った豚に例えたイラストなどが満載されていた。そしてイギリスは『人種差別に満ちた侵略国家』であり、『白人文化は残虐非道の文化』であると徹底的に非難されていた。
  こんな教科書で教育されていては、子供たちは国家にプライドが持てるはずがないと考えた時の首相のサッチャーは教育の大改革を実行したのである。改革の柱は、自虐的な偏向教育の是正と教育水準の向上である。歴史のカリキュラムについては『自国への誇りやアイデンティティの形成』が目標とされた。先ず国定のカリキュラムを作り、全国共通学力テストを実施した。そして、女王直属の学校査察機関をつくり、五千以上の査察官を全国に派遣して、国定カリキュラム通りに教育が行われているかどうかをチェックした。その結果、水準に達していない学校は容赦なく廃校にしたのである。勿論学校の教職員組合労働組合からは猛反対を食らった。教職員組合は半年にわたってストライキを実施したが、サッチャーは屈しなかった。」
つづく