自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編#19

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編#19
アメリカでは、レーガンが1983年に「危機に立つ国家」という報告書を掲げて教育改革に踏み出している。ベトナム戦争後、アメリカでは国家に対する信頼が薄れ、家族も学校も崩壊状態にあったからである。これに対してレーガンは規律の重視、家族の価値重視などアメリカ的な価値を強調することで教育改革に踏み出したのである。アメリカの90年代の繁栄はこのレーガン改革抜きには語れない。サッチャーレーガンも国民の価値観を大きく転換することで国家を蘇生させた。」
「日本が戦時中に東南アジア各国から受け入れた留学生(『南方特別留学生』総数約二百人)の一人、マレーシアのラジャ・ダト・ノンチェック氏にこんな詩がある。

かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は親切でこころ豊かだった
アジアの国の誰にでも
自分のことのように一生懸命つくしてくれた

何千万人もの 人のなかには 少しは 変な人もいたし
おこりんぼや わがままな人もいた
自分の考えを おしつけて  いばってばかりいる人だって
いなかったわけじゃない

でも その頃の日本人は  そんな少しの いやなことや
不愉快さを越えて  おおらかで まじめで  希望にみちて 明るかった
 
戦後の日本人は 自分たち日本人のことを 悪者だと思いこまされた
学校でも ジャーナリズムも そうだとしか教えなかったから
まじめに 自分たちの 父祖や先輩は 悪いことばかりした残酷無情な
ひどい人たちだったと 思っているようだ

だから  アジアの国にいったら ひたすら ぺこぺこあやまって
私たちはそんなことをいたしませんと 言えばよいと思っている

そのくせ経済力がついてきて 技術が向上してくると
自分の国や自分までが 偉いと思うようになってきて うわべや 口先では
済まなかった 悪かったといいながら ひとりよがりの 自分本位の
偉そうな態度をする そんな 今の日本人が 心配だ

ほんとうに どうなっちまったんだろう 日本人は 
そんなはずじゃなかったのに  本当の日本人を知っている私たちは
くやしい思いがする

自分のことや  自分の会社の利益のことばかり考えて
こせこせと 身勝手な行動ばかりしているヒョロヒョロの日本人は
これは本当の日本人なのだろうか

自分たちだけで 集まっては 自分たちだけの 楽しみや ぜいたくに
ふけりながら 自分がお世話になって住んでいる  
自分の会社が仕事をしている その国と 国民のことを
さげすんだ眼でみたり  バカにしたりする

こんな ひとたちと 本当に仲よくしていけるだろうか
どうして どうして日本人は こうなってしまったんだ

 1989年4月 クアラルンプールにて

<日本人にとって頭の痛いことが書かれ、それも当たっているだけに 返す言葉がない。日本人である木庵でも全く同感だと思うのだから、自己反省すべきなのか、その不甲斐なさを外に向ければよいのか迷う。木庵は戦後生まれで戦後育ちであるが、戦前、戦中の人にどこか親近感があった。それに対して、同年代や後輩に当たる人間に何か警戒心を持っていた。それは年配者が持つ年輪の重みがおおらかさによると思っていた。ところが近頃、そうではない、年齢のせいではない、時代のせいだと思うようになった。戦前の人間は教育勅語によって育てられた。徳を積むことが人生の目的であると誰もが考えていた。私の両親を見ても、物の追及より、心を清くし、財産を残すことが恥であるとさえ思っていた。戦後育ちの木庵は、「子供の衣食も満足に与えられない親が、何をきれいごと言っている」と物心ついてからいつも反発していた。しかし、生活が安定してくるにつれ、心の豊かさを追求できるようになると、「心だけを追求してきた両親を私は超えることが出来るのだろうか」と思うようになった。「衣食たって礼節を知る」程度の心の追求しか出来ない自分の限界を知る。両親は貧しくとも、心は豊かであったのだ。
   木庵の両親の世代は、戦前の世代である。この世代を木庵は子供のときに観察している。大きくて、おっかなくて,おおらかで,こだわりもあり、やさしくて、寛容で、働きもので、それでいて余裕があり、近所の評判を気にして、また近所の人の悪口も言う。悪口を言っておりながら 結構仲がいい。身分相応の生活に不満はあるが、何とか満足している。そのような世代を、近頃無性に懐かしく思う。それに対して、自分の世代を、格好はつけているが中身がない、美しい家に住んでいるが、心は美しくない。視野が広そうに見え、見識もしっかりしていそうで、自分や自分の家族が一番大事だと思っている。世界で起きていることについて評論家のように分析できるが、日本のことが一番分かっていない。 それより自分のことが全然分かっていない。個性個性というわりに、だれも同じような顔をして、同じようなことを言う。ちょっとはみ出した人がいれば、常識がないとのけ者にし、自分が一番謙虚で正しい人間だと信じている。そのような人があまりにも多い。組織の重要性を語りながら 組織に入れば人の足を引っ張る。自虐史観ではないが、自分の世代を酷評する自分がまた醜い。木庵> 

第4章 の本の防衛体制のお粗末さ
  「日本防衛のうすら寒い実態は、平成18年(2006)7月5日、北朝鮮日本海に向けて7発のミサイルを発射したときの対応にも現れている。このとき政府部内で北朝鮮のミサイル基地を攻撃する話が持ち上がった。随分古い答弁であるが、「座して死を待つ」のではなくて、自衛隊機に北朝鮮のミサイル基地を叩かせるのは憲法違反ではないという国家答弁がある。もちろん現在の自衛隊には、これを成功させる十分な能力はない。元々敵地攻撃能力を準備していないからである。だが、自民党の政治家が二言三言しゃべっただけでマスコミの圧倒的な反対に遭って議論まで断念せざるを得なかったと記憶している。この場合にも結局十分な議論を行うことはできなかった。・・・日本は反日言論の自由は無限にある。日本のことをいくらでも悪く言うことができるし、それによって国会が紛糾することもない。一方、親日言論の自由は極めて制約されている。時に自衛隊に関することと歴史認識については、言論が封じられ、言っただけで問題を引き起こす。今回の私の論文がその典型である。・・・航空自衛隊は高性能のF15戦闘機を持っているのだから、やると決めれば直ちに北朝鮮のミサイル基地の攻撃が出来ると思うかもしれない。しかし攻撃に当たっては詳細な地図や基地の施設の配置、強度、滞空ミサイル等の位置、能力など多くのデーターが必要となる、攻撃はそう簡単ではない。事前の長期にわたる準備なしには実行不可能である。・・・航空自衛隊の敵地攻撃能力は極めて限定的なものでしかない。」
平成13年(2001)の米同時多発テロ以来、テロとの闘いが深刻な事態を迎えて、日本でも首相官邸原子力発電所、大使館など主要施設を自衛隊に守らせる案が出たとき、官房長官を務めた野中広務氏が『軍が国民に銃口を向ける』と発言して実現しなかった。・・・野中氏の発言は自衛隊に対する侮辱だが、それこそ、大東亜戦争の敗戦の結果、占領軍が行った日本人に対するマインドコントロールの結果であるといっていい。日本は『侵略国家』で『軍は必ず暴走する』との認識を植え付けられてしまった結果、日本にとって何が重要かを考えることが出来なくなっているのである。」
つづく