白洲次郎論#10

戦後マッカーサーは日本にアメリカ民主主義を浸透させるために、当初近衛を利用した。昭和20年、10月4日、近衛は第一生命ビルに呼び出され、決定的なことをマッカーサーから告げられた。「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正すべきでしょう。できるだけ早く草案を作成して新聞に発表するべきある」。近衛は京大時代の恩師である憲法学者佐々木惣一に声をかけ、憲法調査会を編成し、憲法改正に動いた。その後の紆余曲折は省略するとして、当時、近衛は米国の世論やGHQから不人気であった。特にニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの社説で次のような記事が掲載された。「少年院の規則を決める人間にガンマンを選んだようなものだ」。また、戦犯容疑の濃い近衛を重用するマッカーサー批判の記事が掲載され、それをマッカーサーの知るところとなった。マッカーサーは豹変し、「近衛は憲法改正を行っているが、これはGHQの関知せぬことである」という発表を行わせた。近衛をたきつけた日から一ヵ月も経っていない。この当時、次郎はGHQと関係していたので、マッカーサーの思惑が手に取るように読み取れた。マッカーサーアメリカ世論を気にしていたのである。なぜなら、彼は大統領になりたくてしかたがなかったからである。その間、近衛は憲法改正に努力したが、アメリカ世論を気にするマッカーサーの方針は、近衛を戦犯として逮捕する方向に傾かせた。12月6日の夜、静養先の軽井沢の別荘荻外荘にいた近衛に、外務省から戦犯指名された旨の電話が入った。次郎と牛場は吉田外相のところに集まり、善後策を話し合った。吉田は「東郷茂徳元外相は病気で巣鴨入りが延期になった。病気だといって東大病院に入れさせるんだ」と知恵を授けた。牛場と次郎はそのことを近衛に伝えたが、「入院はやめましょう」と静かに言った。この段階で近衛は自殺を決意したのである。近衛が自殺する前日12月15日、近衛は親しい友人たちを夕食に招待した。その中に次郎も含まれていたが、彼は誘いを断っている。カンの鋭い次郎は、夕食会がどういう目的で開かれるか痛いほど解り、“最期の晩餐“に出席する気持ちになれなかったのである。牛場たちはその後も近衛が自殺しないように、衣類などを近衛の二男通隆に調べさせたが、夫人はもうあきらめて、「私はお考えのとおりなさるのがいいと思うから探しません」と言って断った。刀剣や薬物はいっさい見つからなかった。晩餐会の当日、来客が全部帰り、牛場と松本烝(じょう)治(じ)(国務大臣)の二人だけが残り、近衛の寝室の隣に寝ることにした。息子の道隆は近衛に「一緒に寝ましょう」と声をかけたが、「人がいては眠れないから」とやんわり断られた。その代わり、「少し話していかないか」と言われ、遅くまで近衛の部屋で話し込んだ。盧溝橋事件以来の自分の活動や日本の将来について、まるで言い残すようにしてあつく語ったという。「何か書いてください」、そう通隆が手近にあった鉛筆を渡すと、近衛はそのときの心境をつづった。それはいつに似ず殴り書きのような文字であった。結局それが彼の遺書になった。通隆が部屋を出たのは午前2時ごろであった。「明日巣鴨へ行っていただけますね」と最後に念を押すと。近衛は暗い顔をしたまま、何も答えなかったという。そして午前6時、寝室にまだ明かりがついているのを不審に思った夫人が部屋に入ってみると、布団の中で近衛はすでに息絶えていた。

近衛の死後、あろうことかGHQは、「近衛は日本政府の行政機構改革を研究するように言ったのを、通訳の誤訳のために、憲法改正と考えたのだ」という噂を意図的に流した。次郎は「GHQに正義はない」と確信した。マッカーサーは自らの回顧録の中で、憲法改正に多くの紙数を割いたが、近衛についての言及は全くなかった。吉田はその後、未亡人の生活の足しになればと、近衛が自殺した荻外荘を借りて時々寝泊りに使うこともあった。「近衛閣下が亡くなった部屋で寝起きされるのは気持ち悪くないですか?」と尋ねられると。「幽霊が出たところで、近衛のお化けなんか怖くないわい」と言ったという。

北氏の文章を相当引用させてもらったが、高級貴族近衛文麿に相応しい堂々とした最期であった。また夫人も立派な態度であった。

白洲次郎にとって、吉田茂はどういう人間であったか

近衛文麿」のところで、白州次郎と吉田の関係が少しは理解できたと思うが、もう少し詳しく、次郎、吉田の糸の絡みを説明する。

吉田は明治39年(1906年)東京帝大を卒業して外務省に入省した。同期の中でも特に気のあった友人が後の首相また戦犯として処刑された広田弘毅であった。吉田が結婚した相手が牧野伸(のぶ)顕(あき)の娘・雪子であった。牧野は明治の元勲大久保利通の次男で、文相、農商務相、外相、パリ講和会議次席全権、宮内相、内大臣を歴任した大物政治家であった。白洲正子の父・樺山愛輔は、同じ薩摩出身で牧野と境遇が似ていることから親しい関係であった。牧野はよく樺山家の御殿場の別荘を訪ね、正子も“牧野のおじ様”と呼んで幼い頃から慕っていた。
   
次郎は結婚直後、大磯の樺山邸で吉田と初めて顔を合わせた。次郎27歳、吉田51歳のときであった。
  
 昭和7年(1932年)、松岡洋右国際連盟総会に全権として参加することになったとき、吉田はその危うさを感じた。松岡は英米の実力を軽視し、ドイツの力を過大評価していたからだ。松岡が出かけるまえ、吉田は「あなたはドイツしか見えていないようですが、出かける前に頭から水でも浴びて少し落ちついてから行かれては如何でしょうかな」と言い放っている。吉田は東条英機のことを、顔を合わせても挨拶をしないほど嫌っていた、一方東条を中心とする軍部は、開戦阻止に動く吉田や牧野、樺山たちのことを“ヨハンセングループ("吉田反戦”のもじり)という符号で呼んで警戒していた。そしてついに、昭和10年12月26日、軍部から“君側(くんそく)の奸(かん)”と指弾されていた牧野は、彼らの圧力によって内大臣を更迭された。それでも吉田はあきらめず、千葉県の柏に隠棲した牧野と手紙のやりとりしながら策を練った。だが検閲の目は日増しに厳しくなっていく。そこで活躍したのが次郎であった。 
  その頃、次郎は近衛のところに出入りするようになっており、近衛と吉田が親しい関係にあったことから、吉田と接触する機会も次第に増えていた。噂どおり、頑固者である。だが、そのような吉田に次郎は心惹かれていった。しばしば次郎は、吉田の依頼で牧野のところへと使いに行っている。樺山家と牧野家の関係を考えれば、次郎の出入りは不自然ではなかった。懐には吉田からの手紙を持ち、さらに重要なことは口頭で伝えた。当時、ヨハンセングループには身の危険さえあった。昭和11年、次郎が海外出張で、正子と一緒に欧州に渡っていたとき起こった。それがかの有名な2・26事件である。牧野は反乱軍の襲撃に遭って、危機一髪、難を逃れ九死に一生を得た。同年、広田内閣が発足し、吉田を外務大臣に迎えようとしたが、軍部の猛反対によって、吉田は入閣できなかった。その代わりに吉田は駐英大使に任命された。着任早々「日独防共協定」が俎上にのり、吉田は頑強に反対し続けた。吉田は外務省でも孤立していた。結局吉田を無視して協定は結ばれた。苛立ち募るばかりの吉田の前に次郎が現れた。次郎はロンドン出張のたびに大使館に吉田を訪ね、寝泊りをするようになった。しばしば二人は大使館地下でビリヤードを楽しんでいたがその様子が尋常でなかった。「このバカやろう!」「こんちくしょう!」罵声が飛び交っていた。喧嘩しているのではないかと周囲の人は心配したが、実は罵倒している相手は親ドイツ派に対してあったようである。吉田が孤独な時代を向えていたのを、次郎流の慰めであったのだ。
  麻生太郎(現総理大臣)が祖父・吉田茂を回想した「祖父吉田茂の流儀」の中に、「祖父・吉田茂は『カン』のいい人を可愛がった」というくだりがある。その点次郎は並外れて「カン」の働く男で、吉田に可愛がられるものを持っていた。次郎は吉田の妻・雪子にもかわいがられた。あるとき次郎は雪子から三女和子の結婚相手を探すことを頼まれた。吉田には健一(後の英文学者、評論家、小説家)という長男がいたが、吉田とは性格が正反対だったことから、吉田の愛情はもっぱら男勝りの和子に集中していた。その吉田にとってとても大事な娘の結婚をいとも簡単に次郎は見つけてきた。「欧州出張から帰る船の中でいい男を見つけてきた。この男性と結婚するように」と命令口調の手紙を和子に送りつけた。この“いい男"というのは、九州の炭鉱王の息子・麻生太賀(たか)吉(きち)のことであった。そして、あれよあれよという間に、和子は太賀吉と結婚した。次郎は吉田家にとって縁結びの神であった。この結婚によって、吉田はその後金に不自由することはなくなった。吉田が自由な政治活動が出来たのは、麻生財閥の経済的バックアップを受けるようになったからである。
つづく