白洲次郎論#8

白洲次郎論#8
白洲正子

白洲正子の著書については、#1でも書いたように、「両性具有の美」と「白洲正子自伝」の2冊を読んだ。最初読んだ「両性具有の美」ははっきり言って、つまらない本であった。タイトルに興味があったので買ったが、内容的には光るものがあまりなかった。それでも次郎の妻ということから、次郎との関係がどこか見出せるのではないかと辛抱して読破した。「これではきっと、彼女の師である小林秀雄から酷評されるだろう」と、正子フアンの方には申し訳ないが正直思ってしまった。ただこの本の最後の章「竜女成仏」の最後のところが光っていた。その部分だけコピーして、本の内容についてはここでは触れない。

「両性具有の美」というご大層な題名で書きはじめたが、読者も私もそのうち忘れてしまったのではないかと思う。はじめから辻褄を合わせることなど考えていなかったから、いつまで書いても終わらないのでこのへんで一旦筆をおくことにする。それにつけてもこの頃の新宿二丁目あたりのおかまは、私が昔知っていた人たちとどこかちがう。私がおもうに、真物の衆道室町時代で終わっていたのだと思う。私がごたごた書くよりも、次のひと言が何よりもそのことをよく語っていたのだと思う。古いおかまの友人の一人に訊いてみると、言下にこう答えた。「そりゃ命賭けじゃないからよ」
   
辻褄を合わせようとしなかったのは師匠小林秀雄譲りである。大塚ひかりという人がこの本の解説で正子の人間性を表現しているので、それを書いてみる。
「『男の友情もここまで深くなれば男色関係などあってもなくても同じことで、男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたちが、雲間を出ずる月影のように、あまねく下界を照らしているように見える』 本書のこの箇所を初めて読んだとき、素直にこういうふうに思える白洲正子が妬ましいと同時に、『嘘つき』と思った。男色関係があったかなかったかは、ものすごく大きな違いだろう。この人、夫以外の男とあんまり'セックスしてないんじゃないか・・・と、下界の私は邪推したのである。白洲正子は夫以外の男と付き合いがなかったわけではない。それどころか男友達のとても多い人だ。小林秀雄青山二郎河上徹太郎正宗白鳥梅原龍三郎、晩年は、高橋延清、河合隼雄(はやお)、多田富雄など、広い交友があった。女を感じさせないタイプだったのかというと、写真を見る限りそうでもなく、特に小林秀雄青山二郎と夜を徹して酒盛りをした三十代後半や四十代などは、しっとりとした色香を漂わせた美人に映っている。・・・白州正子は、小林秀雄青山二郎河上徹太郎といった男たちが『特別な友情で結ばれていること』を知ると、『猛烈な嫉妬を覚え』、『どうしてもあの中に割って入りたい、切り込んででも入ってみせる』・・・と決心した。そして彼らと、文学や骨董の子弟として、友人として、生涯つきあった。…白洲正子河合隼雄との対談で言っている。『私の祖父は薩摩隼人なんです。彼ら武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは、男どうしの契りを結ぶことでもあったんですね』(『波』97年3月号、『縁は異なもの』所収)

   ここで、また飛んで、白洲正子の祖父のことについて述べる。「白洲正子自伝」の表紙には儀式用軍服姿祖父樺山(かばやま)資紀(すけのり)の膝の上で抱かれた少女正子の写真がある。巻頭の章は、「祖父・樺山資紀」である。この本の解説をした車谷長吉氏がこの章をうまくまとめているので、それを紹介する。

白洲正子はまず、いきなりみずからの魂の源泉について語り始める。幕末の京都、祇園石段下で、薩摩藩士、指宿(いぶすき)藤次郎という侍が、見廻組に殺された。彼は薩摩示現(じげん)流の剣の使い手であったが、五人の敵を倒したところで、下駄の鼻緒が切れて転倒し、最期を遂げた。そのとき、前田某という侍が同行していたが、彼はいち早く遁走していた。その葬儀の場に、橋口覚之進という下級藩士がいて、焼香のときがきても、棺の蓋を覆わず、指宿の死顔を灯しびの下にさらしていた。橋口は参列者の中から、前田を呼んだ、「お前が一番焼香じゃ。さきィ拝め。」前田はおそるおそる進み出て香を手向け、指宿の屍の上にうなだれた。そのとき、橋口は腰の刀を抜き、一刀のもとに首を斬った。首は棺の中に落ちた。「これでよか。ふたをせい」・・そのあとも音信(おとず)れたなんともいえぬ静寂な空気まで、私には感じとれる。と白洲正子は書いている。」

 凄い話である。橋口覚之進こそ白洲正子の祖父樺山資紀である。このような勇猛な侍を祖父にもつ正子の血は普通ではない。大塚ひかりも指摘している。

白洲正子は時に、これほど女の性に関して残酷なことが言えるのは男だからじゃないかと思えるほどのことを平気で書くことがあるのだ。・・・いや男だけとは言えない。この視線、どこかで感じたことがあると思ったら、話はそれるが、紫式部がどれほど「男の目」をもっていたかは、(源氏物語)を読んだ男たちが、「男の気持ちがなぜこれほどわかるのか」と不気味がるのを見てもわかるが、紫式部がそうした男の目をくぐんだいきさつと白洲正子のそれは意外なほど似ている。漢書から外来思想を学び、抜群の才を発揮した紫式部は「口惜しう、男子にてもたらぬこと幸なかりけれ」と父の嘆きを「常に」聞いていた。一方、白洲も「『この子が男の子だったら、海軍兵学校に入れたのに』と、ふた言目には家族たちが残念がっているのを耳にし、生まれ損ないみたいな気がし、しまいには本気でそう信じるようになって行った」(『白洲正子自伝』)そして、男のものだった能に4,5歳から親しみ、アメリカ留学し、骨董という男の道楽をたしなみ、評論という当時としては男の仕事に挑んだ。同性の性愛に厳しく、「女の子があんな格好して、セクハラもないもんだわ。当たり前よ)((現代)94年9月号、『日本の伝統美を訪ねて』所収)と語る白洲の道徳観も、恋多き和泉式部や、男に伍して女が宮仕する良さを謳った清少納言に、筆誅を加えた紫式部と響きあうものがある。」

男の目で白洲正子は書いていると、女性である大塚ひかりは書いているが、木庵はそうは思わない。やはり白洲正子はまさしく女性である。ただ男性の目で書きたいと小林などと接触し、男の感性を勉強したのであろうが、やはり彼女の感性は男性のそのものではない。どこか無理がある。例えば「両性具有の美」には、男らしさを装った文体が目立つ。そのような箇所を抜書きにしてみる。

「このほかにも男を女に見たて束面は数ヵ所あったと記憶するが、うるさいので省く」
「かわりに『軒端の荻』との情交を結ぶのだが、それは省略することにして・・・」
「それについては考えてみなくてはならないことが山ほどあるが、それはまた別の機会ゆずりたい」
「一々述べるのはわずらわしいのでそのうち二、三をあげると・・・」
「今までいったことは既に周知の事柄であるから、ここらへんで止めておきたい。」
「御進講に至るまでにはさまざまの面倒ないきさつがあったが、それは省く」
「拝見する機会を得た、詳細については省くが、・・」
「細かいことは省くが、・・・」
「舞台が違うのでそれぞれ面白いのだが、いちいち述べているひまはない」
「それについていちいち書く自信も興味もない。」

この書き方は師匠小林秀雄的男らしさのモノマネではないだろうか。その無理さ加減のいやらしさが熟年になった彼女に分かりだしたのだろう。「白洲正子自伝」では、多くの箇所に女性らしい謙虚さが目立つようになる。若いときの反動なのだろう。しかし、若いころの男らしさ願望への反省がどこか中途半端な正子の姿を浮かばせている。男にもなれない、女でも通せなかった正子の憂鬱さが文章の行間から見えてくる。文章などというものは謙虚に書けばよいというものではない。己の性(サガ)をさらけ出した方が読者に感動を与える場合がある。ありのままの自分をさらけ出したとしても、男らしさとか女らしさというものが自然に出てくるものである。若い頃の正子には男らしい文章を書いているつもりでも女が出ている。年をとってから女性らしい文章を書こうとしても、染み付いた男性的な性格は隠せず、謙虚な文章もどこか嫌味として映る。このあたり、薩摩の下級武士の祖父が明治という時代から急に上流階級に上り詰めた、成り上がり血の悩めるところではないかと思う。日本人には多かれ少なかれ、この成り上がり趣味から脱することができない煩悶がある。そういう意味からも長い歴史を擁する皇室の尊さがあるのである。家柄などというまやかしの世界に浮き沈みするなら、一層のこと最下層の安らぎを得た方が正直で幸せだと思うのだが。このような見方は、木庵の歪みひがみ人生からくるのであろうか。
つづく