父帰る、屋上の狂人(菊池寛作)、劇団Arigato

父帰る、屋上の狂人(菊池寛作)、劇団Arigato

1年半ほど前、あるパーティーで知りあったT氏がいる。彼は映画硫黄島にも出たことのある俳優である。ロスにはこの映画で主役を演じた渡邊謙とか千葉真一など有名人が住んでいると聞く。映画の都ならではの現象である。先日、彼が主催しているArigato劇団の旗揚げ講演の招待を受けた。金、土、日の延4回の公演である。私は昨晩(土曜日)出かけた。
  劇場に着いた。出演者らしき人たちが、劇場の舞台や座席で何か打ち合わせをしていた。「T氏はいますか」と尋ねると、「今家に帰っています」と若い団員が答えてくれた。どうも時間を間違ったみたい。8時から始まるのに6時にやって来たのである。そこで、近くのレストランで腹ごしらえをして、また劇場にやって来た。もうT氏の姿も見えていた。それでもまだ早いので、ロビーの椅子に座り、どのような人間がこのような劇を見るのか観察させてもらうことにした。と言っても、前日あまり寝れなかったので睡魔が押し寄せてきた。60ほどしかない座席にどれだけ観客が埋まるのかも興味のあるところであった。知り合いが数人いた。公演の出し物は、「父帰る」、「屋上の狂人」である。両方とも菊池寛の作品で、「父帰る」はあまりにも有名である。「屋上の狂人」は、木庵は初めて知る作品である。木庵は今までの人生で、演劇なるものを観賞したことが殆どない。最前列の席から観るのはなかなか迫力のあるものである。出演者の熱演に、睡魔がいつしか飛んでしまっていた。打ち合わせをしていた彼たちが同一人物かと思うほど、役になりきっているのに感動した。私の見る観点は、演じる人が、どこか役から離れ自分を出す瞬間があるだろうと見て、それを探していたのである。ところが、残念ながら(笑)一切そのようなところがないのである(本当は一つだけあった、それは後で述べる)。役に完全に没入しているのである。これは本物だと、いつしか荒捜しをやめて、物語の中に乗り移っていた。
   「父帰る」は、家を捨てた身勝手な父が老いぼれて家に帰るが、そこに繰り広げられる、家族の人々の思い、葛藤の物語である。大当たりした作品である。「菊池寛が生存していた時代には大いに受けた作品であろうが、今の時代にはどうかな」と木庵個人は思った。それより「屋上の狂人」の方が現代的であるとみた。そこで「屋上の狂人」に焦点を絞り、木庵流文化論を書いてみることにする。
   
    旧家の長男は気が狂っている。他人に危害を与えるというのでもないが、彼の存在が家の恥である。座敷牢の中に閉じ込めているのも可哀想と自由にさせると、すぐに屋根の上に登り、空を眺め、雲の中で繰り広げる幻想の世界を実に楽しそうに見入っているのである。屋根の上は、世間にこの家に狂人がいることを知らしめることになり、主人(父親)はそれを止めさせようと、召使に屋上から息子を降ろさせようとする。何とか降ろして、巫女にお払いをしてもらうことにした。巫女は「狐が乗り移っているので、松の葉っばで狐を追い出せ」と、神のお告げを述べる。みんなして、長男を葉っぱで叩きまくる。そこへ、次男が帰ってくる。次男は長男とは違って、優等生。巫女のまやかしのお告げにより苦しめられている兄を助けようとする。次男は巫女の言う迷信など信じない。神(?)をも恐れぬ態度に主人や召使や母親は恐れおののく。そのようなドタバタのやり取りのなか、次男は言う。「このようなものは、迷信だ。それよりなぜ兄を正常な人間に戻そうとするのだ。もし兄が正常になれば、22歳にもなっていて、文字も書けなければ計算も出来ない兄がどれほど惨めになるかわからない。今の兄の方が幸せなんだ。それに、今の兄はどれだけ我々より幸せであるかわからない。我々は空を見て、神々が繰り広げる、夢の舞台を見ることが出来るのだろうか」と諭す。
  
   木庵は近頃思う。日本人は戦後、正常さを求めすぎた。狂なる世界がわからなくなった。本来正常とは異常(狂)との対照としての正常であって、全てが正常では、正常の存在価値がない。昔は鬼がいて、幽霊がいて、悪霊がいて、我々の正常の粋を脅かしていた。近頃漫画に登場する鬼も幽霊もどこか優しく怖さがない。子供たちにとって、近所におっかない大人がいなくなり、学校では優しさを売り物にする教師ばかりである。子供たちが成長するまでに地獄に落とされることがない。親はいつも子供の側に付きまとい、子供を少しの危険からさえ守ろうとする。結果として子供たちは成人になった頃には温室育ちでひょろひょろの人間になっている。人間の想像力、創造力は、狂を覗くことによって、湧き出てくるものである。正常の中には、つまらない正常の世界しかない。世に言う創造的な人間は必ずといていいほど狂の世界を経験している。狂の世界には正常では見えてこないものがいくらでもある。一度家庭を捨ててみるがよい。一度社会人を捨ててみるがよい。一度日本人を捨ててみるがいい。一度国家を捨ててみるがよい、一度、現代を捨ててみるがよい。如何に、現代に生息している日本人が表面的で、つまらなくて、味のない人間であるかがわかるであろう。
   菊池寛は、彼が生存したい時代の常識が退屈でこのような作品を書いたのであろう。何が正常で何が異常かなんていうものは、正常の基準によって違ってくる。菊池寛の生きた時代の正常と今の正常と違う。菊池寛の時代の正常は、今の観点からすると異常である。また今の正常も菊池寛の時代の人から見れば異常に映るであろう。少なくとも木庵は、日本人の枠から離れた存在になっているので、日本人が正常に思っているすべてが異常に見える。テレビで政治家がまじめな顔で日本の未来を語るとき、「それは嘘だ」、「それは異常なことだ」と感じる。また、アメリカに住んでいる日本人でも、日本文化を背負っていて、正常を売りものにしている人をみれば、「それ本当に正常なのですか、私には異常に見えますけど」と、ちょっと皮肉を言いたくなる。
  
  その点、劇場に集まった観客や、演じた人々は、正常さを突き破りたいと思う人たちであった。折角の熱演にもかかわらす半分の席にしか埋まらなかったが、赤ちゃんを背負いながら裏方の仕事をしている人の表情が普通のお母さんとは違っていた。ディレクターをしている女性も、常識の枠をはみ出そうとしていた。公演が終わり、出演者と客とが交流した。このような小さい劇場でならの交流である。巫女の役を演じていた女性と主に話をした。「大きな声がでますね。演技をしながら恥ずかしいと思うことはありませんか」「私、女を捨てているのです」「でも貴女、転げて神のお告げを述べていたとき、着物の裾が気になって、少し直していましたね」「まいったな。そんな細かいところを見ておられましたか。たしかにそのような心の動きがありましたね」。T氏も私の観劇に感謝されていた。「Tさん、『父帰る』の父親役には、あなたは、ちょっと若すぎましたね。『屋根上の狂人』での巫女を主人に紹介する薄らバカの役の方があなたにあっているようですよ」。このような会話を重ねながら、劇の余韻と出演者との交流がなかなか終らなかった。別れ際にT氏、「木庵さん、きょうのことブログに書いてくださいよ」ときた。
 
   そこで彼との友情を確かめるためにも、ここに特別の記事を書いた次第で
ある。
        
              2009年4月5日(日曜日)早朝記する。木庵