自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編#20

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編#20
<#19で、田母神氏が野中広務氏を批判しているところを引用した。ここで、野中論を少し書いてみる。野中氏のことについてよく分からないが、YouTubでの映像や彼の発言を見る限り、信念の人、人情の人、大衆の気持ちをよく理解できる人、たたきあげの政治家ということが出来る。彼は戦争経験者である。1925年(大正14年)生まれというから、その歳だけでも尊敬してしまう。ところが政治論になると、尊敬するわけにはいかない。01年アメリカ同時多発事故、03年イラク戦争勃発により、日本ではテロ対策特別措置法が国会を通った。そのとき、憮然とした表情で、国会を去り、その後議員を辞職した。信念政治家野中にとって、日本が危険な道、戦争への道にいくと感じたのであろう。その後、「このままでいくと、自衛隊は地球の裏側まで行くことになる。自衛隊員はより生命の危険にさらされることになる。そうなると、自衛隊に入る人が少なくなり、徴兵制が敷かれることになる。『今から知覧に行きます』と言って去っていった15歳か16歳のまだ童顔が残る若者を多く見送ってきた。片道の燃料しか積まずに死んでいった人たちのことを考えると、今死ぬにも死に切れないのです」と神妙な顔で語っていた。戦争の生き証人であり、彼の言うことには説得力がある。野中氏の言う論理をまとめると以下のようになる。戦争はいけない。日本が戦争をするのはよくない。だから、テロ対策特別措置法という悪法によって、自衛隊が海外に派兵されることはよくない。また自衛隊員を危険にさらすことにより、自衛隊員になる人が少なくなり、その後徴兵制が敷かれることは日本の崩壊を招く。ではこの主張に対して、問いたい。もし他国が侵略するようなことあれば、どう日本は対応するのか。彼の直接のコメントを聞いていないが、予想される答えとして、「平和憲法を持つ日本をどこの国が侵略するというのだ。軍事力を増強するより、アジアの諸国の人と仲良くすれば、そのようなことにはならない」。野中氏は小渕総理から官房長官に就任するように土下座して頼まれたという。竹下登元首相も野中の官房長就任への裏で動いたという。初め野中は断ったが土下座、竹下の後押しに観念し受諾した。そして就任にあたり、4つの条件を出した。4つ目の条件がアジア諸国の留学生を支援することであった。「日本の学生が楽しい学生生活を送っているのに対して、留学生は6畳の狭い部屋に、10人ほどが寝泊りして、アルバイトをしながら勉学を続けている。留学生は後母国のトップになるような人である。そのような人に日本を好きになってもらいたい。日本での厳しい生活では親日にはなってくれない。これは投資です」と、野中氏は言う。さすがに苦労人野中の言うことは違う。野中氏は重度身体障害者に対しても、きめの細かい取り組みをしている。「寝たきり障害者に愛のホームを!」と声をあげたことから、日本で最初の重度障害者療護養施設が野中の地元である京都府園部町に設置された。施設を訪れた野中は入園者が働く場所を設ける必要性を感じ、作業所、重度障害者授産施設を備えた社会福祉法人を設立した。その後、先行して設立されていた重度障害者療護施設の運営依頼も受け、自ら設立した社会福祉法人「京都太陽の園」に統合、理事長として両施設を運営することになった。野中は当初、京都府副知事を退任後は政界を引退して、この社会福祉法人の運営に専念するつもりだった。なお、2008年現在も野中は理事長として法人運営を行っている(ウイッキぺディア参照)。
  ある分野で優秀な人間が違う分野で見当違いのことを発言することがよくある。その最たる理由は、違う分野の情報を自分の得意とする分野の価値基準なり思い入れによって処理するためである。宗教家が政治のことについて発言するとき、とんでもないことを言ってしまうことがある。例えば臨済宗で最高の高僧と評価されている山田無門老師という方がおられた。ミッテラン・フランス大統領が日本を訪問のとき是非会いたいと言った高僧である。そのご達しがあった時、無門老師の側近は慌てた。というのは、老師は栄養失調気味で少し頭の回転が鈍っていたからである。昭和の飽食の時代になっていた時、老師は禅宗の伝統の食事を続けていた。人間にはある程度の栄養が必要であるのに、伝統食では体に異常をきたすらしい。禅寺では表むきは伝統食を食べていることになっているが、それだけでは、栄養失調になるので、抜け穴があるらしい。若い修行僧は寺では粗食に徹底するが、夜などに忍びで近くの旅館などで、栄養を補給するのだそうだ。ところが、無門老師はそのような戒律(?)を破るようなことを一切しなかった。実はこの逸話はロスで無門老師の世話をしていたという修行僧から聞いたのである。
   この逸話と関係があるもう一つの話がある。昔「仲間たち」というテレビ番組があった。色々の分野で活躍している人が昔の友達に久しぶりに会い、昔話をするという番組である。私がロスで観たその番組は、天竜寺で共に修行をした大物宗教家が語りあうものであった。朝比奈そうげん(漢字は忘れた)、関牧翁(これも漢字は不確か」、清水公しょう(東大寺管長、木庵の父親の中学の同級生)、と無門老師が修行時代のことを語りあった。司会は司葉子である。無門老師以外は多弁であった。ただ黙り続けている無門老師に、他の出席者もようやく気になりだした。特に、司は司会者としての役目から無門老師に話をもっていこうとするが、ただ微笑むだけ。二、三度、「う〜」とか「あ〜」とか口を開けただけ。観ていた私は、他の出席者の多弁と対照的に、無門老師の存在の大きさを感じた。「昭和の最高の高僧無門老師は違う」、「沈黙の中に思慮深さがにじみ出ている」と感心したものである。日本にいるときでもこの番組は好きでよく観ていたが、一言も喋らなかった出演者は無門老師しかいなかった。この話には裏がある。先ほど述べた老師の世話をした修行僧の話では、無門老師は当時栄養失調の状態にあり、老師自身どう答えてよいか分からなかったという。この話から読者はどう思われるであろうか。多くの読者から、飽食の時代にここまで徹底した生き方をした無門老師を尊敬されることだろう。
  賢明なる読者は、無門老師の逸話と野中氏の生き方に共通点を発見することであろう。片方は宗教の世界、片方は政治の世界における最高峰を極めた人。では無門老師は宗教以外の分野でどのような見当違いの発言をしたか紹介する。
   彼の著書の中で次のようなことを書いてあった。
  「毛沢東は偉大な政治家である。農業を国の中心にすえ、中国国民を農業労働をただの労働ではなく精神としての労働を教えている。生活即仏法、労働即仏法という禅の教えを、政治の世界にも実行させようとしている。毛沢東のような知恵ある指導者の下に、土と親しみながら生きていける中国国民は幸せである」
  農業を中心にしていることは間違いないが、経済音痴、科学音痴の指導者毛沢東の下で多くの中国国民が苦しんだことは厳然たる歴史の事実である。当時、中国から限られた情報だけしか伝わらなかったといっても、政治学や経済学、歴史学に殆ど素養のない山田無門老師が、自分の専門領域外のことを語ってしまったことは大きな誤算があった。
  宗教家ではなく法曹界、政治の舞台で活躍した東京裁判東条英機を弁護した清瀬一郎氏も大きな恥を彼の著者の中で残してしまった。著書名は確か「秘録東京裁判』であったと思う。清瀬氏は連合軍が国際法を無視した「人道の罪」、「平和の罪」という事後法をもちだし、東条たちを処刑した無謀な裁判であったことを告発した。東京裁判に対して、比類なき正義感で果敢に戦った清瀬氏の人柄や勇気が伝わってくる名著であった。ところが終わりのところで、なぜこんなことを書いてしまったのか残念で仕方がない。細かい内容についてははっきり記憶がないが、要するに文化大革命を礼賛したことを書いてしまったのである。東京裁判だけのトピックスに絞ればよかったのに、どうしたことか中国問題に触れてしまったのである。そのことによって折角の名著を傷つけてしまったのである。
   ある分野のエキスパートが、自分の得意の分野だけに携わっておればよいのに、他の分野に口を出して墓穴を掘ることがある。またたとえ一つの分野だけに留まっていたとしても、学問は日進月歩進歩している。絶えず新しい情報を得たり発掘する努力を怠ると、時代に取り残されてしまう。例えば秦郁彥氏。南京事件において2万人死亡説を唱えたり、慰安婦問題においても実証的な研究をして、歴史を発掘する時代の最先端を歩んだ学者である。ところが近頃の論調をみると時代遅れの観が否めない。木庵>