自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編#17

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編#17
第3章 日本は悪くない
日中戦争侵略戦争だったという人の誤解のひとつに、『理由はともあれ日本軍が大陸や半島で行動していたではないか』という意見がある。・・・私はこの問題をこんな比喩を使って説明することにしている。日米安保で米軍が日本に駐留している。米軍は現に日本に駐留して厖大な戦力を維持し活動しているが、誰も日本侵略とは言わない。同様に米軍はNATO北大西洋条約機構)の中心的な勢力としてヨーロッパにも駐留しているがヨーロッパの国々も侵略とは言わない。実は戦前の中国大陸や朝鮮半島に対する日本軍の駐留もこの米軍と同じように条約によって認められていることなのである。日本は19世紀後半以降に朝鮮半島や中国大陸に軍を進めていたが、相手国の了承を得ないで一方的に軍を配置したことは一度もないのである。・・・例えば昭和12年(1937)7月29日には、婦女子及朝鮮半島出身者を含む日本人居留民約230人が虐殺された。いわゆる通州事件である。この事件は日本人を激高させた事件だが、当時の新聞によると、女性は全て裸にされて辱しめを受けて、男性は局所を切りとられたりしていた。まあ、鼻に牛のように針金を通された子供や、目玉をくり抜かれた人、更に腹を抉(えぐ)り取られたりした人など見るも無残だったという。中国国民党に言わせれば、日本などとの諸条約は圧力をかけられて無理やり締結させられた条約だと言うかも知れないが、昔も今も圧力を伴わない条約など存在したことはない。」

<田母神氏の例え話はよい。それでも、「日本は中国の土地で戦争をおこなったではないか」と主張する人がまだいるであろう。通州事件などで、日本人が虐殺されると、当然日本軍は在留邦人を守りに行く。そうすると、中国軍と衝突する。その後、和平交渉が行われれ、休戦条約が結ばれる。しかしその休戦条約を破るのはいつも中国側である。そして戦争が拡大していった。これが、日中戦争の実態である。このように日本を中国の大陸での泥沼戦争に引き込んだのはコミンテルンであり、蒋介石軍(国民党軍)もコミンテルンの策謀に引っかかったのである。それが歴史の厳然たる事実である。ところが、戦後いつしか日中戦争は日本の戦略戦争であったという考えが日本国民の間に定着してしまった。それは戦後体制がGHQによりつくられ、日本はすべて悪、アメリカ、中国は善という図式がつくられ、日本の左翼勢力によるこの図式支援の結果、歴史歪曲が行われたためである。その歪みを是正しようとしても、敗戦間なしの日本はGHQの前では何も出来なかった。またGHQが去り正しい歴史を見直せる時代になっても、敗戦利得者の言論統制によって、その牙城を崩せないのが実情である。だから、田母神氏がことさら特別なことを言ったわけでなく、ごくあたり前の歴史観を述べているに拘わらず、政府がこの正しい人間を解雇するという奇妙な現象が起きたのである。このからくりを見抜けないと、歴史を勉強したとはいえないであろう。木庵>

「日本軍は悪くないどころかどう見ても世界でも有数の軍紀厳正な軍隊だった。日清戦争の後、清国は無秩序状態に陥り、列強は各々の権益の確保に奔走した。そのとき特殊な拳術の力を信じる秘密結社によって山東省に起こった排外運動が義和団である。・・・列強は今でいう多国籍軍を構成することになった。英、米、独、露、伊、土+奥、日の八カ国が参加した。このうちイギリスは日本に多数を出兵するように要請した。『ヨーロッパからでは遠くて無理なので、近い日本から軍を出してくれ』というわけである。しかし、野心ありと思われては困ると思った日本はすぐには出兵しなかった、このあと、日本とイギリスの間では『出してくれ』『いや出せない』という問答が続いた。百年前にも日本は軍の派遣には非常に慎重だったわけだ。しかし、結局、日本は広島の第五師団の1万人弱を北京に派遣した。多国籍軍二万人のうち約半分だった。・・・日本軍の勇猛果敢ぶりには定評があるが、それよりも各国を驚かせたのが日本の軍人の規律の高さである。義和団を放逐して北京を解放後、多国籍軍による分割占領が行われたが、占領地区では軍人による略奪や放火など問題が発生した。イギリスやフランスでも似たようなことがあっが、しかし、日本の占領地域だけはそういうことが一切なかったという。最も悪かったのがロシアの占領地域だったという。ロシア軍の占領下では、軍規が乱れてロシア兵が暴徒と化し、虐殺、放火、強姦など暴行が数多く発生。このため、住民は難を逃れて日本占領区に押し寄せたほどだという。このロシア軍人の素行の悪さは、終戦時のソ連の参入でも証明されたが、最早、軍人と言うよりも盗賊まがいだったわけである。軍規の悪さという意味から言えば、ロシア(ソ連)、中国国民党軍、中国共産党軍が最悪なのではないだろうか。それと正反対なのが日本軍である。・・・渡部昇一氏は、この時の評価がやがて、当時の世界のリーダー国だったイギリスと日本との同盟(日英同盟1902―1923)に繋がったと指摘している。・・日本軍の軍律の素晴らしさを讃えた人の中にフランスの国際法学者のポール。フォーシ−ユ氏がいる。また、著書としてはフランスのフィガロ紙の従軍記者のカレスゴート・イリュスト氏と、ラシオン紙のラロ氏が二人で書いた『日本軍戦闘観戦記』、ウッドハウス暎子女子の『北京燃ゆ』、ジョージ・リンチ氏の『文明の戦争』などがある。フォーシーユ氏は日清戦争の研究書に寄せた文章のなかで次のように書いている。『日中戦争で日本軍は、敵が国際法を無視したにも拘わらず自らはこれを守り、日本軍人であることに誇りを持っていた。中国兵は卑怯にして残虐極まりない部隊で、例えば中国軍の捕虜となると、四肢を斬り分けられ、生きながらに火炙りにされたり、磔にされたりしたのである。さらに日本兵の屍に対しても、酸鼻を極めた蛮行を行っている。即ち死者の首を切り落とし面皮を剥ぎとり、あるいは男根を切り落し、胸部を切り開いて石を詰め込む、首は両耳を穿つて紐や針金を通し、さながら魚を串刺しにしたように口から喉に紐を通して持ち運びする等々、それが中国軍の戦争様式であり、日本軍には絶対に見ることのできない支那の戦争文化である』
  また、ジョージ・リンチ氏は『文明の戦争』でこう言っている。『およそ戦争の形態とか様式などというものは、その国々の文化様式でもある。武士道社会の伝統を受け継いた日本軍は、近代戦の戦争においても武士道精神を発揮し、軍律厳しく整然と戦ったのである。そして日本政府は在日中国人に対しては戦時中といえども国際法を守り、彼等の生命財産を守ったのであるが、当時の中国の日本人居留民は、日中間に紛争が起きるたびに虐殺、掠奪、暴行を受けたことは日清戦争以来枚挙にいとまがない事実である』。これらは主に日清戦争の記述だが、日中戦争の南京攻略戦では、日本の中支那方面軍司令部は国際法顧問として斉藤良衛博士を帯同していた。そして松井石根大将は、『南京城攻略および入場に関する注意事項』を作成させて軍紀、風紀を厳粛に保つよう通達した。」

自衛隊元幹部である軍人田母神氏が、「日本軍は悪くないどころかどう見ても世界でも有数の軍紀厳正な軍隊だった」と書くと、「軍人は当然自分たちの先輩が行った悪行を隠し、軍紀厳正だったと言うであろう」と冷ややかに見る人がいるであろう。「戦争とは極限の状態に人間を追い込むもの。いくら軍紀厳正だといっても、最前線の兵隊は何をしたか分からないではないか」というような声も聞えてくる。ただ言えることは戦前と戦後に対する軍隊に対する国民の感じ方が違うことである。私は子供の頃よく母親から「お国のために戦った、兵隊さんのおかげです」という歌をよく聴いた。当時兵隊などいなかった時代に、あまり深く考えずに私も歌っていた。それがなぜか近頃この歌が私の口から出てくる。不思議なことである。今の日本が平和なのは、「自衛隊のおかげです」と思っている人がどれだけいるであろうか。平和なのはもう当たり前、この平和は戦前の軍国主義国家をアメリカさんが打ち負かくれたからと思っている人が多いのではないだろうか。行き着くところ、戦後GHQによって仕組まれた洗脳によりどれだけ日本人の軍隊への意識が変わったことか。木庵がどう考えても日本の戦前の軍隊は軍紀厳正であったと思う。「日本は悪くない」と田母神氏が言うと、更迭された、この奇妙さをどれだけ深く考えている日本人がいるであろうか。このようにならしめた戦後意識構造の背景を研究する必要があるであろう。木庵>