新erasusさんへの反応#4

RE:<問答集>木庵先生〈八〉−ガリレオでブレークした福山雅治の龍馬−

以後のレスをおこなう。

親離れ、子どもの時から父親への反発。特に中学時代は、ジクリと父親の弱点をつく、だから両親は仲が悪いのに、私への攻撃(?)は一致していた。父は母に「T(私の名前)は本当に憎い」と言っていたと、それを母が私に話すのだから、どこか抜けている。でも両親とも、私の行く末を心配し、愛していてくれたことは間違いない。物理的な親離れは大学に入ってからである。寮生活を送ってからだ。大学時代から、里にはほとんど帰らなかった。帰ったとしても長くいない。両親の元にいると窒息しそうになるからである。例えば、12月30日ごろに帰って、大晦日に去るというようなものである。だから成人してから、家族揃って正月料理を食べるというのを殆ど経験していない。経験というとアメリカに渡り、日本にこの時期に帰ったときぐらいなものである。しかし、父とは手紙のやりとりをしていた。眼前にいる父にはどうしても反抗してしまうが、手紙のやり取りは理念のやりとりで、父の考えも知り、尊敬もしだした。父の生い立ちの不幸も分かり、同情もした。アメリカにやってきても手紙のやり取りは父が死ぬ直前までやり続けていた。父はそれが嬉しく、自由奔放に破天荒な人生を歩む私を羨ましく思っていたところもあった。また周囲には誇りある長男として、語っていたようである。しかし、弟に家を託し、世間一般の常識からすると親不幸な長男であったことは間違いない。
  親との関係は巣立ちしてからが本当のものになる。Erasusさんも書いておらるが、成人して反抗が続けば、ただの家出である。私はあるとき父に「勘当したらどうだ」と迫ったことがある。「勘当せん」といってくれた。私は本当に両親から離れてしまう気持ちがあったのだ。そこが父への脅迫にもなっていた。ニュージーランド、オーストラリアへ旅行したとき、葉書に「もうこれからこちらに一生住みつくつもりです、ジョーク」と書き送ったところ、ジョークという意味が分からずに、私の職場に、電話したぐらいである。アメリカにやってきたときも、「アメリカに着いた。元気だ」程度の簡単な葉書を送ると。これが父への脅迫になり「気持ちは変わった、少なくとも5年はおれ、少ないが援助する」という手紙が届いた。父こそ私が巣立ちすぎて帰ってこないことを心配したのである。今思えば本当に悪い息子であったと思う。
   
  戦後史を考えるとき「吉田茂売国奴」と、私も思い始めている。彼が日本の再軍備を誘いかけたアメリカに、憲法9条を盾に、経済を優先させた現実的選択を行なったことは賢明であったという吉田礼拝者の論点がある。しかし、これは、魂を捨てた、プライドを捨てたゲスの選択であり、この吉田学校の優等生、池田隼人、佐藤栄作などの、戦後自民党の主流を繁殖させたとする見方がある。この現実主義、つまり国家理念をないがしろにする考えが、自民党の体質的問題点と見る考えもある。戦後、GHQによって魂を奪われた国が、せめて現実的路線、経済優先を選択するのはギリギリの日本人の知恵ではなかったのではなかろうか。ただその選択時代の苦悩を忘れて、魂のないのが当たり前になった現在の現実はいかがなものだろうか。そして魂を取り戻そうとするために、過去の歴史から学ぼうというのは別に悪いことではない。その学ぼうとする集団を一括して、「日本会議」一派とかたずけるのも如何なものだろうか。日本会議社会主義、OO主義などという主義、思想というものは、一つのパラダイムを信奉して成り立つ。そのパラダイム、基礎的な基準に縛られたくない、いつも自由でありたいと願うのが坂本竜馬主義なのである(これも一つの主義である)。
  時代が急激に変化するとき、この坂本竜馬主義は威力を発揮する。元々そのような時代は組織が金属疲労しているから、基礎たるパラダイムに依存すること自身、愚かなことである。新しきことを求めるのは当然である。ところで安定した時代には、パラダイムがしっかりしているので、坂本竜馬主義は必要ではない。しかし、パラダイムのがんじがらめの束縛から解放されたいと願う人間が多く輩出する。現実的生活の中で坂本竜馬主義的振る舞いは出来ず、せいぜい司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」のような虚構の世界に夢をふくらませる。学生などはまだ現実生活、現実パラダイムの中に入っていないから、当然坂本竜馬主義を新しいパラダイム創作のためのエネルギーとしていただく。

  坂本竜馬主義は、良い意味でいうと「新しいパラダイム」を創造しようとする、時代の開拓者である。ところが大部分の坂本竜馬主義者は、ただ単なる「新しがりや」のレベルで終わってしまう。本来の坂本竜馬主義は科学者のアプローチでなければならない。それは既存の科学知識は一応理解した上で、既存の知識では理解できない現象を、新しい理論を開拓し解明しようとするアプローチである。新しがりや坂本竜馬主義者は既存の知識がなく、つまり基礎的学力がなく、新しい世界を夢見、ただ新しいことだけを求める輩である。これを社会科学、政治の世界に適用するなら、ただ過去を否定し新しければ何でもよいと考える潮流である。中共文化大革命をイメージすればよい。過去の文化を否定、破壊し、過去に活躍していた人間を否定、虐殺するという考えだ。
 さて日本の坂本竜馬主義を考えよう。本物の坂本竜馬はそれほど教養がある人間ではなかったようだ。ただ、日本の行く末を直感的に判断し、行動できた人間であった。時代が坂本を要求したのかもしれない。もし坂本竜馬が、現在に突如現れたとして、現在の日本の固定したパラダイムの中で、どれだけ彼の実力が発揮できるであろうか。きっと「新しがりや」レベルの人間で終わることだろう。また、時代の流れに窒息して、ただ単なる不良不満分子にとどまることであろう。
  
  河野洋平発言を撤回させるのは日本の政権変更は良い考えである。民主党政権なら、前政権の自民党政権河野談話など反古にできる。しかし、小沢を党首とする、媚中共、媚朝鮮の民主党に政権を譲ることは、なお危険である。本来政権再生が一番良いと思うのだが、もはや日本の政治体質は金属疲労をおこしているので、「新しがりや坂本竜馬程度でもよいからまず変えましょうか」というやり方で進むか。何はともあれ、政権を変えるにしても日本人の総合力に依存しなければならない。果たして日本人の総合力は新時代を開拓できる力を持っているのだろうか。
  ところで、現行日本政治への音痴な私であるが、麻生首相河野派に属しているとある人から聞いたのだが、これは正しいのか。

  ケネディのこと、Kがどのように言っていたか忘れたが、改革を唱える人間をよく言うわけがないだろう。金持ちは現体制が良いから金持ちになれたのであって、体制を変えるとは、この体制を不満に思っている金を持っていない人間に迎合することであるから、Kは改革派を良く言うわけがないだろう。
   私のテナントの殆どはオバマ支持である。ケネディーに対してもアメリカのヒーローと言うだろう。店子さんがオバマケネディー支持者であることは構わない。そのような甘っちょろい考えを持っているから、一生自分の家さえ持てなく、家賃を払い続ける人間になるのである。そういう人がいるから、資本主義者の端くれの私が生きていけるのである。オバマケネディー大歓迎である。
  しかし、そのような見方だけでは無責任であるので常識的に見て、ケネディへの評価を少ししておく。ケネディーの市民権運動はそれなりに評価しても良い。黒人などのマイノリティーが人間らしく生きるようにしてくれたのはケネディーの功績は大きい。
  ある人物を評価するのに完全に良いとか完全に悪いということなどありえない。ただ自分の立場に立つとき、この人物は好ましかったとか好ましくないと判断するのである。オバマを支持するテナントの皆さん、それはそれでよいのである。(2008年11月10日、記)
木庵