白洲次郎論#2

白洲次郎論#2
  白洲次郎と木庵との共通点といえば、生まれ、育ちが同じ兵庫県ということである。白洲家の祖父が三田藩の家老であったというが、木庵の故里は三田に隣接する田舎である。また、白洲が育った芦屋や伊丹の近くで大学時代からアメリカに来るまで住んでいた。だから地域性から白洲に親しみを覚える。しかし、育ちは雲泥の差がある。貧しさの中に育った木庵は、いつしか金持ちの弱さというか陰を見ようとする習性がついている。どう転んでも彼たちの域まで達せないとするなら、彼たちは自分の求める世界ではない、己の世界の方が豊かなんだと思うようにしたのである。その思いが持続すると、おもしろいことに、本当にそう思ってしまう。今では金ではない、己の心が満足すればそれでよい、逆に金持ちに同情するようになっている。なぜなら、金持ちが今幸せだとするならその幸せはいつまでも持続しないことが分かるからである。人生なんて、落ちれば誰も同じである。一時金持ちであったり、権力を握ろうと、持続などできっこない。そうであるなら、他人と比較するより、短い人生であろうが、自分が満足すればそれでよい。そう思うようになったのである。
  白洲は大衆と桁違いに違う育ちをしているが、どことなく親近感が持てる。それは、彼の破天荒さにあるようだ。我々普通の人間は羽目を外そうとしても外せないしがらみのなかで生きている。しかし、白洲のような特権階級(?)の人間は軌道から外れても、世間はそれを許すところがある。それは、極端に言えば金の力である。白洲が友達と喧嘩して傷つけたとしても、それを補う金の力がある。あまりにも次郎が喧嘩にあけくれるものだから、白洲家には謝罪のための菓子折りが常備されていたという。これは金の力というより、親の気配り、世間への気配りがいき届いていたのである。貧しい家庭で育とうが裕福な家庭で育とうが、次郎のような暴れん坊はどこでもいる。この暴れん坊が近所の人から可愛い暴れん坊と映るか、どうしょうもない暴れん坊と見られるかは、親のフォローによって違ってくる。少なくとも、白洲家にはそのフォローが行き届いていたのである。だから周囲からそれほど白い目で見られることなく、自由な子供らしさを謳歌できたのである。それに対して、親のフォローがない暴れん者は、周囲から煙たがられ、結局本当のひがみ者になっていく。子供や、たとえ大人でも周囲の目が気になる。周囲から暖かい目で見られていることは、それだけで人間をおおらかにし、より自由人になる第一ステップを踏むことができる。ひがみ者は自由人にはなれない。そして一番大事なことは母親の愛情をどれだけ受けているかによって、人間性が決まる。次郎は母親の愛をことのほか強く感じながら育った。幼い頃は身体が弱く何度も大病に罹って死の淵をさ迷ったが、その都度、母・よし子の献身的な看病のおかげで生命の危機を乗り越えている。後年その頃を思い出すたびに感謝の思いが胸いっぱいになったという。彼は雑誌のインタビューで、「世の中でいちばん好きで、いちばん尊敬しているのは母だ」と照れることなく語っている。ここで、木庵の独善的な男らしさ論を述べる。先ず、男たるもの母親の深い愛情があればあるほど男らしくなる。観音様のような慈しみ深い母親から本物の男が生まれる。近頃の、ただ子供の側にびったりくっついている母親ではない。次郎にも母親から愛されるだけの聡明さと愛らしさがあったのだろう。同じ子供でも可愛いと思う子と、どことなく可愛くない子がいる。次郎は可愛い子であったのだろう。次郎の家の近所に鰻屋があり、その店の女将から特に次郎は可愛がられた。幼い次郎のことを「坊ちゃん」と呼び、他人とは思えないほどの愛情を注いだという。おいしい鰻を食べさせただけでなく、次郎が病気をしたときには、よし子に代わって何日も看病したぐらいである。こういうことから考えても、次郎は元々他人から寵愛される天性の性格を持っていたようである。
  次郎は天性の男らしさを具える環境に育ったことは分かるが、輝ける玉も磨かなければ本物の美しさを醸し出すことはできない。

白洲次郎の男らしさのルーツ#2(ケンブリッジ時代のこと)

   ケンブリッジ大学には31のカレッジがあったが、次郎が入学したのは最難関のクレア・カレッジであった。クレア・カレッジ入学式のときの写真がある。四角い学帽にマントの69名の中で、東洋人はただひとりである。最後部で他の学生と身長は同じ程度で、超エリートイギリス人学生がどこかまのびしているのに対して、次郎は正面を見据え威厳さえある。当初の成績は最下位であったが、猛勉強の結果二年目にはトップクラス入りを果たした。教授陣は優秀で、かの有名な経済学者ジョン・メイナード、ケインズもいた。ケンブリッジ時代のエピソードとして、J・J・トムソンという物理学者(電子の発見で有名)のクラスでテストを受けた。次郎は徹底的に勉強して、結果には自信があった。ところが返ってきた点数はよくなかった。不満に思いながら答案を仔細にチックすると、「君の答案には、君自身の考えが一つもない」と書かれていた。これはショックであると同時に次郎にとって喜びであった。というのは中学時代から疑問に思っていた日本の暗記中心教育に反発していたものが、イギリスで解けたからである。自分の頭で考えることの重要性を認識するに至ったのである。これこそ、次郎が次郎として花を開く修行時代にさしかかったことを意味する。それ以後の次郎は自分の頭で考える勉強を続けることになった。それにケンブリッジでは英国紳士道を学んだ。武士の血を引く次郎が英国流騎士道によって涵養されていったのである。親元を離れた不良少年(?)であった次郎にとって、イギリス式紳士への道は厳しくも、華やかなものに映ったにちがいない。木庵は白洲より恐らく7歳ほど年長でアメリカのコロンビヤ大学に留学(彼は留学ではなく、遊学であったと言っていたが)したSという人から懇意にしてもらっていた時期があった。Sの家も白洲家ほど裕福で、月々500円の仕送りがあった。当時500円とは小さい家が買えたという(本によると、次郎の場合一度に一万円ほどの送金があった。現在の金に換算すると3000万円になる。Sが月500円の仕送りを受けた話が本当だとすると、次郎より7年前を考慮にして今のレートで約200万円になる。確かに当時の小さな家は買えたのだろう)。白洲次郎のことを考える時、Sと比較したくなる。Sも芦屋の豪邸に住んでいたが、戦後新しいビジネスを始めたのがあまり芳しくなく、最終的にはこの豪邸あとにアパートを建て、その家賃収入で生活していた。アパートの一室にSも住んでいて、93歳で天寿を全うした。Sは華やかさがなかった。ごく普通の妙好人であった。アメリカ留学経験者であるにかかわらず、彼の発する言葉のなかに英語の単語がほとんどなかった。アメリカかぶれ、西洋かぶれしていないのである。白洲が戦後、日本社会の桧舞台に引き出されたのと対照的に、地方のビジネスに携わっていたSは地味であった。しかし、この年老いた妙好人に木庵は引かれるものがあった。もし二人が私の前に現れたとすれば、きっと、Sの方により親しみを感じるであろう。それはSも白洲と同様、戦前の超裕福な家庭に育ち、超エリートの教育歴がありながら、どことなく日本人として普通の感覚があるように思えるからである。Sは名刹禅寺の総代であった。その寺の総代であるだけで、著名人として世間が認めた。それにかかわらす、彼には威張りや奢りがなかった。私のような若輩者でも、1人の人間として接してくれた。私が彼の住んでいるアパートを訪問すると、よく私と話に付き合ってくれた。Sも白洲と同様、子供の頃やんちゃ坊主で、特に絵が苦手であった。夏休みの宿題に絵を描いて提出しなければならなかったが、他人の描いた絵をそのまま提出した。絵の裏側にその絵を描いた人のサインがあったが、それを消して、自分のサインに書きかえた。教師はその巧妙なSの細工を見破り、Sを職員室に呼びだした。しかし、教師はSを叱ることなく言った。「このようなことをするのはよくない。しかし、お前のサインの消し方はたいしたものだ。お前の消し方のうまさに免じて、今回は許してやる」。Sはそれ以上の説明をしなかったが、ようするに、戦前の教育者は余裕を持っていて、子供一人ひとりの個性をよく知っていた上で、Sのようなやんちゃ坊主に暖かく接して+いたことを言いたかったのだろう。木庵はこのような老人の話を聞きながら、戦前のことをよく想像したものである。少しわき道に逸れたが、ようするに、Sには、悪い言い方であるが、白洲のような西洋かぶれ、イギリス崇拝主義がない。アメリカ留学から後、逆作用として日本の良さを認識するようになったのではないか。木庵もアメリカに留学し、今もアメリカで生活をしているが、アメリカのよさは分かっていてもアメリカかぶれなどしていない。むしろ、日本の文化の中に、歴史の浅いアメリカにはない豊かさを感じている。白洲のことを調べるにつれて、彼の良い意味のイギリス主義・欧米主義と同時に日本の伝統文化にあまり興味がなかったのではないかと憶測するに至っている。戦後昭和天皇のプレゼントをマッカーサーに持って行ったことは冒頭に述べたが、私の読んだ本のどこかに、「白洲次郎天皇制の支持者ではなかった」という気になる記事があった。このあたりの分析は後にするとして、#3では、次郎のケンブリッジ時代の遊び、友情、それに次郎の兄尚蔵のことにについて書く。
つづく