白洲次郎論#3

白洲次郎論#3
ケンブリッジ時代の友情と豪放な遊び、そして影

   次郎はケンブリッジで終生の友と出会った。貴族の青年ロバート・セシル・ビング(Robert Cecil Byng)である。ロビンと呼ばれていた。ロビンは次郎より二歳年下である。彼の家系はウイリアム征服王の流れを汲むスロラッフォード伯爵家である。ウォーテルローの戦いに参戦し陸軍元帥になった先祖もいる名門である。次郎は群れることを嫌い、英国でも、パブなどに行ってもひとり店の隅で飲んでいるようなことが多かった。ロビンも内気で人見知りする性格であった。ある日、ロビンが学友から絡まれることがあった。そこに通りかかった次郎が、「おい、嫌がっているんだからやめてやれよ」と割って入った。日本での喧嘩の実績があった次郎には一種の威圧があった。次郎の介入により、難を逃れることができたロビンは非常に感謝した。地味なロビンと派手な次郎。見た目は正反対でも性格はどこか似ていた。この事件以降ロビンと次郎の関係が急接近し、意気投合するようになった。後に爵位を継承して7世ストラッフォード伯爵となるロビンも、その頃は並の金持ちの子供にすぎなかった。それに比べると次郎の方は前述したように桁違いの仕送りを受ける身分であった。中学時代に車を買っもらっていた次郎は、自動車の本場で、自動車に熱中するのは当然である。ましてや莫大な金を送金されているのだから、当然車を購入することになった。手に入れた車がペントレーの3リッターカー。当時のカーマニアの垂涎(すいぜん)の的の車であった。耐久性がル・マンの優勝でも証明されただけでなく、時速100マイル(約160キロ)近いスピードが出るというから、現在でもF1並である。次に購入したのがブガッティ。走る宝石とまでいわれた名車である。車が貴重品であった当時、超高級車を二台所有するというのは普通ではない。次郎とロビンはよく一緒にドライブをした。と言っても運転するのは殆ど次郎であった。当時、英国内でスピードの出しすぎが社会問題化し始めていた。若者が公道で自動車レースをするのが流行(はやり)始めていた。次郎は一度大事故を起こしている。足と鎖骨のあたりを負傷している。当時ケンブリッジの友人は二人のことを、「オイリーボーイ」と呼んでいた。オイリーボーイとは、油まみれになって車をいじっているカーマニアのことである。この時代のことは次郎にとって一番華やかな時代であった。だからNHKのドラマ紹介のために、次郎扮する伊勢谷友介がさっそうと車に乗っている写真(#1の冒頭に掲載した)が使われている。また、白洲次郎について書かれた本の中でもこの時代のことが多く扱われている。高級車を乗り回し、イギリス人美女との恋、西洋文化にコンプレックスを持つ視聴者や読者を引きつけるのに絶好の場面である。東洋人でありながら背が高くハンサムでイギリス人と対等以上に振舞う姿は絵になる。白洲次郎を美化するのには最高の場面である。木庵もこの時代のことを読んでいると胸がスカッとした。しかし、次郎の心の中がどうであったかを考えると、本人もあまり書いていないし、ましてや並の伝記作家が彼の内面まで見通せるわけがない。仮に嘘でも当時の次郎の内面の葛藤のようなものを書くことが出来る作家がいれば、その人は本物だろう。山崎豊子あたりが書けば、ドラマ全体が壮大に展開し、そして次郎の矛盾した微妙な心の動きを描きだすであろう。人間の内面は複雑で簡単に表現などできない。しかし、想像するのに、次郎のような心ある青年が、贅沢な生活をただ安穏と喜んで過ごしていたはずがない。木庵の読んだ本の中に、次郎の心の葛藤のようなものがほとんど描かれていない。ただ次郎ではないが、彼より5歳年上の、尚蔵について書かれた箇所があったことに興味がもてた。次郎は二男三女の5人兄弟の二男、三歳上の姉と、二歳下と九歳下の妹がいる。尚蔵は京都帝国大学を卒業してから、次郎に少し遅れて、オックスフォード大学に入学した。尚蔵は上品でハンサムな好青年であった。次郎は二男ということから自由奔放な性格を持っていたが、尚蔵は優等生タイプの人間であった。どちらかというと人生を真面目すぎるぐらいに考える人間であった。次郎を陽とすると尚蔵は陰と言いたいころだが、木庵はそう簡単に二人を対比させない。むしろ、次郎に尚蔵の陰さえも持ちえたと解釈したい。伝記作家や、次郎の友達が陽のところばかりを表現しているものだから、次郎の陰が見えてこない。もし、次郎が自分のことについて書かれた伝記やこのたびのNHKのドラマを観たとするなら、「そんなところだけじゃないんだがな。俺だって暗いところもあったんだ」と苦笑いするに違いない。とは言っても、尚蔵は次郎に比べれば影(陰)は濃い。そこで、尚蔵の影をこれから少し述べる。ここで読者に気をつけてもらいたいのは、尚蔵の影の部分は次郎の影と重なることを考えてもらいたい。つまり尚蔵の影の部分が次郎にも投影される構図を想像してもらいたい。
   オックスフォードを卒業した尚蔵は、ロンドンのイーストエンドと呼ばれた貧民窟に住み始めた。大学時代、社会問題に目覚めた彼は、貧しい人々に目を向けようと自らその中に飛び込んでいったのである。アヘン窟が軒を連ねているようないかがわしい場所に身をおくのである。尚蔵は大英帝国の繁栄の陰に隠された闇の部分に焦点を合わしてしまったのである。次郎が大英帝国の繁栄の陽の部分に焦点を合わせている時代に、尚蔵はあまりにも恵まれている自分の境遇とのギャップに悩み、苦しみ、煩悶する日々を重ね、ついに心を病んでしまったのである。そして帰国してしまうのである。子供のときから頼りにし、尊敬していた兄がこのような運命を辿っていったことに対して、感受性の強い次郎がもの思わなかったはずがない。今回のNHKのドラマではこのあたりの次郎の心の葛藤など描いていないはずである。木庵であれば、自動車やガールフレンドと楽しく過ごしている次郎と対照して兄を描き、「兄とは関係はない」、「兄とは俺は違うんだ」と虚勢を張っているように見えて、兄の動向が気になって仕方がない次郎の心の様を描くのだが。そのような心理描写ドラマなど誰も興味を示さないだろうから、ただ次郎の華やかな男らしい青春を描いて聴衆を魅了する道を選んだに違いない(ドラマを観ずに不遜な態度であると認めつつ書いている)。 

   ここから、木庵の勝手な想像、妄想をより発展させる。当時英国には三つのタイプの人間がいた。一つは、大英帝国の繁栄はインドなどの植民地などから搾取にも似たやり方で得た富を何の苦悩もなく享受した人間、その罪悪的な行為に対して罪の意識にさいなまれた人間、そして、そのような社会的なこととは一切無関係な人間(大衆)がいた。ケンブリッジやオックスフォードで勉強するような人間は前者二つの中のどちらかに属していた。イギリスの偉大なところは、植民地搾取という極悪行為をしておりながら、それに反対するグループもいたというバランスがとれているところである。若者は理想主義に燃えているのだから、己の恵まれた境遇が大英帝国の恩恵の結果であることを知りつつ、帝国主義の罪悪性。矛盾に苦しむインテリが多くいたのも不思議ではない。そのようなインテリの影響をモロに受けたのが尚蔵であり、植民地政策を暗黙のうちに是認するグループに影響されたのが次郎ではなかったか。次郎にとって貴族ロビンとの交友は英国の影ではなく陽の部分を見る機会が多くあり、また陽を肯定する考え方に自然に影響されたと考えられる。しかし、大英帝国の陰に沈んでいく兄の姿が気になって仕方がない。自分まで陰に進んでいく気になれないが、完全に陽を満喫できなかったのである。次郎には生きるエネルギーが人一番あった。植物が太陽に向かって伸びるように、自然に英国の良いところばかりを見ようとした。それに対して、兄尚蔵は陽を背にむけ、日陰、日陰へと沈んでいく。それは次郎の理解を超えた世界であった。しかし、現実に兄は病気になり日本に帰ってしまった。兄とのギャップをどう捉えてよいものか、次郎の心の中に陰の粒子が舞い込み、混乱をきたすことになった。ところで、次郎と尚蔵とどちらか自然な生き方であったのだろうか。もし神という者がいるとすれば、バランスとして兄に陰、弟に陽を選ばせたのだろうか。白洲次郎論も陽だけにスポットライトを当てると次郎が保有していたであろう陰が描けなくなる。東洋哲学ではないが陰と陽のバランスの関係で社会も人生も動いているとするなら、次郎の父・文平が毎晩のように花街で放蕩していたのと対象的に、妻・よし子は慎み深い女性であったことはバランスとしてはよい。時代が時代だといっても主人が妾を囲むのを好む女性などいない。そのような父親(陽)や母親(陰)の姿を見て次郎は母親の味方をして、陰を好ましいものと思ったはず。たとえ贅沢のし放題をさせてもらえるのは父親のおかげで、陽の性格を持ち合わせていても、陰に惹かれる。そのような心理が働いていたとするなら、次郎は兄尚蔵の中に自分にない陰の深さを感じたはずである。次郎が熱狂した車の世界は陽の世界であり、所詮切ない物の世界である。母親のことを「好きで、尊敬する」と後年次郎が述べていたことはもう書いたが、これをマザコンのレベルで見るより、母親の陰の部分に深く感じるところがあったと解釈した方がよさそうである。そして、あれほど憎んでいた父親と同じプレイボーイへの道を歩んでいくのも、神の陰陽のバランス感覚の悪戯と考えてよいのかもしれない。
つづく