白洲次郎論#1

白洲次郎論#1
  白洲次郎というと、次のエピソードが一番有名だろう。終戦後日本政府を代表して白洲がGHQの交渉窓口を任されていたとき、昭和天皇からクリスマスプレゼントをマッカーサーの部屋に持参した。そのときマッカーサーは、そのプレゼントを「そのあたりにおいてくれ」言ったものだから、白洲は血相を変え、「いやしくもかつては日本の統治者であった者からの送り物を、その辺に置けとは何事か!」と叱り飛ばし、贈り物を持って帰ろうとした。さすがのマッカーサーは無礼を詫びたという。
  敗戦は日本人の自尊心を奪いさられてしまった。その中にあって、戦後の日本国王のごとく君臨していたマッカーサーを叱り飛ばしたとは痛快な話である。「日本男児まだ消滅せず」と拍手喝采したいところである。先日ロサンジェルスの日本語書店を訪れたが、白洲次郎、それに彼の奥さんの白洲正子コーナーが設けられていた。聞くところでは日本でも、今や白洲ブームが到来して、NHKで彼のドラマが放映されたとか。
  さて、これから白洲次郎論を展開していくが、どのようなものが書けるか、今のところ検討もつかない。いつものごとく書きながら考えることにする。読者の方も参加してもらいたい。一応本は白洲次郎に関しては3冊、それに白洲正子に関しては一冊読んだ。まだ読むかもしれない。一応、白洲次郎の歩んできた道、人間性について何とか理解したつもりでいる。NHKで放映されたとか、白洲ブームであるということから、読者の方は彼のことについてある程度の知識はあるとみた。本に書かれたことを参考、引用はするが、木庵の文章を主にしたものにしようと思っている。白洲次郎の生い立ちから始まる時代にそった書き方にするのがオーソドックスな書き方であろうが、今回は自由気ままに木庵の頭に過ぎる白洲次郎論を展開していこうと思う。読者は全部を読まれることにより、結果として、白洲の歩んできた道のり、彼の人間性、日本に与えた影響などがわかるようになればよいと思っている。

読んだ本:「白洲次郎占領を背負った男」、発行所:講談社、第一刷発行:2005年8月2日、「白洲次郎プリンシプルのない日本」、発行所:新潮社、第一刷発行:平成18年6月1日、「風の男白洲次郎」、発行所:新潮社、第一刷発行:平成12年8月1日、「白洲正子両性具有の美」、発行所:新潮社、第一刷発行:平成15年3月1日。「白洲正子自伝」、発行所:新潮社、第一刷発行:平成11年10月。


何故、今白洲次郎

  戦後60年経って、何故今頃白洲ブームか。日本は敗戦の憂き目にあい、戦後のGHQ体制により、大和魂は喪失した。会田雄二が「男性待望論」を書いたのは、木庵が大学時代であった。それ以降木庵は、日本の男性がどう去勢されていったかという研究(?)テーマに向かって人生を歩んできた。そのためには自分が男らしく生きなければならない。元々虚弱で女々しい木庵が戦後の軟弱文化の中で、男らしさなど通せるはずがなかった。しかし、せめて男らしさの理念だけでも持とうともがいた結果、アメリカまで辿りついてしまった。アメリカから日本をみると、間違いなく戦後の日本はアメリカによって去勢されたことが手にとって見える。
  考えてみれば、20世紀はヨーロッパ文明がアジア文明を虐げようとした時代であった。その渦中のなかで日本だけがヨーロッパの挑発に屈することなく、挑み、矢つきて敗北したのである。敗北は今にして思えば「力不足であった」と簡単に片付けられるが、少なくとも男たちは頑張ったのである。大和魂を振り絞って頑張ったのである。そのことをアメリカの男も認めている。しかし、戦争が終ってから大和魂を復活されては安穏としておれない。だから、日本男児の去勢化を謀ったのである。これはごく普通の戦勝国が敗戦国にする常套手段である。日本の弱体化は致し方ないが、去勢までされまいというのが戦後の男の歴史であった。天皇終戦詔勅、「忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐え」というのは、敗戦した厳しい現実を直視しながら、潔く戦勝者の無理難題に耐えるしかないが、「去勢だけはされるな」というメッセージであった。GHQの去勢政策は実に巧妙であった。そのことは「GHQ焚書図書開封西尾幹二)」http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/27620222.html で述べたので、ここでは省く。この巧妙な罠に嵌ってはいるが、いつでももとの男になれるチャンスはあった。しかし、GHQの敷いた足かせから脱却する男らしさが残っていなかったのか、どんどん女性化、平和ボケの日本人になり下がってしまった。田母神氏がロスで講演をしたとき、「今日本は強い親父を求めているんです」と言っていた。また同氏は「戦後日本が妥協に妥協を積み重ね、支点がどんどん左へ左へと移動して、もはや保守陣営はなくなった」とも言っている。白洲次郎ブームはこの左傾化からの脱却のための動きなのか、ただ単なる男らしさへの回顧なのか。

白洲次郎の男らしさのルーツ#1(誕生からケンブリッジ入学までにおける)

白洲次郎は明治35年(1902年)2月17日、兵庫県武庫郡精道(せいどう)村(現在の芦屋市)において、父・文(ふみ)平(ひら)、母・よし子の次男として生を享けた。昭和天皇誕生の翌年のことであった。白洲家は三田藩兵庫県三田市)において代々儒官を務めた家柄で、次郎の祖父,退蔵(たいぞう)は大参事(家老職)に抜擢されるほどの名家であった。父・文平は、大正から昭和初期にかけて綿花貿易で大成功をおさめた実業家で、留学経験も長く、考え方や行動も万事欧米流であった。文平は花柳界に出入りして毎晩派手に遊び、妾を囲っていた。詳しくはわからないが、次郎には母親の違う弟や妹もいたようである。次郎の名前は、次男だから次郎とつけられ、そのことで次郎は父親を嫌っていたという。幼少の頃身体が弱かったが小学高学年あたりからやんちゃ坊主へと成長していった。芦屋の次に移り住んだのが、現在の伊丹市である。昭和4年頃撮影された航空写真によると、白洲邸が写っている。優に学校ほどもある広さで、給水塔がある屋敷である、現在屋敷跡は、自衛隊伊丹駐屯地の幹部宿舎や個人宅にもなっている。何不自由もない暮らしの中、全国屈指の名門校神戸第一中学(現在の県立神戸高校)に進学する。次郎はこの学校になじめなかった。卒業生が一高や三高に進み、その後東京帝国大学京都帝国大学に入学するのが当たり前という風潮に反発していた。ガリ勉でいい成績をとる人間より次郎の方が頭がよいという自負もあった。唯一神戸一中時代に見せた積極的な行動は野球部への入部であった。父・文平は野球草創期の花形選手であり、次郎も幼いころから文平相手にキャッチボールをしていたことがあって、野球に興味をしめした。ところが、根性をつけさせることを主眼においた厳しい練習になじめず、熱中とまではいかなかった。熱中はむしろ車の運転であったというから、このあたりから普通の人間ではない。当時大人でも車を持つ人間などごく少数であったのに、父・文平は次郎にペイジ・ゲレンブルック1919型という米国車を買いあたえている。想像しただけでも小生意気な金持ち坊ちゃんの姿が浮かんでくる。教師も次郎の態度に不快感を抱いていたようである。成績表の素行欄に「やや傲慢」、「驕慢」、「怠惰」という文字が並んでいた。神戸一中時代の友人のひとり今日出海(作家、佐藤内閣伝での初代文化庁長官、作家の今東光は兄)によると、「背が高い、訥弁、乱暴者、かんしゃく持ち」であったという。また次郎のことを、「育ちのいい生粋の野蛮人」と呼んでいる。このような次郎にとって日本は窮屈であったにちがいない。普通この程度のはみ出し者は、日本社会でくすぶってしまうのだが、金持ちというのは世界が開けるものである。旧制中学を卒業してから、ケンブリッジに留学というから、桁が違う。
  次郎の生まれ、育ちから見ると、我々の大衆から程遠い生活環境に育ったということが分かる。このことと、男らしさと結びつけることができるのであろうか。ある人は次郎の育ちの良さに、男の条件として合格点をあげるだろう。またある人は、ひがみぽっく、どうせ成金の息子だろうと、次郎の欠点を探すだろう。木庵はどちらの感情も次郎に対して抱く。どちらかというと後者の方が強いのかもしれない。大体、歴史上の人物について書かれた本というものは、どうしてもその人物を美化するものである。私の読んだ本も本当の白洲次郎を浮かび上がらせているかどうか、疑問とするところである。所詮、過去に生きた人物を現代に蘇らせることなどできない。しかし、人物伝は作家の人生観や考えのフィルターを通しているとはいえ、作家が書こうとする人物と対決した後がうかがえ、後は読むものの想像に突っ走ればよい。木庵もそうする。白洲次郎論とは木庵論である。木庵が白洲を男らしく見るか見ないか、白洲は知恵者であったかなかったか、白洲は善人であったか、なかったか。結局木庵の白洲に対する思いを書く。
つづく