自然農法(わら一本の革命)#47

自然農法(わら一本の革命)#47
{koreyjpの最新のコメント
かうして振り返ってみると、私たちは結構まじめに大切なことを論じ合ってゐたことが判ります。ブログの有意義な活用が出来たことを本当に嬉しく思ひます。次のテーマの白洲次郎についても期待してをります。 2009/6/9(火) 午前 1:31 [ koreyjp] }
農とは確かに大切なものです。大自然の神と交流する、人間の基本的な営みですね。岡先生も日本の百姓は勤勉で「自分で耕して自分で得る」喜びを知ってゐる(これを自作自受(じさじじゅ)と言ふのださうです)」と仰ってゐます。しかし福岡氏が言ってゐることは無為の喜びであって、これは老荘思想に通ずるものです。
猶、福岡氏とは逆の考へ方を道元がしてゐます。道元は、食べるものを得るための営みなんて、仏を極める仏道に比べたら最低のものだと喝破してゐます。道元は、農業も唯物論だと言ひたいのでせうか。koreyjp ]

[ koreyjp ] さん、道元は食べるものを得るための営みに集中するすることは駄目で、食することは重要な修行の一つであると思っていたようにおもいます。現に、曹洞宗では典座(てんぞ)(料理をつくる係り)を重要に扱っています。道元が中国に渡った時、椎茸を買いに来た老僧に、もう遅いから舟に泊まっていけばよいではないですか」と言うと、この老僧は「日本からこられた若い方、まだ仏教の意味が分かっていないようです。私はこの歳になってようやく典座になれたのであって、私が帰らなければ多くの修行僧が腹を減らしているのです」のような会話があります。ですから禅宗では食事はとても大事な修行であると考えております。ところが農業そのものに対して道元がどう言ったかは分かりません。貴族出身の道元は農業そのものに興味がなかたのかもしれませんね。上座仏教でも僧侶は生産に従事するのでなく、信者から供されるものを食べることを良しとするところがあるますからね。木庵
[ koreyjp ]さん、禅宗は貴族的、武士的ということは宗教として洗練されているのですが、泥臭い世界に目を向ければ、違った世界も見えてくるとおもいます。洗練さを温存しつつ、泥臭い農業に目を向けるも本来の禅にあっても良いとおもいます。木庵

農業の改良を指導した宮沢賢治は、法華経の信仰が篤い人でした。「決シテイカラズ、イツモシヅカニワラッテヰル、サウイフ人ニ私ハナリタイ」です。ところで、http://polestar.0510main.jp/といふジャーナリスト出身の方のブログは大変面白いです。アウンサン・スーチーのこともでてきます。ご参考まで。 koreyjp
[ koreyjp ] さん、上のブログ、どのようにアクセスするのですか、私流にやってみましたが、出てきませんでした。木庵
岡潔先生は、「人類は相対性理論を発見してから僅かの間に原爆をこしらえた。これは科学の行きかたが間違ってゐた」といふ意味のことをよく仰ってゐました。人間は人間らしく生きることが必要であり、そのために教育勅語は良い指針でした。これは万難を排して復活させる必要があります。 koreyjp

[ koreyjp ] さん、相対性理論は哲学的に面白い考えですが、価値判断の基準がふらつくというところがあります。人間社会には生きる基準が必要です。教育勅語ほど人間社会を上手く機能させてくれる教えはないと思います。これを失った日本民族は混沌としていおります。復活が必要です。木庵
:自然:の意味を間違って使用したり認識されているように感じていましたが勉強になりました。有難う御座います。

mimiさん、コメントありがとうございました。ところで自然はどう定義すればよいのでしょうか。自然について福岡氏が述べたものと、木庵が述べたものがありますが、どちらが自然の意味を間違って使用したり認識しているのでしょうか。木庵
勉強になりました。
「自然」まで、つくられているような思いがありました。

「魂があって姿形がない」自然は、受け入れられない現代。
「形骸があって魂がない」自然が、自然となっている現代。
なんですね〜。

日本は、本当に自然の栄養に恵まれていると思います。
口伝に引き続けられている昔の人々の知恵には、感動します。
与えられた物ではなく、なにもないところから工夫していく能力は、
全ての人間に備わっているはずなのに、与えられることが当たり前になってきた結果、その能力はなくなってしまったのでしょうか。
kayomiさん、現代人は哲学や科学という、自然そのものを一部抽出する道具によって、本当の自然が見えなくなっているようです。ゲーテは言っております。「プリズム(道具)を通し雷光を見たくない。この目で直にみたい」と。福岡氏も言っています。このような態度で自然と接触するのを本能という次元で捉えて否定するのではなく、無分別智として捉えるなけらばならないと。実に壮大な自然観だとは思いませんか。木庵
木庵さん
すべて自然の中で生活し、何があってもそれを神の恵みだと受け止めれば、こんな幸せなことはありませんね。戦後のトンデモ憲法押し付けにより、日本人は正しくゆとりをもって思考することができなくなってしまひました。ちょっと振り返れば、自然に反して無駄なことはたくさんある筈です。 koreyjp
[ koreyjp ] さん、戦後憲法がいかに自然から反するものであることを今の日本人は知りません。GHQのニューディーラーが、実験的、どこの国の風土にも適さないような憲法を作ったのですから。それを有難くいつまでも持ち続けていることは全く自然に反します。木庵

今日も、勉強になりました。ありがとうございました。
バナナは先生の家にあるのですか?
私は、奄美大島の小さな村で生まれました。このようなバナナの木や、パイナップルの木が当たり前にありました。
日本の片隅の小さな島の小さな村が、私の記憶の中ではこれまで住んだ何処の土地よりも鮮明です。今もその頃と変わらない所も残っていると思います。もう、長い年月帰っていません。内海があり、山もあり、川もあって、今思えば、なんてステキなところで育ったのだろうと感謝です。 kayomi
つづく






自然農法(わら一本の革命)#48
kayomiさん、そうなんです。我がアパートにあるバナナです。この写真は昨年撮ったもので、このバナナ1房は知り合いの家でのバースデーパーティーで皆さんと一緒にたべました。今日バナナを見ますと、熟したものがありましたので近い内にいただけるものと思っています。ところでバナナの向こう側の木は何だとおもいますか。アボカドの木です。隣の家のものですが、たわわに実がなってよく頂きます。ロスでは一般の家の庭にアボカドが植えられているんです。アボカドの木1本あれば、家族だけでなく近所親戚友達に分け与えることができ、素晴らしいです。ただし根を張りすぎて、水道管や下水菅を壊してします難点はありますが。木庵
アボガドの気はそんなに大きくなるんですね!
実は、私はアボガドが大好きで、一昨年に種を小さい庭に埋めました。それが芽を出し、今は2メートルほどになっています。
実がつくのかな〜とちょっと楽しみだったのですが、下水管がすぐ近くを通っています。どこかに移す事にしますね、残念ですけど^^;

kayomiさん、アボカド、日本で実をならすのでしょうか??相当暖かいところでなければだめでしょう???木も少なくとも4メートルほどしないと実をならさないとおもいますよ。木庵
ヤギおじさん、コメントありがとうございました。この後、すぐにアメリカの「イミテーション自然」について、ブログに載せます。日本は折角、理想的な自然環境があるのに、窒素過多とは困ったことですね。屋久杉は日本の自然が生んだ世界の誇りです。この素晴らしい環境を守っていかなければいけませんね。木庵

スペインのコロンブスアメリカを発見したことは、foxtailなどのいろんな災ひをも持ち込んだのですね。インカ帝国もスペイン人に滅ぼされました。エスキモーも、インディアンも、中南米の原住民も、みな日本人と血液型がよく似てゐるさうです。(今で言へばDNAが似てゐるといふことでせうか)アジアと米州が一枚岩でつながってゐたかもしれないといふのは面白い話ですね。(10万年ほど前、ムー大陸が突然太平洋に沈没したとの話を読んだことがありますkoreyjp
お早うございます。続けざまのコメント失礼します。
こちらは梅雨に入ったかのような雨が2.3日続いております。
期待どおりの記事、ご同慶の至りでございます。
10年前欧州を訪ねた際に驚いた事がありました。
紳士の国イギリスの下水道は最近まで浄化処理施設も無く、何キロも先の海まで排水管を延ばし海洋投棄していたとのこと。
そして、ゴミの分別収集が徹底していたフランス。なのに当時まだ有鉛のハイオクガソリンでした。
過去の植民地支配で手に入れられる安い原油なるが故か、いずれ本能なるがまま生活領域を広げた結果であることは明白です。
凹凸ある道より平らな道、庭のほうが確かに楽です。楽をした分、結局失っているものがありました。
不自然なる思想原因の根っこがよく分かります。全く同感です。 ヤギ
確かに、アメリカ人はイミテーションを好むやうですね。私が高校生のとき、シカゴの郊外に住む一家にホームステイしましたが、その家の中には本物の観葉植物と、それらのイミテーションの植物が同じくらいの割合であり、それをhost mother がながめて悦に入ってゐるのを見て、なんとも奇異に感じたものでした。今、私の会社の事務所内にも、オールイミテーションの樹木が置いてあります。呼吸もせず、水分も出さず、ただただ埃を載せるだけのイミテーションです。 koreyjp
「我思ふ、故に我あり」、、、なつかしい言葉です。ルネ・デカルトは従軍して北ドイツに駐屯し、夜営の焚き火を囲んでゐたとき、ふとこの言葉を想起しました。岡先生は、デカルトの「我」を主宰者の意味だと言ってをられます。それは神に近いものでせう。しかしデカルトは低い次元並に誤解され、そこから自我が西欧に一人歩きをし始めたのかもしれません。パスカルですら、「瞑想録」の中で「かの無用にして有害なるデカルト」と警句を吐いてゐます。パスカルは「神がゐるかゐないか確立はともに二分の一だ。神がいないほうに賭けて、実際に神がゐなくても、得るものは0だ。神がゐても、得るものは0.一方、神がゐる方に賭けて、実際に神がゐ無くても、得るものは0.しかし神がゐれば、無限の恩寵を得られる。二分の一といふ高い確率で、無限の恩寵が得られるのに、神がゐる方に賭けないのは馬鹿げたことだ」と、やや損得勘定で神の存在を証明しようとしました。このパスカルを、岡先生は「低い天」と評されました。koreyjp
十年以上前ですが、旅行会社のポスターに、こんなのがありました。
若い女性が一人、広い空間にポツネンと立ってゐます。キャプションに「何もしないをしよう」とあります。つまり旅行をして、ボケーとしてみたら如何ですか、といふことを言ひたかったやうです。 koreyjp
木庵さん
福岡さんの話と同様、このブログも皆さんの話がからみあって、有機的に発展しました。お互いに大変有益でした。これからもこの調子でやって行きたいですね。どうもありがとうございました。koreyjp
koreyjp さん、次は白州次郎論です。また、よろしくお願いします。木庵
2009/6/8(月) 午前 1:13[ tak*ona*tou*a ]
かうして振り返ってみると、私たちは結構まじめに大切なことを論じ合ってゐたことが判ります。ブログの有意義な活用が出来たことを本当に嬉しく思ひます。次のテーマの白洲次郎についても期待してをります。 2009/6/9(火) 午前 1:31 [ koreyjp] }