チベット大虐殺と朝日新聞#6

チベット大虐殺と朝日新聞#6

「【パンチェン・ラマ 阿弥陀如来の化身と信奉(みんなのQ&A)】
・ ・・ダライ・ラマパンチェン・ラマの生まれ変わり(転生者)として、ラサから約250キロ離れた田舎に住む6歳の少年ニマを認定して、中国政府の強い反発を招いています。・・・・>(1995年6月15日) 

【中国に行ってはいかが  石原都知事(社説)】
・ ・・中国は嫌い、台湾に好意を寄せるのは、石原氏の信念なのかもしれない。ある意味では、正直な人物なのだろう。だが、率直なだけでは知事としての役割は果たせない。日中共同声明と平和友好条約でうたった『ひとつの中国』尊重の原則をないがしろにし、中国との友好に水を指すような態度は慎むべきである、知事の座は私有物ではない。立場をわきまえぬ不用意な発言によって日中関係を悪化させる損失は、大局的に見れば都政全般にも及ぶだろう。・・・中国に行きたくない、などと言っているうちは、何を主張しても説得力に欠ける。訪中し、中国側と冷静に話し合うことこそ、知事の責務ではないか。・・・。」(1000年4月23日)
<知事としての立場をわきまえぬとは、一切中共の意見に反対しない。「ごもっともです」とただ聞いているだけなのか。朝日のようにいつも中共の立場に立ってものを言うことなのか。>
「【(ワールドくりっこ)チベット観光の牽引車『活仏』が乗る日はいつ
加藤千洋】・・・・
チベット民衆にいまなお敬愛される精神的指導者が、完璧な装備で安心と宣伝される青蔵鉄道の乗客になる可能性は、まだまだ見えてこない。(2006年6月29日)
チベットを侵略する鉄道にまるで粗(うと)い・ダライ・ラマが強情を張っているかのような印象を与えている。ダライ・ラマが侵略の手先の鉄道に乗って
チベットに入るということは、チベット人にとって、屈辱以外の何ものでもないのだ。チベット人民が何を感じるか、という点に関して、朝日は極めて鈍感であるのだ。
「【(社説)チベット 福田首相はもっと語れ】
北京五輪の成果リレーが始まった。・・・・チベット自治区のラサで起きた騒乱は周辺にも広がり、今もデモや衝突が伝えられる。・・・それにしても、福田首相がこの問題をはっきりしないのは納得がいかない。『双方が受け入れられる形で、関係者の対話が行なわれることを歓迎する』。こんな発言は、何も言っていないに等しい。胡錦濤国家主席の訪日を5月に控え、出来るだけ摩擦は避けたいという気持ちがあるのだろうが、この問題の大きさを見誤ってはならない。・・・首相はチベット問題の深刻さを、もっと明確な言葉で中国に語るべきだ。」(2008年4月3日)
 あの胡錦濤は1989年のチベット大弾圧の張本人である。・・・「あなたは人権侵害の極悪人だ」とまで言えばよかったのである。・・・福田首相の一貫した媚中的な態度は批判してしかるべきであろう。・・・しかし、朝日に福田首相を批判する資格はない。

<だいぶ現代に近づいてきた。>

「【(社説)北京五輪  長野のリレーは済んだが】・・・
にらみ合いや小競り合いも起きたが、大事にはいたらなかった。チベット人の人権を守るように訴える人たちも、五輪の支持を叫ぶ中国人もグループも、興奮の中にも冷静さを保とうとする姿がうかがえた。これらの混乱から、双方とも学ぶものがあったはずである。平和と、そのなかで、自らの主張を社会へ訴えることのできる自由と、長野はその大切さを確認する機会ともなった。」(2008年4月27日)

「これまでの混乱から双方とも学ぶところがあったはずである」というが、これは自分たちは高みにおいて、チベットにも中共にも付かないという中立を装っているだけである。・・・これはまったくの嘘であるのはもうおわかりであろう。ここではまるで過去に自分たちがあれだけチベットの侵略を礼賛し続けたことを忘れたかのように、自分たちだけ高みにおいて堂々とお説をたれているのである。
<これまでのまとめとして、著者は次のように述べている>

占領下ではHGQの顔色を伺いながら媚び諂い、1953年にGHQがいなくなると突如豹変し、一貫して中共を礼賛しチベット大虐殺の真実を伝えるどころか隠蔽してきた朝日新聞チベット大虐殺の真実を伝えることを怠ったのみならず、チベットで行なわれている「民主化」を、「解放」であると賛美し、搾取され、残虐な刑に処せられていたチベット人民たちが真に解放されるのは中共となったときだ、と嘘を並び立ててきた朝日新聞中共の一部となって、近代化も進み、晴れて文明人としてチベット人として生活できるようになったというプロパガンダ中共政府と共に行なってきたのが、朝日新聞という新聞であった。中共プロパガンダを行なってきたのは中共プロパガンダ機関・新華社だけではない。日本国内でその役割を朝日新聞が堂々と担ってきたのである。

第5章 朝日新聞が報道しないチベット侵略の歴史
現在、中共の一部とされている「チベット自治区」のことをチベットだと理解している日本人が多いだろうが、実際のところはそう単純な話ではない。チベット民族〔「民族」という語は非常に曖昧で、哲学的に(月偏+危)弱(きじゃく)な概念だが、ここでは文化、慣習、民族意識等を統合した集団を指すものとして用いる〕の分布を見ると、実に、現在の青海省甘粛省四川省雲南省に及ぶ広大地域に、チベット民族が多数見られる。・・・それらの地域を「大チベット」と呼ぶことにする。・・・亡命政府が主張するように、「大チベット」は歴史的に大きくみて、チベットに所属しているといいうるだろうが、「大チベット」そのものの侵略は、中共の成立以前からなされている。したがって、これらの地域に関しては、中共が突然野望をもって侵略したと見るのでは公平を欠くといってよい。例えば中共が成立する以前の清王朝時代から、中国、チベット間において、かなり深刻な領土問題が起こっている。そして、中華民国の時代に入って大チベットの一部は、青海省として中華民国編入されているのである。

中国皇帝がチベット高僧に帰依する「チュ・ユン」関係の起源は、元の時代にまでさかのぼる。チンギス・ハンの孫に当たるゴダン・ハンは、チベットを攻略するためにチベットに遠征軍を派遣した。派遣された先々で、元軍は
仏教寺院を焼き払うなど、無慈悲かつ残虐な侵略、文化破壊を繰り広げた。このとき、事態を憂慮したチベット仏教の高僧サキャ派の教主サキャ・パンディタ・クンガ・ギュルツェンは一大決心をした。彼は自ら、ゴダン・ハンのもとへ赴き、直々にゴダン・ハンと会見を行なった。このとき、ゴダン・ハンは、サキャ・パンディタの高潔な人格に触れ、彼を深く尊敬し、彼に帰依してしまったのだ。1247年の出来事であった。これが「チュ・ユン」関係、すなわち「寺と檀家の関係」の始まりと見なされている。つまり世俗の権力はあくまでも現皇帝にありながら、宗教的に尊敬する師の国家チベットを元の皇帝が庇護するという関係が出来上がったのである。・・・様々な問題を経ながらも、1910年、清朝の末期にいたるまで続いていた。当時清王朝は、チベットに駐蔵大使を置いていたが、決してチベット清王朝服従していたわけではない。チベットはこのときにも、宗教的に清王朝を指導する立場にいた。そして、ダライ・ラマによる統治が行なわれ、チベット社会は安定状態にあったのである。
つづく