チベット大虐殺と朝日新聞#5

チベット大虐殺と朝日新聞#5
支那中共の展示物をどこまで信用してよいか分からない。眼球をえぐりだす道具ぐらいはあるだろう。ただどれだけの頻度で使ったかが問題である。子どもの頭蓋骨で作った椀は恐らく宗教的な意味があるのだろう。勝手な想像であるが、早く死んだ子どもを愛おしく思った親が、せめてダライ・ラマ法王のお椀として使ってもらいたいと、提出したのではないか。これだって実際に使われていたかどうかはわからない。他文化を表面的にとらえると大変なことになる。日本の腹きり文化を野蛮と見たヨーロッパ人の例からもわかるだろう。チベット仏教を物質主義から解釈できないし、所詮南京虐殺をでっち上げた国、展示物そのものをまず疑ってかかるのが正しい。稲垣氏もよく言えたものだ「政・宗・一致の絶対権力を握った権力者」、共産党一党独裁をどう見るのだ。ジャーナリストは歴史を超えたコメントをしなければならない。後の世に大恥をかくことになる。もうこの世の人ではないとおもうが、あの世で閻魔さんに笑われていることだろう。>

「【ラマ僧も労働参加】
・ ・・11万人いたといわれるラマ僧は僧衣を脱ぎ捨て労働者に参加していた。・・・・解放の時のどさくさや文化大革命の際の寺院打ち壊しの折に寺院や貴族の家から持ち出されたと思われる仏具、経典、宝石類を売りつけようというチベット族ともたくさん出会った・・・・こういう文化財を国外に持ち出すことに私たちはためらいを感じる。だがアメリカ人はおかまいなしであった。私たちがラサを去ると同時に『外国人のチベット入りを禁止」の措置が中国政府によってとられるようになったが、こんなことも理由の一つに入っているのかもしれない。」(1980年九月10日) 
僧侶は労働を禁じるラマ教の教えに反することである。中共チベットに外国人を入れたがらなかった理由は、世界からチベットを隔離し、チベットで行なっている大虐殺、大破壊を世界中の人々から逸らすため以外の何ものでもないはずだ。


第四章 中立を装う悪質な偽善集団・朝日新聞1980〜2008)

「【国慶節のラサのデモ、死者6人  中国・チベット自治区
・ ・・・・・公安当局が『祖国統一と政治的安定団結を破壊する違法行為』として規制に入ったたが・・・デモ隊は公安要員に殴りかかり、八角街派出所建物や自動車数台に火を放って破壊。さらに石で殴りかかったり、公安要員から奪った銃を公安要員や群集に向けて発砲したという。」(1987年10月3日)

<「祖国統一」とはなにぞや。他の国を占領して、「祖国統一」という支那中共にもの申されないのですか。朝日さん。自分の国を占領されて、反抗しないことこそ、道理にかなっていないのではないですが。自分の家に賊がやってきて、賊と戦うのが普通でしょう。>

この事件について翌日社説で次のように続けている。
「【チベットの不幸流血事件(社説)】
・ ・・・・国外にいるダライ・ラマとそのグループを含むチベット関係者は、中国の一部としてのチベットの現実に冷静な目を向けてほしい。およそ200万人のチベット族の平和な生活のためにも、無謀な挑発が行なわれることがあってはあるまい。」(1987年10月4日)

<無茶苦茶な論法である。賊がよその家に押し入り、危険を感じた主人が外に脱出した。家にいる子どもや妻が平和な生活を送るために賊は「無謀な挑発を行なわないでほしい」と言っているようなものである。>

「【平和賞は何をもたらすか(社説)】
チベットダライ・ラマ14世に、ノーベル平和賞が授与されることになった。・・・・平和賞があまにも政治的になり、対立を助長することにもなりかねないことに違和感を持つ人も少なくない。平和のための賞が結果として、チベットの緊張を高めるおそれさえある。こんなことがあれば、『平和賞』の名が泣こう。・・・・中国側の立場に立ったパンチェン・ラマが今年1月に死去し、さらに今回の受賞もあってダライ・ラマの立場はある面で強化された。ダライ・ラマ抜きにしてチベット問題の解決はあり得ないことは明らかである。だからこそダライ・ラマ陣営にも望みたい。今度の受賞を機に、対決ではなく和解のために、力を発揮することを。」(1989年10月7日」

<だれが、パンチェン・ラマを殺したのか。ノーベル平和賞は政治性を持っていることは認める。受賞後ダライ・ラマの政治的発言力が大きくなるということだ。武力を持たない彼の最大の武器は言論しかない。朝日は決闘で例えるなら、一方に刀の保持を許し、片方に素手だけで、素手の方に相手を刺激しないように静かにしなさいと言っているようなものだ。>

「【二人の主役】
・・・ダムジュン・ギャンツェ県長は、『チベットを解放したのは
毛沢東だ。村人の毛沢東への感謝の気持ちは今でも強い』と語った。・・・庶民の心には、もう一人の主役がいる。・・・ダライ・ラマ14世を敬愛している。・・・・ダライ・ラマの政治主張については、反応が微妙に違った。30歳になる農家の男性は、『この点については賛成しない』と語り、牛を2頭飼っているという牧畜業の婦人は、顔をそむけ、黙ったままだった。」(1993年8月17日)

<ダムジュン・ギャンツェ県長は中共の傀儡者であると見た方がよい。顔を背け黙ったままの婦人がチベットの実情を物語っている。>

チベット仏教の最高指導者はダライ・ラマであるが、パンチェン・ラマ10世は即位する。そして中共チベット侵略後もチベットに残り、中共の囚われの身となってします。しかし、パンチェン・ラマ周恩来との関係も深く、文化大革命期に投獄の憂き目も遭うが、どちらかと言えば中共よりの発言を繰り返す人物であった。ところが、このパンチェン・ラマが1989年に全国民の公衆の画面でチベットにおける中共のやり口の汚さ、殺害状況を赤裸々に告発したのである。・・・・さらに次のようなエピソーゾを紹介した。ある日中共パンチェン・ラマ側近の家族が『パンチェン・ラマの言うことを聞かなければよかった』と言っているのを耳にした。・・・・『パンチェン・ラマのいうことをきいて、パンチェン・ラマが言うように非暴力主義を貫いたので、私たちはこんな惨めな生活をすることになった。何故あのとき、武器をもって立ちあがらなかったのだろう。パンチェン・ラマのことを聞いたことが、本当に間違いだった』と言ったという。中共は驚いただろうが、・・・この話を聞いたパンチェン・ラマも、さぞかし苦悩したことであろう。このような自分の苦しい胸のうちを公衆の面前で発表したのだ。ところがその5日後パンチェン・ラマ心筋梗塞で倒れ、そのまま亡くなってしまう。『怪死』といってよい。・・・ダライ・ラマは1995年5月14日に、ラサから約250キロ離れた田舎に住んでいる6歳の少年ゲントゥン・チューキ・ニマを次代のパンチェン・ラマとして指名した。もちろん中共がそれを認めるはずがない。なんとそのわずか3日後にニマ少年は両親共々失踪してしまうのだ。そして、現在もその行方は定かではない。その間に中共もどこからか次期後継者を見つけてきて、ギェンツェン・ノルブ少年を次期パンチェン・ラマだと決定したのである。
つづく