チベット大虐殺と朝日新聞#4

チベット大虐殺と朝日新聞#4
  チベット人民の基本的人権及び自由が力ずくで無視されているという現状を鑑みて、これを守るように国連で決議したわけであるが。ここで朝日は「内政不干渉」の困難について述べている。・・・確かに「内政不干渉」にジレンマがあることは。朝日の言うとおりである。ところが、この決議案に関して朝日は最後のところで「日本代表の賛成投票は、あまりにもお座なりではなかろうか」と水を差す。全くもって理解に苦しむ言葉である。ならば、朝日に問う。「こういう決議案が出ることに対して賛成なのか反対なのか」と。朝日は一切ダンマリを決めこんで、自らを高みにおいて、日本政府だけを批判しているのだ。こういう卑劣なことを繰り返すのが朝日新聞に他ならない。
第三章 口をついで出る朝日新聞の「嘘」の数々(1960〜1980)
「【その後のチベット】  【反乱で民主化早まる】  【ラマ教 経済的基盤を失う】【封建制度打破へ】
 中国側の資料によると、全人口の2%足らずの農ド主(官僚、寺院、貴族)が全部の土地と農ド、どれいを独占していた。・・・人口の90%余を占める農ドは、勤労収入の70%以上を農ド主にしぼり取られていた。人口の5%前後をしめるどれいは農ド主の所有物であった。だから、中国のチベット“弾圧”を非難する人たちは、“チベット人の人権や自由を尊重せよ”といっているが、一体チベットにいかなる人権や自由があったのか、というのが中国側の主張である。
【工作隊  続々農村へ】
 それにしても、チベットの反乱鎮圧後、中国側がうった手はあざやかであった。・・・彼らの指導により、大量の積極分子がつくられた。各地で『訴苦大会』(これは中国の土地改革のさいにも広範に行なわれた。農民こもごも立ってこれまでの苦しい生活をふりかえり、地主やボスを非難する集会)が開かれた.・・・」(1960年4月3日)

  チベット人民はあまりに愚か。彼らは中共によって「解放」され、自由と人権が与えられたというのである。中国側が鮮やかと、中共の大弾圧を礼賛しているのである。
<中国側の資料があたかも正しいという書き方である。木庵の「中国問題」を参照してもらえれば分かるが、中共の報道機関は中国共産党の直系である。全てプロパガンダ報道と見てよい。朝日ともあろうものがそのことを知らないはずがない。それを承知で、中共に媚びへつらっているのである。朝日は中共で優遇されたであろう。また中共と同じプロレタリア革命を日本で誕生させたかったのだろうか。チベット問題は「人権問題」ではない、他国への「侵略問題」なのである。問題の質を変形してはいけない。朝日さん。>

「【やはり微妙な存在】
いま、ラサ市 に所属する13の県には小学校が226校もでき、8千4百人の児童が勉強しているという。ラサ川では、チベットで最大のノーキン水力発電所の建設工事が中国各地から送られた建設材料によって進められている。2月27日の旧正月には、ポタラ宮をはじめ、大昭寺や各民家にいっせいに赤旗がかかげられた。3月18日には、首都文芸工作団がラサで初の慰問公演を行い、中国の社会主義建設の大躍進をえがいた「竜虎を下す」という劇を演じて、チベット人に深い感銘を与えた。こうした最近の中共側の報道は、チベットの民主改革がきわめて順調に進んでいることを示しているかのようである。」(1960年4月3日)

<「大昭寺や各民家にいっせいに赤旗がかかげられた」ということは、日本の寺や民家にいっせいに赤旗がかかげられたと同じことなのですよ。そのことがお分かりにならないのですか、朝日さん。>
  

それから5年後の記事を紹介する。
「【発足するチベット自治区  中国政府  着々と“民主革命”】
中国のチベット自治区が9月1日正式に成立する。内モンゴル、新疆ウイグル寧夏回族、広西壮族に次いで5つ目の自治区である。自治区の成立は、その地域内の区域自治が認められるとともに、中央の支配力がそれだけ浸透することを意味している。とくにチベット自治区の成立は、中国にとって大きな歴史的意義を持っているといえよう。・・・中央政府の方針に不満を持つ旧農奴主と僧の一部は、59年3月ダライ・ラマを指導者として武装反乱を起こした。反乱は1ヶ月もたたぬうちに鎮圧され、ダライ・ラマはインドに逃れた。パンチャン・ラマが自治区準備委員会の代理主任となった。
  チベット上層部による反乱が失敗したことは、チベットの民主改革を促す結果を招いた。・・・百万の農奴と奴隷が解放された。民主改革とともに中国政府が力を入れたのは、チベット族幹部の養成であった。・・・・。」

<木庵注:チベット農奴などいなかった。遊牧民だけである。>

「【短期間で大きな成果 自治区成立十周年  手本とされるチベット
・ ・・人民日報は社説で「チベットはわずか10年で、数世紀をひとまたぎした。残酷で、野蛮な封建農奴制は過去のものとなり、新しい社会主義チベットが祖国の南西の辺境にそびえたっている」とたたえた。・・・・人民公社や県直轄地区では、幹部の9割以上を少数民族が占め、5千2百メートルの高所にあるマチュラ炭鉱では、幹部の80%以上がチベット族という。かつてはヤクとラバが頼りだった輸送も、97%の県に自動車道が広がり、怒紅やラサ川などの河川にも橋が架けられた。解放前にわずか1校だった学校も、昨年末までに小学校3千6百、中国47、高校1校とふえ、生徒は20万人を越えた。電力、機械、食品、紡績など2百5十の中小工場がこれまでに建設され、2日にはチベットで初の化学肥料工場が操業をはじめ、一歩一歩近代化の道をただっているという。」(1975年九月11日) 

野蛮なチベットが新しい国に「改革」したとする恐るべき論理である。
<かつては、寺が学校の役目をしていた。この記事を見て現在のチベットの現実を知っている我々は中共チベット赤化政策に朝日が加担していたことがすぐにわかる。ところが、当時の日本ではそれほど違和感を読者が感じなかったのだろう。というのは、当時日本では社会主義への憧れを抱いている分子が多かったからである。>

「【社会主義下で独自の文化】
・ ・・社会主義中国の支配下にあっても、ここでは、今も多くのラマ僧が残り、大乗の信仰も制限されていない。衛生、文化の面から問題があると思われる天葬(遺体をハゲタカに食わせる風習)でさえ、今も広く行なわれている。こうした事実は中央政府の側が地域、民族の発展の程度に応じての『マイペースの建設』を認めているあらわれであり、華国鋒指導部最大の課題である『4つの現代化』や台湾解放も、こうした国内の多様性を尊重する方向で果たされていくことを示唆するように受け取れた.。」(1978年16日

<朝日はよくも簡単に台湾解放といえるものだ。神経を疑う。政治的に中共の多様性はない。そして文化的にも多様性を許さない国家なのである。オリンピックの入場行進で少数民族の服を着て行進した子どもたちは、全て漢民族であったことからも分かる。>
ここに朝日は稲垣喜代志なる人物のチベット訪問記を掲載している。この人物は日中友好国民協議会学術訪問団の一員として5日間、ラサに滞在した。
「【生まれ変わるチベット
・ ・・ポタラ宮の下にあったサソリ牢【牢】や革命展覧会に展示されていた眼球をえぐりだす道具など、拷問用の数々の責め具は、彼らの置かれて凄惨な状況を如実に物語っていた。驚いたのは、ダライ・ラマが愛用していたという子どもの頭蓋骨で作った椀や、寺院に人柱としてささげたという子どもの皮を見たことであった。政・宗・一致の絶対権力を握った権力者の下ではこういうことが起こり得るのだということをまざまざと知った・・・・」

つづく