チベット大虐殺と朝日新聞#7

チベット大虐殺と朝日新聞#7
 この当時、イギリスの進出によって、清王朝チベットは、近代国際関係の中で両者がいかなる関係にあるかをはっきりさせなくてはならなくなった。従来の前近代的(決してこれを否定的な意味ではない)関係を、近代的な関係として説明することが求められたのだ。清王朝は、チベットを植民地と見なしてチベットの宗主権を主張した。これに対してチベットは独立国家であることを強く主張した。ここにおいて両者の関係は決定的に対立したのである。1910年、清王朝は軍隊をチベットへと侵入させ、ダライ・ラマの廃位を一方的に宣言した。これを受けてダライ・ラマ13世が「チュ・ユン」関係の解消を宣言した。「チュ・ユン」関係消滅の後、1911年に辛亥革命が勃発し、清王朝は滅亡した。
  清王朝崩壊後に、中国は混乱し、自らの統一すらままならない状態に陥った。このとき、チベットは清国官吏、兵士の掃討をおこない、1913年1月8日にチベット独立宣言を発布した。チベット独立後にチベットがとった行動が、後々に大きな禍根を残すこととなった。つまり、この独立宣言後に、チベットは1949年の中共による大侵略を目前にするまで、外国の正式な承認を獲得する努力を殆どしていなかったのである。チベットはひたすら沈黙を守り、国際社会から隔離したかのごとき様相を呈していたのである。しかし、中国はこのチベットの独立も隔離も認めようとしなかった。1949年10月、中国共産党が国民党に勝利し、中国の統一と中華人民共和国の建国を宣言した。その直後、北京放送は、次のような放送をおこなった。「人民解放軍は、中国全土を解放しなければならない。チベット、新疆、海南島、台湾も例外ではない」。チベットの立場からすれば、実に滑稽な放送と呼ぶより他ない。真の独立を遂げたチベットが、何から解放される必要があるというのだろうか。中共は「帝国主義国家の従属してい たわけでもない。事実、当時のチベットには、3名の英国人、2名のオーストラリア人、1名のロシア人の外国人がいたのみであり、到底チベット帝国主義の圧制に苦しんでいるとは言えない状況であった。軍事力の乏しいチベットは、中共の侵略を目前にして騒然となった。議会では、中共の侵略中止を勧告してくれることを望み、イギリス、アメリカ、インド、ネパール諸国への緊急アピールをすべく代表団を送ることを決定し、代表団に先立って電報を打った。しかし、それらの諸国の対応はいずれもチベットが期待したものではなかった。チベットは孤立せざるを得なかったのである。
   1950年3月、人民解放軍は大チベットの一部分であるカム地方のダルツェドという都市に終結した。この地は、清王朝末期から既に中国への内地化が
図られてきていたカンゼという商業都市に至る道路を敷設することを目指
した。今から振り返れば実に驚くべきことに、人民解放軍は、当初チベット人民に対して極めて親切であり、礼儀正しい態度をとっていた。農業を手伝ったり、仏像に敬意を表したりと、以後の残忍なし方は到底想像できなかったのである。例えば、カンゼに入った将軍は次のように語っている。
 「皆さんにあえて光栄です。私たちは腐敗した国民党政権から皆さんを自由にするためにやってきました。・・・この土地はあなたたちのものだということは、よく理解しているのです。私たちの義務を遂行したら、私たちは自分の国に帰ります。私たちは兄弟なのです。」
 また、デァウポンというチベット人は次のように述べたという。
 「最初、中共軍はジェクンド部族の好感を得ようと一生懸命でした。この地域を占領する気のないことを散々に宣伝したのです。・・・ジェクンドの中国人住民は昔から茶の交易に従事しており、国民党と仲良くしていたのですが、中共軍が入ってくるとたちまち彼らは靡(なび)きました。彼らは正当な値段で何でも買ってくれ、ずいぶん潤ったのです。女性をとても尊重し、住民は安堵しました。・・・(マイケル・ダナム『中国は如何にしてチベットを侵略したか』講談社インターナショナル、57〜58頁)
  彼らは病院を建て、学校を建設し、道路を舗装した。一見すると、チベット人に大きな幸福をもたらしたかに見えた。だが、実際のところ、その光景は儚い夢に過ぎなかったことを歴史が示している。例えば中共が建設した学校では、子どもたちに、チベット人は『中華民族』の一部であると教え、教師たちにはチベット人は「中国」の歴史、文化、慣習を学び、本来のアイデンティティに回帰すべきであると繰り返した。・・・1950年は、チベット侵略のためには格好の機会であった。何故なら、その年の6月25日に北朝鮮軍が38度線を突破し、朝鮮戦争が始まったからである。国際社会の目は、朝鮮半島に釘付けになっており、チベットに注意が払われることがなかったのである。
  10月に入り、本格的に人民解放軍からの侵略、攻撃が始まった。時あたかもチベット政府と中共と外交交渉をしている最中の出来事であった。およそ4万の人民解放軍が、チャムドに襲いかかったのである。・・・チベットは国連総会に、自らの窮状と中共の侵略性を訴えた。しかしながら、この動議は否決され、チベットはここに完全孤立の状態に陥ったのである。・・・1951年5月23日、北京の旧日本大使館で、中共チベットとの間で会談が行なわれた。そこには中共が提示された17か条の協定草案が置かれていた。
  チベットの代表団は、チベットが独立国であることを一貫して訴えたが、中共側は一切耳を傾けなかった。数え切れぬ脅迫の後、代表団はこの草案に署名した。使節団はダライ。ラマに問い合わせることすら禁じられた。いわば軟禁状態のなかでの強制的署名である。この際、チベット側は署名したものの、印璽(いんじ)署押する事を最後まで拒絶していたが、中共は印璽(いんじ)を偽造し、調印を強行した。

<ここで、17か条の協定草案の重要なところだけを記載する>
第1条
 チベット人民は団結して、帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐し、チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る。
第4条
チベット政治制度に対して、中央は変更を加えない。ダライ・ラマの固有の地位および職権にも中央は変更を加えない。各級官吏は従来どおりの職に就く。
第5条
パンチェン・エルデニの固有の地位及び職権は維持されるべきである。
第6条
ダライ・ラマおよびパンチェン・エルデニの固有の地位および職権とは、13世ダライ・ラマおよび9世パンチェン・エルデニが互いに友好関係にあった時期の地位及び職権を指す。
第9条
チベットの実際状況に基づき、チベットの農・牧畜・商工業を逐次発展させ、人民の生活を改善する。
第12条
過去において帝国主義と親しかった官吏および国民党と親しかった官吏は、帝国主義および国民党との関係を断固離脱し。破壊と反抗を行なわない限り、そのまま職にあってもよく、過去は問わない。
  第一条だが、これは中華思想の確認である。「チベット人民は中華人民共和国の祖国の大家族の中に戻る」などと、まるでチベット人が家出をし、家族に反発ばかりする不良少年のごとく描かれているが、実際には、中国側の独善以外の何ものでもない。チベットチベットである。しかし、自らを守るための武力をもたなかった国の悲劇と言えようか。 
  ここから「チベット女戦士アデ」(総合法令)に基づいて述べる。1955年、アデの住んでいたカンゼにおいて、中共は「宗教活動は社会にとって無益である」と発表し、僧に「尼僧」との結婚を強要した。そして、僧たちも農作業に従事することを強制された。農作業はその過程で殺生を行なうことになるとの理由で、チベットでは、僧たちにより農作業は行なわれていなかったのである。文化に対する破壊であり、チベットの歴史性を害する暴挙であった。

つづく