GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#15

イギリスにとっても日英同盟はとても大事な同盟であったが、それをアメリカが潰したというのが歴史の流れであった。
シンガポールが南方圏に於て政治的にも経済的にも最も中心的な要衝たる事は云うまでもない。この地を領有する事によつて、イギリスの南方海上の制覇は略(ほぼ)完了したものと云へる。スエズ、セイロン、シンガポールを結ぶ一線が、イギリスの東洋に於ける、寶庫印度を南方から包囲するものであり、印度洋を完全にその支配下におかれた。・・・而(しか)もイギリスにとつて東南洋には之と對抗する勢力のなかつた事が、自由にその勢力を扶植することを容易ならしめた。フランスは嘗て印度でイギリスにとつての強敵であつたが、イギリスとの競争に敗れて後は同國は僅に佛印(注:フランス領インドシナベトナムラオスカンボジアを指している)によつて余喘(よぜん)を保つのみであり、ドイツは第一次世界大戦の結果東南洋の植民地を失つてその勢力を没した。・・・オランダは廣大な東印度諸島(注;ボルネオ、セレベスとかジャワのこと)を擁して來たが、本國の實力が低下せる現在、寧ろイギリスに頼り、イギリスの援助の下に既得権力の保持に苦心してゐる状態である。残る所はアメリカ合衆國であるが、同國との関係は南米に於ける様には對立は見られず、寧ろ協調的な方向に向かつてゐると云へよう。」
<一応、この記述により、欧米列強の東南アジアでの勢力図が理解できたであろう。西尾は上の記述を下に、もっと詳しい説明をしているが割愛する。ただ、第一次大戦におけるオーストラリア、ニュージーランドの参戦に関して西尾は興味のあることを書いているので、紹介する>
オーストラリアもニュージーランドも「本国を救援せよ」と、「反ドイツ」の声は高まった。まずドイツ領のサモアを占領した。ニューギニアのドイツ領も占領した。そしてビスマルク諸島も押さえた。それをやったのはANZAC(Australian and New Zealand Army Corps)と呼ばれる「オーストラリア・ニュージーランド連合軍」であった。勇名を馳せた軍隊で、イギリスの応援に、ヨーロッパまで駆けつけた。33万人が派遣され、5万6千人が戦死したといわれている。実は彼らの乗った軍艦の航海を守ったのは、日本の艦隊であった。
  ところが、そんな日本をオーストラリアはどう見ていたか。泉伸介著「濠州史」の一節を引用する。
「濠州側は日本を以て獨逸に次ぐ怖るべき敵國なりとして居たので、一九一四年八月世界大戦勃発するや濠州側に於いては、日本が日英同盟を無視し獨逸に款(かん)を通じ、若くは単獨にて濠州を攻略するに非(あら)ずやとの懸念を抱いたのである。・・・然るに日本は獨逸に對し宣戦したが濠州側に於てはなほ獨逸の太平洋上の諸植民地が日本に依つて占領さえる事は将來濠州の安全を脅威するものとして極度の不安に駆られたので、英國植民大臣は一月すでに日本海軍の行動は支那海を超ゆる事なかるべき旨通告し濠州側の憂慮を撫慰(ぶい)せんとした。」
  その後のオーストラリアの日本への懸念を、西尾は説明している。
赤道以南はすでに占領していたオーストラリアには不安はないはずなのに、赤道以北を日本に占領されるのを大変心配して、北太平洋のドイツ領にまで軍を派遣し、日本に先手を打とうとした。そこは硫黄島小笠原諸島のすぐ近くである。直前にこれを知ったイギリス政府は、そのあたりは日本に任せてあるのだから「赤道より北に行ってはいかん」と、オーストラリアに通告した。
「意外な通告を受けた濠州側の驚愕は一方ならず、直ちに其の理由の開示を迫つたのであるが、英國政府は十二月三日北太平洋の獨逸諸領即ちマーシャル、カロリン、マリヤナ諸群島は既に日本の軍事占領の下にあり、日本は英國の要請に基き同地帯の警備に當つてゐるから、之等諸群島の占拠は暫く日本軍に委ね、将来同地方の帰属の問題は戦争終結を俟(ま)つて解決するを得策とする旨勧告したので濠州も之に従ふの外なかつた。」 
  戦争が終わり、赤道より北にある旧ドイツ領は日本に任せるつもりだが、「なにか文句があるか」と、イギリスがオーストラリアにいったところ、オーストラリアは殊勝に、「私どももちゃんとやりますので、どうぞ心配なく」と答えたいうくだりが「濠州史」に書かれている。
   戦後のベルサイユ会議では、日本は「人種平等案」を提出した。それをアメリカ大統領ウイルソンと組んで潰したのがオーストラリアである。
「一九一九年二月十三日、日本全権團が講和会議の席上移民條令に人種的差別を設くるを得ずとの規定を聯盟規約中に加へん事を提議するや、・・・其の最も極端な反對を表明したものは、白濠主義を不動の國是と為し來つた濠州聯邦であつた。新聞紙は挙って人種平等案の攻撃に全力を傾倒し囂々(ごうごう)たる反對論を生むに至つた。」
  この話に加えて、アメリカの黒人たちが、「日本よ、よくやつてくれた。これこそわれわれが永らく待ち望んでいたことだ。日本万々歳!」と喜んだ話がある。
「濠州聯邦代表ヒューズ首相は、此の問題をもつて自己の聯邦政府に於ける勢力挽回に利用せん事を策した。即ち彼は先に大戦中強制徴兵制度の採用を企図したが、再度人民投票に敗れたため、聯邦政界に於いては殆ど其の政治的生命を喪失し、講和会議後は當然政界を引退すべしと豫想されたのであるが、人種平等案の提出されるや、濠州上下が白濠主義を以て絶對信條とせるに乗じて日本側の提案に反對して、人氣の回復を企てたのである。」
「彼(注:ヒューズ首相)は日本の人種平等案に對し激烈強硬なる言辞を以て攻撃し、若し斯(か)かる條項を国際聯盟規約中に挿入するに於ては、日本移民は陸続と濠州に押寄せ、恐るべき結果を現出するに至るべしと盛に濠州の與論を硬化せしむることに努めた。次いで三月二十二日には日本代表は先の提案を緩和して平等公正なる待遇を與ふべき事と修正し、更に二十六日には『正當なる待遇』と益々緩和したが、濠州以下の反對益々加はり遂に同会議に於て人種問題は國内問題として随意に処理する権限蟻ありとの決議がなされ、人種平等案は全く葬り去らるべき運命となつた。
  <人種問題の対立が第二次世界大戦の遠因の一つであるといわれている。その差別主義者の代表がオーストラリアとアメリカであった。また、東京裁判のウェッブ裁判長がオーストラリア人であることも注目に値する。マッカーサー司令部は、戦前から日本を憎んでいたオーストラリア人を選んだのである。>
  なぜオーストラリアは日本を恐れていたかの原因を西尾は次のように説明している。
  オーストラリア人が有色人種恐れるのは、自分らが歴史上犯した犯罪、性的加虐と混血の暗部の幻想から来るのは明らかで、加えて自己の悪は見ないで他者への敵意にこれを転化させる自己欺瞞は個人でも国家でも等しく弱者の行動の常であって、オーストラリア人がまだ一人前の国家ではなくイギリスの植民地にすぎなかたことの自己表明である。それでいて、自分を救うために屈折も陰翳(いんえい)もない単純な白人優越主義にすがったことに根本の原因がある。
つづく