GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#14

「濠州聯邦」が出版されたのは昭和17年、当時のオーストラリア原住民の数は「2万人」と記されてされている(#13では、20万から100万説を述べたが)。それぐらい減ってしまったのである。イギリス人も遅蒔きながら「原住民保護」を言いだす。衣服や毛布を配給したり、医薬品を与えたりした。これが地球上のありとあらゆるところで白人がやってきた行動のパターンである。好き放題やるだけやった後、今度は保護をする。
「約言すれば、英人移住地方に於いて、原住民が急激に滅亡したについては、三つの主な原因がある。殺害によるもの、悪病と酒類の傳播によるもの、生活様式の急激な変化によるものが即ちそれである。・・・また移民の中には、菓子類や粥などの食べ物に砒素を混入し、親切らしくこれらを黒人に与えて、彼等を毒殺するといつたやうな、最も悪辣で卑劣なる殺人を犯す者もあった。・・・白人の人口が稠密(ちゅうみつ)になつた地方では、原住民族が滅亡するのも止むを得ないことであるかも知れない。また彼等は文化生活に同化することの出来ない民族であるかも知れない。しかし、彼等の滅亡の経路は戦慄すべく、嫌悪すべき大悲劇であつて、われわれは湧き上がる義憤を禁じ得ないのである。」
   ここで「われわれ」といっているのは、いうまでもなく「濠州聯邦」を書いている著者をふくめた日本人である。白人のやり方に「義憤を禁じ得ない」というのが日本人の声であった。しかし、そうした義憤が記されているがゆえに、戦後GHQの手によって、これらの本は焚書されたのである。
  ここから、本章の中心テーマである「白豪主義」に戻る。
  最も安い労働力としてイギリスから囚人を受け入れることはオーストラリアにさまざまな矛盾をもたらす結果となった。まず囚人の民度が低いこと、ついでそうした囚人と白人の自由移民との間で起こるトラブル、白人同士で起こる争いは、囚人の受け入れそのものの疑問をもたせるようになった。とはいえ、オーストラリアがしだいに近代化するにつれ労働力が不足してきた。そこで1840年、支那人の移民を受け入れ始め、19世紀末になると、オーストラリアの移民政府自身がイギリス本土からの囚人の受け入れを拒否するようになった。囚人の代わりに支那人を入れる、インド人を入れる、南太平洋の原住民であるカナダ人を入れる。このようにして、労働政策の転換を行った。1850年には金が見つかっている。アメリカほどではないが、ゴールド・ラッシュの騒ぎが起こり、移民がドッと急増した。支那人の数は3万人を数えるに至ったといわれている。
   オーストラリアに住んでいるイギリスの白人はまず囚人を差別し、それからその下にいた原住民を差別、虐殺してきたわけで、今度新しく支那人が入ってくると、また彼等を排斥しようとした。労働力が不足しているから、どうしても支那人を入れざるをえないが、原住民を迫害してきた彼等の体質は変わらない。他の地域と比較にならないくらい人種差別感情の強い文化風土ができ上がってしまった結果、支那人の移民の排斥が始まった。
   南オーストラリアの荒野を開拓するため、オーストラリア政府は最初、マダガスカル人を移民として迎え入れようとしたそうだ。ところが、うまくいかず、1876年、大農園計画を実現するために日本人を集団で移民させる政策を講じたという。これは歴史書には書いていない。西尾は泉伸介という人が書いた「濠州史」という本の中で初めて知ったという。オーストラリア政府は最初、日本人移民の土地所有を無条件に認め、農園を開設した日本人には法律上の特権を与え、オーストラリア人と同等の権利を保障する、としたそうだ。支那人の労働移民とはまったく異なる待遇を与えようとした。ところが、1876年(明治9年)といえば、西南戦争が勃発する少し前、維新の大混乱の真っ最中の時期で、日本人のオーストラリアへの集団移住は不可能であった。ところが1890年代になると、オーストラリアで有色人種排斥という機運が高まり、原住民、白人の囚人を差別し、今度は支那人排斥を行い、次に日本人を差別し始めるようになった。そうこうするうちに日清戦争に勝利し、欧米では日本の力を認めるが、オーストラリアはではそうではなく、逆に「日本恐るべし」という声が上がり、日本人への差別がますます強まってきたのである。
  前述の「濠州史」において「白豪主義」について、次のように書いてある。
白豪主義(White Australian Policy)は字義の示す如く豪州を白人種のみより成る社会とし、有色人種がその社会分子となることを排斥せんとするものであつて、彼等白人就中(なかんずく)その九割六分を占める英國系移民たちの有色人種に對する優越感に起因するものなることは直(ただ)ちに想像され得る所である。・・・濠州に於てはこの優越感を具体的に社会制度として適用するに最も恵まれた條件を具備してゐた。・・・即ち濠州各地には原住民族として単に極少数の蛮人あるのみであり、彼等はその尊重する何等獨自の文化を有せず傳統を持たなかつたから、新にこの地に植民し始めた英國移民達は印度等に於けるとは異なり、母國の制度文化を其の儘に植ゑつけ得たのである。」
アメリカ・インディアンのケースといい、日本のアイヌ人撲滅の歴史といい、高度の文明をもつ民族とそれより相当低いと見られる民族が接触した場合、多くの場合、前者が後者を撲滅、若しくは差別するというのが、人類の一般的なパターンである。その一般的な法則からはみ出して展開したのが、日本の大東亜共栄圏構想ではなかったか。これはイギリス型植民地政策に真正面から対立したものであると認識してよい。これらの焚書の中で、イギリス型統治を義憤、憤りでもって非難していることからも分かる。>
第八章 南太平洋の陣取り合戦
イギリスがアジアを侵略するに際して印度を第一の要とした。そしてもう一つの要がオーストラリアであった。太平洋戦争の原因になった「ABCD包囲陣」の形成にもオーストラリアは深く関係している。ところで本題に入る前に、南太平洋の島々はポリネシアミクロネシアメラネシアに大きく分けられることを整理しておこう。ポリネシアは「多くの島」という意味で、ハワイからニュージーランドにいたる島々のことである。タヒチサモア、トンガ、クック諸島もここに入る。ポリネシアの海洋民族は、ニュージーランドと血縁続きと考えられている。ミクロネシアとは「きわめて小さい島々」という意味で、日本の最東端・南鳥島の東南方面に広がるマーシャル諸島カロリン諸島ギルバート諸島を指している。そこからもう少し南に下がったところがメラネシア、「黒い島」という意味だ。オーストラリア大陸の北側にあるニューギニアや東側に散在するフィジーニューカレドニアが含まれる。
   「太平洋協会」の調査部長・山田文雄著、「大東亜戦争と南方圏」というが本がある。「國防文化撰書」というシリーズの中の一冊である。この中で短い文章があるので引用する。
「現在まで、東南洋(ひがしなんよう)(注:『東南アジア』というような言葉は欧米諸国が勝手につけた名前で、第二次大戦後、初め使われるようになった)に最も大成る勢力を有してゐたのはイギリス勢力である。イギリスは長く印度の経営を以ってその東洋に對する政策の基礎としてゐた。しかるその後ビルマ、マレーの獲得に成功し、タイ國に於いては實質的な権益を扶植し、更に進んで支那大陸に於いても列國に先んじて勢力を伸長し來つた。支那に對するイギリスの拠点は云うまでも無く香港であるが、日英同盟の締結によつて、新興勢力日本と結び、日本が朝鮮から満州へ進出する事を側面的に援(たす)けるとともに、自國は中南支に於ける勢力確立に腐心した。」
つづく