GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#13

西尾はタスマニアの原住民と比較して、ニュージーランドマオリ族のことを述べている。
「先ごろ私(西尾)はニュージーランドを旅行してまいりましたけれども、マオリ族は今でも自分たちの文化を保っていました。彼等は、イギリスからやってきた白人の移民たちにかなり抵抗しています。独立戦争のような戦いもしている。結局、独立はしませんでしたが、相当抵抗している。したがって、ニュージーランドが近代化された後、民族政党もでき、一定の発言権を持っています。同時に、民族舞踊や彫刻を中心とした自分たちの文化を保存していて、それが観光資源にもなっています。私も見てきましたが、木彫りの彫刻などは見事でした。そうした彫刻を学ばせる学校も、政府の力でちゃんと運営されていました。このマオリ族の文化は、ポリネシア文化に属します。ハワイに近い方の文化ですね。ですから海洋民族で、数の概念も非常にはっきりしていた高度な文明を有していた種族です。」
<私(木庵)もニュージーランド旅行をしている。私の場合、ニュージーランド人の宣教師に連れられてのグループ旅行であった。旅費を安くするためか、ニュージーランドのオークーランドではホームステイをした。それより、宣教師の所属する教会の行事にも参加するというものであった。この教会では白人とマウイ族がともに集っていた。そのことからも、西尾が訪問した「彫刻を学ばせる学校」も見学した。それより、マウイの老人が親しく話しかけてきたことが今でも鮮明に思い出す。
 「日本民族とマウイ族とは深いつながりがあるのです。日本人の先祖のいくらかはマウイ族なのですよ。その証拠に日本人の使っている母音、あ、い、う、え、お、は、まさしくマウイ言語の母音とまったく同じなのです」と、表を持ち出ししてまで説明する熱の入れようであった。私は言語学はよくわからないが、ポリネシア文化の代表ハワイでも、日本語の母音と同じ(一つどこか欠落していたかな)であると、どこかで聞いたことがある。ハワイで日本と同じ縄文土器が発見されたとか(?)。古において海洋民族との交流が盛んであったのかもしれない。少し本論から横にそれたが、書いてみた。>
   タスマニア人の風貌は斑目(まだらめ)文雄という人の「濠州侵略史」に載っている。西尾の本には、最後のタスマニア人ツルガニ女王の肖像画が掲載されている。「ちょっと恐い顔をしているが、きわめて平和的である」と、西尾は解説している。タスマニア原住民は、白人の「黒人狩り」によって、根絶された。その責任はすべて白人文明が負わなければならない。「濠州侵略史」では次の記述がある。
「一八〇四年までは、一人の原住民も、リスドン白人居留地へ來たことはなかつた。その日約三百人の原住民大狩猟隊が、この白人居留附近に現れた。彼等はカンガルーを狩り立てて、捕へようとしてゐたのであつて、婦人や子供も混つてゐたところから見ても、白人に對して敵意を持つてゐなかつたことは明らかである。・・・彼等はリスドンに白人居留地があつたことさへ知らなかつたらしい。ところが、居留民長バウエンの不在を預つてゐた副長モーア中尉は、狼狽の余り理不尽にも、部下の兵士に発砲を命じた。モーア中尉の報告では、ただ二人の原住民が殺されただけと云つてゐるが、目撃者の談によればもっと、多数の者が殺戮されたとのことである。この争闘が英人に對する原住民の敵意を挑発し、その後随所に悲劇が繰り返されたのであるから、原住民の英人に對する悪感情は、英人自身が種を蒔いたと見るのが至當である。・・・」
「数十名の原住民をカヌーに乗せて、沖の方へ漕ぎ出させた後、海岸から一斉性射撃を浴びせて、あたかも鳥獣を殺すがやうにして殺したり、原住民を使そう(口+族)(注:そそのかすこと)して、仲間同士の闘争を惹き起さ
せ、彼等の絶滅を図つたやうな行為は、聞くだにわれわれを憤慨させるものであるが、・・『負傷者は脳を打ち砕から、赤児は火中に投ぜられ、まだぴくぴく動いてゐる肉には銃剣が情け容赦もなくつき込まれ・・・」
「アーサー提督は責任ある行政官として、かかる無政府状態の存在を許容することは出来なかつた。彼の中にも亦イギリス人の残虐な血が流れてゐたのである。彼はまづ第一手段として、懸賞で無傷の原住民捕獲を奨励した。即ち子供一人につき二ポンド、大人一人につき五ポンドの賞金を懸けたのである。そこで忽ち『原住民狩』の団体が幾組も組織され、これらの団体はまるで鳥獣狩をするやうに原住民を狩り立てた。しかもこれだけでは十分な効果をあげなかつたので、総督は、島の中央南部のタスメニア半島に、原住民を追い込む計画の下に大『人間狩』を催した、兵士、警官、武装移民、の大連鎖が、大湖から東海岸のセント・パトリツク岬まで続いて、蟻の這ひ出る隙間もないやうな隊形で行進した。これに従事した人員は約五千人・・・五千人の大横列隊は、一八三〇年八月七日、南方に向かつて出発した。英人たちは、ここで原住民は一人残らず袋の鼠になるものと思ひ込んでゐた。ところが、この大作業が終つて、蓋を開けて見ると、三萬ポンドの費用をかけた結果は僅か大人一人、子供一人の獲物で、他の者は全部、巧みに網の目から遁(のが)れてゐたのであつた。・・・」
  イギリス人が最初にオーストラリアに移住したのが1788年。そのころタスマニアには数千人の原住民がいた。1832年、約半世紀の後、原住民たちが可哀そうだからどこかの島に隔離して安全に保護しようとした。そのとき数えると203人になっていた。そして1860年(明治維新の8年前)、最後の一人が死亡して、タスマニア民族は滅亡したのである。
  
  では、オーストラリアの原住民の方はどうか。この人たちの方がはるかに多い。総数については百万人、二十万人といろいろな説がある。彼らは絶滅したわけではない。前記「濠州聯邦」はこう記している。
「最も残忍な原住民虐殺が、一八三八年にニュー・サウス・ウエール州で行はれた。同州北部のアイオール。クリークの牧場近くで、約四十名の原住民が野営してゐた。その中の半数以上は婦人子供であつた。ところが、牧場の監督が数日不在にして帰つた時には、彼等の姿は一つも見當らなかつた。しかし、牧場から少し離れた穴の中に、半焼けになつて、野犬や食肉鳥の餌食となつてゐる男女子供を合わせた黒人の死体二十八人を発見した。牧場の番人が彼に告げたところによると、附近の牧場から多数の武装した英人が來て、彼等を捕縛し、この穴へつき落として残酷に虐殺し、死体を焼いたのだとのことであつた。・・・この黒人虐殺者十一は殺人罪で裁判に附せられ、そのうち七人は死刑に処せられた。・・」
  死刑に処せられたイギリス人は、はしなくも次のように述懐したという。
「私たちは、彼等を殺すことが國法を犯すものとも、また何等かの注意を喚起するものとも思はなかつた。かかる行為は、植民地に於いては、従來頻繁に行はれてゐるとことである。」
  罪を問われて、ビックリしているのである。原住民を虐殺するのは当たり前と思っていたのである。
   イギリスからの移民の性別を見ると、1788年の第一回囚人移民の男女さは、男子520名、女子197名となっている。当然「英人の男子の一部が黒人の女に接近」する。つまり混血が生み出されることになったのである。
つづく