GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#12

ロビンソン・クルーソー」には、こんな背景がある。航海に出たダンビアは、1709年、チリ沖の無人島に船員を置き去りにした。4年後そこに戻ってみると、自分が置き去りにした船員が生存していた。その孤独な生活を名文で記した。それを読んだデフォーは「ロビンソン・クルーソー」を書いたというのである。
  「ガリバー旅行記」や「ロビンソン・クルーソー」の書かれた時代というと、日本の幕藩体制の最盛期にあたる。いずれにしても、日本が鎖国体制に入った17世紀から18世紀にかけての時代に、スペイン人やポルトガル人、オランダ人、イギリス人が東南アジアからオーストラリア近辺を盛んに動き回っていたのである。
   1770年、有名なイギリスの探検家、ジェームス・クックがオーストラリア大陸にイギリスの旗を掲げた。ここからイギリスのオーストラリアへの移民がスタートした。当時はアメリカ独立戦争(1775〜1783年)が始まろうとした時期である。イギリス人のオーストラリア移民とアメリ独立運動との間に深い関係がある。
  ワシントンや独立宣言を起草した第3代大統領ジェファーソンはイギリスにとって敵役、イギリス国家反逆者であった。反ワシントン、反ジェファーソンといわれる人たち(イギリス王党派)は、独立戦争アメリカが勝利してから、財産を没収されたり国外追放にあったりして、悲惨な目にあっていた。イギリスに忠誠を尽くしてくれたイギリス王党派の人たちの新しい移民の場所としてオーストラリアが浮かびあがったのである。また、イギリスは自国の囚人をアメリカに流していたが、アメリ独立運動の敗退により、新しい移送地をオーストラリアという考えに至った。1717年から独立戦争まで、約5万人の囚人がアメリカに送られていた。流刑を刑罰の一つとしていたイギリスはアメリカがだめなら、まず南アフリカと考え、とりあえず数百人を送りこんだ。しかし、疫病と飢餓で南アフリカは適所でないことが分かった。そこで、ピット内閣が選んだのがオーストラリアであった。
前出の「濠州聯邦」に再び戻ってみよう。
「當時ヨーロッパ各國中、英國が最も峻厳な刑罰を課した國であった。十九世紀の初期に於いて、死刑の宣告を受けた者が二百名以上、しかも罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)を吐く群集の面前で、刑が執行されるのはロンドンに於ける普通の光景だった。降(くだ)つてヴィクトリア女王即位の年の一八三七年には、流刑に當る罪科は二百項目以上に亙り、その中には今日から見れば、野蛮とも見られる程苛酷なものもあつた。例えば無許可での牛屠殺、五ポンド以上の価値ある樹木の損傷、牡蠣床からの牡蠣の窃盗、公有財産の損傷、密猟等の如きも流刑罪科の中に含まれてゐた。」
「囚徒は傭船で送られ、囚徒輸送請負人は囚徒一人につき二〇ポンド乃至三〇ポンドを支払はれてゐた。・・・その扱ひは貨物同然だつた。従つて航海中の死亡者は非常に多く、一七九〇年、ネプチユーン号の船中では輸送囚徒五〇二名中一五八名の死亡者を出して、残余の者も、シドニーに着いた時には、全く衰弱しきつてゐた。1799年、ヒルスバラウ号の船中では、三〇〇名中九五名が死亡し・・・しかし一八〇二年以後、囚徒を特別仕立ての輸送船で年二回輸送するやうになつてからは、航海中の悲惨は少なくなつた。」この新植民地では、囚徒割當制度を施行した・・・」
 囚徒割當制度とは連れて来た囚人を、自由移民が使用人として割り当てる制度である。自由移民の多くは軍人であったが、商人などもいた。
「當時の英國の農場労働者と比較すると、この植民地の割當囚徒は、衣食住の点では遥かに恵まれてゐた・・・訓練、懲罰の点では極度に過酷な取り扱ひを受けた。鞭と輪索はいつも主人の手許にあつて容赦もなく使用された。アイルランド囚徒が一揆を起こした時、十五人の指導者は即決で絞罪に処せられ、その他の者は九條鞭で、2百、5百、千のち(竹+台)刑に処せられた。囚徒は結婚を許され、或る場合には、自分の下男に割當てられることもあつた。」
「妻の下男」という話がある。詐欺をはたらいたため、夫は流刑された。妻は夫を追ってオーストラリアまでやってきた。夫が詐欺で得た多額の金でシドニーで店を開いた。そして、妻は囚人である夫を、「割當下男」として使い、実質的には夫婦生活を送りながら贅沢三昧の生活を送ったという。」
  ここで西尾は。「いまもオーストラリアはなぜ元気がない国家なのか」を分析している。例えばアメリカは1620年イギリスからメイフラワー号で渡ってきた清教徒の子孫であるという誇りがある。つまりアメリカでは「自分たちは神の子」であるという神話を作り上げることができた。ところが、オーストラリアは「囚人の捨て場」と言うイメージがのこり、それだけでなく、原住民を虐殺したという国家の起源の問題に絡み、神話を作り得ていない。そこが元気のない原因であると、西尾は述べている。
第七章 オーストラリアのホロコースト
第一次大戦の後のベルサイユ講和会議(1919年6月)で日本政府が人種差別撤廃法案を提出したところ、アメリカの大統領ウイルソンの不正採決によって廃案にされたことはよく知られている。このときウイルソンを強力にバックアップしたのはオーストラリアであった。オーストラリアは「白豪主義」という人種差別の根強い伝統がある国である。
  この章では、「濠州聯邦」「濠州侵略史」「動く濠州」という本から、オーストラリアの人種差別と、そこから派生した原住民絶滅(ホロコースト)について述べている。  
  日英同盟が締結されたのは1902年(明治35年)であった。その前、1894年に日英通商航海条約が結ばれた。ところがこの通商航海条約に抵抗したのは、イギリス連邦の植民地で、イギリス連邦の一つであった、オーストラリアであった。1)入国や居住の権利を認め合ったり、2)生命・財産の安全を保障し合うのはイヤだと抵抗した。そこで「付則」をつけざるをなくなった。つまり「植民地がこの条約に異議を唱えた場合は条項の適用を受けず」という趣旨の但し書きが付けられたのである。当時、オーストラリアでは約3千人の日本人がサトウキビ畑で働いていたが、1901年には全面入国禁止になっている。1905年に、日本政府は旅行者、学生および「特定の労働者」にかぎってパスポートを出すことが許されるようになったが、ここでいう「特定の労働者」とはサトウキビの労働者ではなく真珠貝の採集業者ということである。
  オーストラリアの南側には小さい島がある。その名前はタスマニアという、タスマニアの住人こそオーストラリア移民における最大の「悲劇の民」なのである。このタスマニアの原住民は他のオーストラリアの原住民と比べ、体格、風習、慣習から見ると、ずいぶん違い、一種の「孤立人種」と考えられる。住んでいる場所は岩窟あるいは樹木をくり抜いた大きな洞穴、または風に吹き倒さえた樹木や枝の間であったという。土地に猛獣がいないから、そういうところで暮らしても安全であったのだ。樹木の皮を束ねた筏を使って海上に出ることがあったが、1マイル先の沖にすら出られなかったという。旧石器時代のレベルの生活をしていたと考えられる。
つづく