GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#11

ここに「印度史の分析」という焚書がある。学術性の高い本である。インドの宗教や民族について深く書かれている。「インド研究序説」という章から始まっている。
「・・・英人の印度研究であるが、その實証的の研究調査は殆ど世界の最高水準に達してゐる。廣汎に亙つ資料の蒐集(しゅうしゅう)渉猟(しょうりょう)、それに印度人側の協力、また英國の對印統治政策の資料とされた議会文庫の整理保存等、英國人の印度研究の足跡は世界に類例なく大きいものである、彼等はよく印度を研究し、またよく搾取したのである。・・・」
   イギリス人のきわめて高度な知性は、一般に「オックスブリッジ」といわれるオクスフォード、ケンブリッジ両大学のエリートたちのパワーによるものである。
  では、イギリス人は印度でどのような凄まじいことを行ったか。先に紹介した「英國の世界統治策」ではどう書いてあるか見てみよう。
「外國人が武力を以て強制する政権こそ最大のアナーキーである。・・インドに於て、平均収入は英國人の四十分の一となり、平均生命は五十年に比し二十二年の有様である。・・イギリスは印度統治に當つて、國民の反感を抑える為に、國民会議を始め種々の国民主義團体や労働者農民團体等の結社を禁止し、政府が多数の修道院教育機関等を占拠し、書籍刊行物の没収並びに発行禁止の為に、多数の出版條例を発布する等、過酷な検閲の結果、四百四十八の新聞発行が禁止されたと云はれてゐる。・・・莫大なる印度の軍費は、印度民族の獨立を抑圧するために使用されつつあるのである。嘗てマクドナルドは、インド軍事費の九割迄は英帝國のため使用される事を指摘・・・英國大使の費用も負担せねばならない。インドは先帝(注:女王のこと)の戴冠式の際英國が招待した代表の費用も負担せねばならなかつた。・・一九三一年に於けるインド人の平均収入は英國のそれの十二分の一に當つてゐるに過ぎない。・・・貴下(注:インドの英国人総督)はインド人の平均収入の5千倍より遥かに多くを取りつつあるのであり、イギリス首相はイギリス人の平均収入の僅かに九十倍をとつてゐるに過ぎないのである。・・・十九世紀以來飢餓の為めに餓死した者は、欧州大戦に仆れた人の数よりも多いのである。・・・一九〇〇年から一九〇二年に亙る大飢餓に於ては、實に一〇、〇〇〇、〇〇〇人餓死したと云われてゐる。これが自然の現象であると解し得るであらうか。われらは、食料配給と云ふ當然の処置を講じなかつた政府當局の暴虐を茲に思はざるを得ないのである。・・・読み書きをなし得る者は、全人口の僅か八%、即ち百人中九十二迄は文盲であり、イギリスの文化が相當浸潤して居る筈のインドであり乍ら、英語をよみ書きし得る者は、人口一萬につき百二十三に過ぎない。・・英領インドには一つの公立自由学校も見出され無い。義務教育の制度すらない。併しインドの青少年は飢えた様に教育を望んでゐる。」
  再び武藤貞一の「英國を撃つ」に戻る。
「バーナード・シヨーが作中の『ナポレオン』に言わせてゐる言葉が一番正直である。いはく『イギリス人は妙な力を持ち、何か欲しいと思ふと、必ずそれを所有者から取上げることが正義人道であり、宗教であるという理窟をこねあげる。イギリス人は悪事と善事の一切をやつて來たが、ついぞ悪事を口にした例(ため)しはない』と。・・・」
日本人は、イギリス人の偽善と残虐、正義の仮面と不正の現実をひしひしと自分たちに迫ってきていることを脅威に感じていた。それが軍事的脅威でもあったことは武藤の次の言葉でよく現れている。
「日本の對支行動を侵略呼ばはりするイギリス自身はどうかといふと、現在の世界の千三百二十萬方マイルをその領土としてゐる。あだかもそれはソ聯が八百二十方マイルの大領土を持ちながら、日本などを侵略主義の國家と罵ってゐるのと同様、自分のやつてゐる事を全然棚に上げてゐる。・・・その脅威感は甚だしいものがあるのだが、図々しいイギリスは、まるであべこべに日本の行動を侵略なりと世界的弾圧を食はせようとしてゐる。世の中にこんな間違つた話が二つとあるわけのものではない。」
武藤はさらに書いている。
「印度占領を確保するための英人印度軍は五萬八千五百二十九人。吹けば飛ぶほどの少部隊によつて印度はイギリス領土として『安泰』である。ソ聯のシベリヤ軍は三十萬。若しソ聯がシベリヤに必要とする守備兵力を、三億5千萬の人口を擁する印度に割當てるとしたら、最低七十萬を下らないであらう。印度に英人軍七十萬!それだけでイギリスは破産だ。イギリスは前述ぶる通り、ただ一つの手品によつて世界の大領土を握ってゐる。侵略上手、商賣上手、算盤球(そろばんだま)に合ふやうにしてうまく各領土の占領を続けつつあるのだ。一度その手品のタネがバレてしまへば、印度一つだつて忽(たちま)ち持ちこたへられなくなるにきまつた話だ。」
<歴史的にみて、タネをバラしたのは日本であった。アジアの植民地の解放に日本がどれだけ寄与したことか。この狡猾なるイギリスを緒戦でコテンパンにやっつけたのであるから、そのアジアの人々に与えた衝撃は凄いものがあった。日本軍がやってくる前はイギリス人を真正面に見ることも出来なかったアジアの人々が、日本軍があの背の高いイギリス人の尻を蹴飛ばしている姿を見て、どれだけ「自分たちも出来るんだ」と自信を持ったかしれない。日本軍のアジアへの進行が、アジアの国々の独立の気運をおこさせたのである。>
第六章 アジアの南半球に見る人種戦争の原型
   イギリスはアフリカのボーアから中近東へ出て、アフガニスタンチベットを侵して、印度、ビルマを植民地とし、マレー半島を自由にし、中国に手を伸ばした。しかしそれよりはるか前、17〜18世紀にオーストラリアに入植を開始していた。オーストラリア侵略史はインド支配の歴史とほぼ平行している。本章のテーマはオーストラリアだが、宮田峯一という人が書いた「濠州聯邦」という焚書がある。「濠州聯邦」が出た昭和17年当時は、神戸からオーストラリアへ行くのに12日間もかかっている。昭和8年の調査によれば、人口は約7百万人、その95パーセントはイギリス人であった。
   オーストラリアという土地は長い間、その歴史は知られていない。15,六世紀になると、太平洋の南のほうに大きな島(大陸)があると信じられるようになっているが、誰も近づこうとはしなかった。インド人も中国人もこの地に足を踏み入れた記録がない。15,6世紀の大航海時代にも発見されないまま、「空白の時代」が非常に長く続く。発見が遅れたというより冒険するのに魅了のない土地であったと考えられる。アジアやヨーロッパから近づいて行くには、まず大陸の北側や西側にあたる。両方とも貧弱な土地で、西側は砂漠が広がっている。しかし、いったん発見されると、大陸に住んでいた原住民は悲劇に見舞われるようになったのである。
   西尾は空白のオーストラリアはどのように発見されたか説明しているが、それは割愛する。ただ、興味のある話を紹介している。それは「ガリバー旅行記」と「ロビンソン・クルー」の物語は17世紀、冒険好きな文章家、ウイリアム・ダンビアの書いたものが影響しているという。ダンビアはオーストラリアの北西岸に到達し(今でもこの地にダンビアというところがある)、「動物もほとんど棲んでいない」とか「後ろ足でピョンピョン跳ねている変わった動物がいる」というような断片的な報告をしている(1699年)。彼の書いた記録がジョナサン・スイフトの「ガリバー旅行記」(1726年)、ダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」(11719年)という二つの物語を生んだのである。
つづく