GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#9

<上記のものが「奢り」「日本軍の過剰評価」とも見られないこともない。またその奢りが「命中率」の記述の中にも表れている。>
「命中率は、どうであるかといへば、日本は一九〇四年の日本海々戦においても、三割二分の命中率を有し(注;軍艦から軍艦への対艦砲撃の命中率のこと)、アメリカは一八九八年ノサンディゴ海戦において(注:スペイン戦争において)一割4分であって、これをジュツトランド海戦のイギリスの二割一分七厘、ドイツの三割三分三厘にくらべると、アメリカとイギリスとは、ほぼ一致し、日本とドイツとも相似てゐる。しかし、現在の命中率は、各國とも厳秘に附してゐるために、その本當のことはわからない。>
 日露戦争の海戦に照らして考えられていて、航空機の果たす決定的役割が計算されていない。こうしてみると、日本の戦争が始まる前は一定の固定観念に基づく戦術上の期待が非常に強かったことがわかる。
戦術だけでなく、別のもあった。地理上の問題、戦争概念の問題である。アリューシャン列島〜ハワイ〜パナマ運河という三点は、アメリカ側が日本から自国を守ろうとした防衛拠点であると同時に、日本側も非常に強く意識した彼らの攻撃地点であった。パナマはじつは日本を意識してつくらてた。日露戦争のときロシアのバルチック艦隊がヨーロッパからアフリカを大陸を大きく迂回してインド洋を通って日本海へ辿り着いた。そのため、疲れきってすっかり力を落とした。この教訓にたってパナマ運河がつくられたのである。貿易のためにつくられたのではない。
  19世紀までは、アメリカも日本も世界の一等国ではなかった。アメリカが一等国として名乗りを上げるのはスペインとの米西戦争(1898年)に勝利してからのちのこと。日露戦争(1904年)に勝利を収めた日本も、ほぼ同時期に一等国の仲間入りをしている。
 さてここで紹介している本「三國同盟と日米戦」では、日米戦争にならばまずハワイを叩くという話になるのは当然である。
「日本がハワイを攻撃するのは、これを占領する可能性が多く、しかも、占領後は完全に維持することが出來るといふことが判然してから後でなければならぬ。・・・」
ハワイがやられたらアメリカは講和を申し込んでこざるをえないだろうと、著者は言っている。ここで西尾の注釈を加えると、日本がハワイを叩けばアメリカが講和を申し込んでくるだろうというのは「限定戦争」の考え方で、「部分戦争」の考え方である。完全な全体戦争は第二次世界大戦が唯一の例で、第一次も一種の全体戦争とも言える。日本は第一次世界大戦を日本は本格的に経験していなかったため、世界の流れが限定戦争から全体戦争に映っていることに気づかなかったのではないか。げんに、ハワイを叩けば講和に持ち込めると書いてあるのだから、日本は依然として「限定戦争」の意識が続いていたのは間違いない。
  さて、パナマ攻撃についての記述である。
「・・・最後にのこされた問題は、パナマ運河は一体どうなるかといふことである。パナマ運河は、ハワイから、四千六百浬以上の距離にあるし、日本からは八千浬もはなれてゐるから、この攻撃は容易ではない。しかも、強て、これを断行せんとするならば、きはめて小部隊のものが奇襲するほかないであらう。・・・開戦と同時に、これを攻撃して、運河を閉塞し、太平洋と大西洋との連絡を絶つならば、作戦上非常に重大なる効果を挙げることは出來るが、すでにアメリカの艦隊は、全部太平洋に進出してしまひ、かつ日本艦隊がアメリカの艦隊と一戦して、これを撃破した後は、パナマ運河を占領しやうといふのは、作戦上には何らの必要がないからである。しかし、戦後、日本がこれをその手に収めやうとするためであるならば、多少の意義はあるが、それでも事實上、これを占領しなくとも、講和條件の一つとして、その中にこれを入れらないことはないのである。」
   外国人が当時日本をどう見ていたか。そのような本も焚書されている。「極東危機の性格」という本がある。「雨宮廣知訳編」とあるように、外国人の書いた雑誌論文やその他の重要な論文を翻訳したものである。
   ここにアメリカ側の情報がある。
「若しも日米の間に戦争が起るとすれば、両國の大海軍は、二人の重体量拳闘選手が打ちあひながらも四つに組むまでにはなれないのに似たやうなものであらう。日本はその艦隊をアメリカの領港まで進出させるやうな危険は犯さないであらうし、アメリカも日本本國の軍港を攻撃するためにその艦隊を派遣するやうなことはあるまい。日本としてはフィリピン及び蘭印(注:今のインドネシア)を占有してアメリカの商船隊を悩まさんとするであらう。これが成功すればアメリカの東印度諸島(注:マレー諸島のこと。インドネシアを含み、それよりやや広域の島々を指す)からの輸入を不可能となるであらう。このためアメリカの最も痛手とするところは、ゴム、錫、キニーネ及びガス・マスクのために最上のチャコールを供給してくれる椰子の實が輸入できぬことであろう。・・・パナマ運河攻撃といふことも、萬が一にはあるかもしれない。・・・ハワイやアメリカの太平洋沿岸に對する正面攻撃は軍事専門家の眼からすると文字通り不可能といふことである。アラスカに對する攻撃も大して成功の見込みは内野うである。」
 <後半のくだりは、要するに日本をナメテいるわけである。日本は結局ハワイを攻撃したのであるから。しかし東印度諸島の占領は戦略的に大きな意味があることをいまさらながら認識させられた。ゴムは当時タイヤには絶対必要なものであったろうし、ところで、石油から作る人工ゴムは、日本軍が当地を占領してから、アメリカサイドで開発されたものなのだろうか。>
アメリカはアメリカの太平洋に於ける地位は有利であると思つてゐる。日本単獨でアメリカを壊滅せしむこととは殆ど考へられないが、アメリカ一國で日本を撃つことは出来るかもしれないと思つてゐる。然しドイツが歐州で勝利をうる場合には日本以上のものを考慮にいれねばならないであらう。・・・即ち、イギリスが敗れるならば太平洋及び大西洋におけるアメリカの國防問題は全く変更されねばならないであらう。・・例えばイギリスがシンガポールを失ふとせよ。是は、對日戦争の場合アメリカがシンガポールの設備を借りる必要があることを實際上當然としてゐる以上、アメリカの太平洋戦略を殆ど破壊するものであらう。」
  アメリカはヨーロッパ戦線との兼ね合いを非常に気にしている。同時に、イギリスが弱いということにも不安を感じている。この論文が発表されたのは1940年であるから、ヨーロッパの戦争はもう始まっていた(始まったのは1939年)。1941年12月8日に真珠湾攻撃、それを見たドイツがアメリカに宣戦布告、この論文がアメリカで書かれた段階で、現実にはアメリカは参戦していない。そういう状況で以上のような分析がなされているのが注目に値する。
  ロシア人の論文も入っている。
「香港の『ファー・イースタン・ジャーナル』Far Eastern Journalは、すでに1940年九月、米支間に軍事同盟を締結することを提案した。同盟の主要條件は次のやうである。即ちアメリカは支那に兵器及び戦闘資材を補給し、支那は兵士を提供する。同紙は、特にフィリピンの防衛のためには五十萬乃至百萬の支那兵の派遣方を提案してゐる。かかる『計画』とは関係なく、アメリカ紙は別に、支那における戦争のアメリカに對する意義を評価しはじめた。『ニューヨーク・タイムス』・・・こう述べている。『イギリスがアメリカのために、ヨーロッパにおいて戦ひつつあるのと同じく、蒋介石も我々のために揚子江において戦いつつある。』・・ソ連の見解によれば、極東に於ける矛盾は、その中で資本主義諸國の相互関係が縺(もつ)れ合ってゐる矛盾の糸鞠の一部でしかない。それは、ヨーロッパ乃至全世界の矛盾と結びついてゐる。』
つづく
 *GHQ焚書図書開封西尾幹二)#10
第五章 正面の敵はじつはイギリスだった
ワシントン会議(1921〜22年)で日英同盟が破棄された。第一次大戦後イギリスは全体としてパワーを失いつつあった。中国大陸における自国の権益を守る上で日本の力を借りたいという事情もあった。
  歴史を振り返ったとき、かつての日本人にとってはアメリカよりもイギリスの変心、大英帝国の新たな脅威の方がズシンと腹に堪えたというのは、今ではあまりピンとこないかもしれない。昭和14年から16年にかけて、世界創造社から「戦争文化叢書」と題したシリーズ本が35冊刊行されている。その全冊がGHQ焚書図書である。35冊のうち32冊が載っている公告がある。その中で適当なのを抜粋する。
第一輯(しゅう)    「日本百年戦争宣言」
第三輯     「八紘一宇
第五輯     「支那人は日本人なり」
第八輯     「對英戦と被圧迫民族の解放」
第九輯     「東亜とイギリス」
第十一輯    「日英支那戦争」
第十八輯    「世界航空文化闘争」
第二十輯    「印度民族論」
第二十三輯   「インド解放へ」
第二十五輯   「英國の世界統治策」
第二十七輯   「印度侵略序幕」
第三十二輯   「日米百年戦争
<私が意図的に抜粋したのを読者の方は理解なされたであろうか。実は全32冊のうち半分ぐらいがイギリスを視野に入れた本である。印度もイギリスの植民地であるから、イギリスと関係する。>
昭和14年から16年にかけてのことであるから、当時の日本が戦争相手として意識していたのはアメリカではなくイギリスだったことがはっきりわかる。ここで、「英國を撃つ」(武藤貞一著)(新潮社)という本を紹介する。奥付を見ると刊行は昭和12年、しかも「初刷五万部」とあるから、ベストセラーである。
「戦争の凶悪性はいふに及ばぬ。ただしかし、『平和』が世界の不均衡を是正する力のないこともまた戦争と同様に凶悪である。」
なかなか味のある、ビシッと決まったコメントである。この本の中で第一次大戦でのドイツの敗北に著者は同情的な見方をしている。
「獨軍のベルギー侵寇は、イギリス側に無二の好餌(こうじ)を與へたものだったが・・・獨軍が対佛作戦上ベルギー通過を図つたと同じやうに、英軍もまた對獨作戦上ベルギー通過の企図を持つてゐたことは明白であり、洗つて見れば五分々々である。・・・かくてイギリスの宣傳機関は、ドイツの佛白(注:フランスとベルギー)侵入地域における『悪鬼的行為』放送に猛然たる威力を発揮し、特に婦人凌辱、小児殺害などは最も人間性のカンどころを衝くデマとして彼らは(注;イギリス人のこと)重要した。・・そのため、たとへば老人子供を木の枝に吊るして、銃剣の先で突き殺してゐる光景や、寺院(注;教会のこと)におけるドイツ兵蛮行といつたやうな写眞をまことしやかに戦場から送られたのであるが、これらはロンドンの新聞社写眞部屋で大掛りに製作したものばかりで一つも本物はなかつたのが雷同姓に富んだアメリカ人は写眞の弁別もつかず、無暗とそれを見て騒ぎ立つた。殊にどこの國にもある特有の変質的インテリよりなる平和團体、婦人團体、宗教家、大学教授などによつて最も騒がれ出して來た。この頃からイギリスの宣伝はぼつぼつ奏効し始めたのだ。」
今とまったく変わらない。今は日本に対し中国と中国に同調する日本のインテリがこれと似たようなことをやっている。
「ドイツでは食料難のため、死者から油を搾つてバタを製(つく)るといつた式の悪辣極まる悪宣伝はここを先途(せんど)とアメリカに向けて注入された。・・・戦争不介入、中立厳守で頑張つてゐたウイルソンの腰もだいぶぐらつき出した。その矢先にルシタニア撃沈事件(注:第一次大戦中1915年、イギリスの客船「ルシタニア号」がドイツの潜水艦に撃沈され、多数のアメリカ人が犠牲になった事件)が起こつたため、つひにアメリカ参戦、ひいてはドイツ惨敗と、戦争の帰趨は定まつてしまつた。」
 湾岸戦争のとき、油でベトベトになった鳥のヤラセ写真がばら撒かれたことがあったが、この手の宣伝戦はすでに第一次大戦で始まっていたのである。大東亜戦争中も、中国の赤ん坊が線路上に放置されている写真がアメリカの有名な雑誌に載ったために「日本軍はひどい」といってアメリカの一般市民を激昂させる事件があった。一連の写真は合成写真であったことは、その後明らかになっている。「雷同性に富んだアメリカ人は眞偽の弁別もつかず、無暗とそれを見て騒ぎ立つた」とあるが、今も変わっていない。慰安婦問題で中国ロビーに踊らされてアメリカ議会が反日に走ったのはごく最近の出来事であった。
<イギリスという国は不思議な国である。私は印度、ビルマでのイギリス植民地支配の狡猾さをブログで書いた。バー・モウの「ビルマの夜明け」という本の出版に際して、イギリス知識人は実に公平にこの本を評価している 。
「『ビルマの夜明け』は実は英文で書かれ、イギリスで発刊(1968年)され、日本でも翻訳(昭和48年)されたが、ビルマでは刊行されていない。「ビルマの夜明け」がイギリスで発刊された時、「ロンドン・タイムス図書週報」(1968年5月23日号)は、次のように書評をのせている。
 『ビルマの長いイギリス植民地支配から解放したものは誰か。それはイギリスでは1948年、独立を与えたアトリー首相の労働内閣だというのが常識になっている。しかしバー・モウ博士は、この本の中で、全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次大戦で果たした役割を公平に評価している。』
  ロンドン・タイムスはバー・モウの著書の主題を的確に掴んで、著書の中から次の言葉を引用している。
  「真実の独立宣言は、1948年1月4日ではなく、1943年8月1日に行なわれたのであって、真実のビルマ解放者は、アトリー氏の率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった。」
 イギリスはこのような理性と公平さを見せる一方、卑劣の代表でもあるのだ。>
先ほど表記した。第二十五輯(集)  「英國の世界統治策」を見てみよう。昭和15年3月に出た本である。5つの章から成っている。
第一章 イギリスは以下にして植民地を獲得したか
第二章 学問思想による戦ひ
第三章 分割して支配する
第四章 印度の反抗
第五章 西南アジアの反抗
この本の中から西尾は興味のあるエピソードを発見している。クロアチアとかセルビアのあるバルカン諸島を観光に際し、外国から車を持ち込むとき、税金を払うのだが、その税金はこれらの国に入るのではなく、これらの国を植民地にしているイギリス、フランス、ベルギーに入るという。<私の興味のあるのは、第二章、学問思想による戦ひである。学問、理性で植民地支配するという。イギリス的である。紳士の顔をして、人々を殺し富を略奪するというやり方である。>
つづく