GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#4

<タイトル名>
日本放送出版協会「出兵兵士を送る歌」
日本放送出版協会「嗚呼、北白川宮殿下」
讀賣新聞社「支那事変実記(二)〜(一五)」非凡社
眞山青果「乃木将軍」大日本雄弁会講談社
山中峯太郎ノモンハン戦秘史」誠文堂新光社
榊原潤「ビルマの朝」
徳富猪一郎「皇道日本の世界化」民友社
ワルター・パール「資源戦争」誠文堂新光社  
          <注、旧漢字は新漢字に直したところがある>

第二章  占領直後の日本人の平静さの底にあった不服従
    GHQから狙われて、自社の出版物を最も多く廃棄されたベストスリーは、朝日新聞社140点、大日本雄弁会講談社83点、毎日新聞社81点の順である。<朝日がトップであるのは予想がついていた。戦前、戦中の朝日が日本帝国主義をリードしていたのは朝日であるのは有名な話である。それはそれでよい。ところが戦後の急激な路線変更に驚かされる。結局はGHQ怖さに、日本軟弱国家変革路線へ方向転換したのである。西尾は書いている>
岩波書店日本共産党に占領された出版社ですから、あそこの左傾化は純粋に戦後の現象です。朝日、毎日、講談社はそうではありません。GHQに「焚書」されたことに深層心理的に深い関係があると私は見ています。敗北者は精神の深部を叩き壊されると、勝利者にすり寄り、へつらい、勝利者の神をわが神としてあがめるようになるものだからです。」
  アメリカの占領政策の特徴は、「何をせよと」は命令せず、「何をするな」とだけ禁止した。各家の前で星条旗を揚げよと命令などしないが、マッカーサーや占領軍を少しでも誹謗すれば、厳しく処罰されるという恐怖心を植えつけたのである。占領軍は日本国民に反感をいだかせることはしない。代わりに違反に対しては厳しく対処したのである。これは効果的で、恐怖心は奥に潜んで、人から人へ無言で伝えられ、日本人が自ら進んで自分を制限する方向に促進していった。「検閲」や「焚書」は、「何をせよ」の命令ではなく、「何をするな」の禁止の最も徹底した形態であった。特に、「焚書」は何十年か先を見越した時限爆弾であった。皇室、国体、天皇、皇道、神道、日本精神といった文字が表題にある書物は、約500点ほどあり、それらは真っ先に獲物にされた。占領軍の日本信仰破壊の先を見抜いた見取り図があったのである。アメリカの歴史の見方、満州事変より後に日本は悪魔の国になり、侵略国になったため、本当は戦争をしたくない平和の使途アメリカがいやいやながらついに起ち上がり悪魔を打ち負かしたという「お伽噺」を日本人の頭の中に刷り込もうとしたのである。学者や言論人といった知識階級の弱さは顕著であった。特に東京大学文学部には「集団としての罪」がある。
   昭和20年9月18日、終戦から1ヶ月のち、朝日新聞で、鳩山一郎の原爆の残虐さを非難した談話が掲載された。その直後朝日は発行停止を食らった。また石橋湛山(当時東洋経済新聞社社長)が「東洋経済新聞」で、進駐軍兵士の暴行を非難すると、一部残らず押収されている。また、西尾より年配の人が書いた手紙は、任意の抽出ではあるが、百通に一通ぐらいの割合で開封されたという。これが、GHQの日本の言論を支配しようとした実態なのである。
  江藤淳は前記したように、「閉ざされた言語空間」という本を平成元年(1989年)に出版している。この本のサブタイトルは「占領軍の検閲と戦後の日本」である。GHQが行った「検閲」の実態をアメリカのメリーランド大学の図書館で調べ上げ、それを日本人に告知した本である。江藤の記事の中に次の記述がある。
 「・・・原爆の残虐さについては戦後長いこと、記事で読むことも映像で見ることもできませんでした。サンフランシスコ講和条約が発効されて初めて、『アサヒグラフ』で見ることができるようになったのです。・・・」
 それに検閲官が摘発した当時の日本人の手紙を紹介している。
 「突然のことなので驚いています。政府がいくら最悪の事態になったといっても、聖戦完遂を誓った以上は犬死したくはありません。敵は人道主義、国際主義などと唱えていますが、日本人にしたあの所業はどうでしょうか、数知れぬ戦争犠牲者のことを思ってほしいと思います。憎しみを感じないわけにはいきません。」
「昨日伊勢佐木町に行って、初めて彼らを見ました。彼らは得意気に自動車を乗りまわしたり、散歩していました。橋のほとりにいる歩哨は、欄干に腰を下ろして、肩に掛けた小銃をぶらぶらさせ、チュウインガムを噛んでいました。こんなだらしのない軍隊に負けたのかと思うと、口惜しくてたまりません。」(上とは 
別人)
日本人の当時の本当の心について江藤はこう書いている。   
「当時の日本人が、戦争と敗戦の悲惨さを、自らの「邪悪」さがもたらしたものとは少しも考えていなかったというのは事実である。「数知れぬ戦争犠牲者」は、日本の「邪悪」さの故に生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の結果生れたのである。「憎しみ」を感じるべき相手は、日本の政府や日本軍であるよりは、まずもって当の殺戮者、破壊者でなければならない。当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。そして、このような視点から世相を眺めるとき、日本人は学童といえども「戦死した兵隊さん」の視線を肩先に感じないわけにはいかなかった。つまり、ここでは、生者と死者がほぼ同一の光景を共有していた。」
  新聞雑誌の記事や手紙の「検閲」に携わったのはみな日本人であった。英語ができ、日本文を英語に翻訳できるエキスパート、知性のある人たちであった。8千から1万人以上の日本人協力者がいたといわれる。例外的に自己告白した人がいる。甲斐弦(ゆずる)という人である。この人は「GHQ検閲官」(葦書房)という本を書いている。明治43年生まれで、東京大学英文科を出て、モンゴルの日本政府の教官を経て復員したが、いっさい職がなく、生きていくために、検閲官の試験に応募して合格した。検閲官になるいきさつから、恥ずべき仕事をした内容まで、つらい苦痛の2ヶ月の経験を本の中に書いている。この人は運よく、別の仕事が見つかり、検閲の仕事をしたのは2ヶ月だけであった。西尾の説明では甲斐から得た情報なのかどうかはっきりしないが、検閲に際して、以下のことに注意がはられたという。
1)「大東亜共栄圏のスローガンや日本軍の皇道を賛美したもの」、「またそれを非難したもの」。
2」「マッカーサー総司令部を賛美したもの」、「それを罵ったもの」。
3)「占領軍を非難したもの」、「歓迎したもの」。
4)「占領軍の直接行動を示唆したもの」、「占領軍の将校の現行を賞賛したもの」。
5)「現に審理中の新憲法に対する賛否両論」
つづく
GHQ焚書図書開封西尾幹二)#5
<実に巧妙な検閲の手立てである。普通ならマッカーサー司令部を賛美するのはよしとするだろうが、それもだめだとは。要するに、日本人を何も考えないように仕向けたのである。>
  戦争が終わった。第一弾に「検閲」があり、第二弾に「焚書」があって、その呪縛で、日本が変えられてしまった。当時、「青い山脈」という映画が封切られ、「古い上衣よ、さようなら」という歌詞が流行り、戦前の書籍も「古い上衣」になってしまった。戦争が終わって日本人はアメリカにすっかり「従順」になった。この敵意喪失の原因を西尾は以下のごとく分析している。
1) 戦後日本は経済的にアメリカに依存しなければならない状態であった。
2) もともと日本人はアメリカ人を憎んでいなかった。アメリカと戦争をしたのはプライドのためであった。つまり対米戦争は抽象的な戦いであったということである。具体的な憎悪がなかったのである。
3) 人は些細な侮辱に対して復讐する気持ちがおきるが、巨大すぎる侮辱に対し復讐できない。空襲と原爆によって徹底的に叩きのめされ、復讐心さえでてこなかった。
それに、欧米文明はもともと日本のモデル、模範であった。その模範と戦って敗れたことは、精神において求めていたものが十分に獲得できていないのに、敗れたという、「自己処罰」という、複雑な心理に陥る。
  日本人に執念深さがない理由に、上の理由だけでなく、軍人が威張っていたことに対する反発、また敗戦を受けて自決した高官が行政府にはひとりもいなかったという政府の責任の取り方のまずさに対する民衆の怒りもあったようだ。それと同時に。進駐してきたアメリカ軍、イギリス軍が「日本国民の敵はアメリカ、イギリス、ソ連ではなく、これまでの日本の支配階級である」あるいは「封建的な日本の歴史が敵である」ということを言い募った。そう言われると、それまで保っていた緊張の糸がプツンと切れ、それに、雪崩を打つように日本罪悪史観に打ちのめされたのである。
  日本人は従順になった。あるいは敗北感情に打ちのめされた。その理由についての通俗心理学の逆もありうる。形の上では敗北したけど、心の底では「不服従」の感情を持ち続けていたのではないか。服従と見せかけている静粛さは、日本人がやがて復讐に起ち上る臥薪嘗胆の覚悟の現れではないか。日本は戦争に負けたのではない。科学の力に負けたのだ、原子爆弾に負けたのだと日本人のほとんどは思ったのである。アメリカ軍は解放したといっているが、日本人は開放されたと自覚していない。占領されたという意識しかない。昭和20年8月29日、当時の「讀賣報知」の社説に次のような記事がある。
「固(もと)より大詔を拝して謹まざる國民は一人としてないが、そんな筈はないといふ気持ちでこの敗戦の事實を受取る態度は、今日に至るもなほ跡を絶つてはゐないのである。」
「そんな筈はない」というのは、まだ戦力に余裕があるという意味で、戦争に負けたことに納得していないことになる。これが終戦の日から2週間経った国民の感情であると理解できるだろう。だから、当時「戦争責任」などということを口にしようものなら、周囲の人は引っくり返ってびっくりしたことであろう。戦争責任という言葉は日本国内から出てきた考えではなく、旧敵国からのプロパガンダの言葉として津波のように押し寄せてきたのであって、日本人に罪悪感を植え付けようとしたのである。
<現在において、軍部の戦争責任、政府の戦争責任ということを言う人間がいる。彼等は旧敵国のプロパガンダに乗せられた人間であり、また戦後の敗戦利得者の系列に属する人間である。>
 昭和18年6月1日に毎日新聞から出版された大東亜戦争調査会編「米英挑戦の眞相」は一番早い時期に焚書された書物の一つである。この本の最後に「対日包囲陣の悪辣性」について述べているところがある。
米國日露戦争の直後より今次開戦直前に至るまで、或いは排斥、或いは圧迫、果ては弾圧など、我が國に加へた侮辱と非禮とは、世界四千年の國交史に稀なるものであり、また英國明治維新前後より日清戦争まえ、そしてワシントン会議より今次開戦直前まで、我が國に對してとつた態度も・・・過去幾重の對日外交振りを見れば、その内容の暴慢なるは勿論、その態度や傲岸、・・横柄、なすところは悪辣非道筆舌を以って形容し難きものがあり、顧みて、よくもわれわれの先輩はこれを堪忍して来たもんだと、その自重の裏に潜む萬(ばん)コク(漢字表記不可能)の血涙を、そぞろに偲ばざるを得ない程である。」
「彼等が我が國を軍事的に包囲するに先立って、我が國をまづ外交的に孤立無援にしてしまはうと企図したこと、この外交包囲にも満足せず。更に我が國の窮乏、哀微を策して、我が國に對する卑劣な経済圧迫をつづけ、我が國をして経済的孤立に導かんとしたことは、・・・。彼等は日本民族の移民を完全に排斥し、我が國製品の輸入や、彼等の日本への輸出品をば、彼等の本國と属領とから、意の如く制限したのみならず、他民族の國からまでも日本排斥を策し、謀略を以てこれを實行せしめた。  即ち我が國を完全に“はねのけもの”にして貧乏人にしてしまはうという策で、この排日、侮日は、つひに悪辣なる経済包囲という目的のために手段を選ばざる結果を招來した。彼等の企図したところは、我が國を丸裸にし丸腰にした上で軍事包囲をして、我が國を袋叩きにしようとしたのである。なかんづく我が國への油道の切断こそ、その悪辣性の最たるものであった。・・・・」
「譬(たと)へを以て畏怖ならば、ギャングの親玉がその配下を語らって、善良なる一人の少年を取巻きて袋叩きの気勢を示しつつ、侮辱、罵言し、難題を吹きかけ、聴かねば打ちのめすぞという構への姿勢、それが對日包囲陣であったのだ。」
<上の記述を、ただ単に軍国主義に踊らされた人間の戯言と固唾けられるだろうか。当時の緊迫した状況が伝わってくる。また正確な情勢分析もされている。歴史を勉強することは当時の状況を心情的まことも踏まえて総合的に捉えることである。特に日本が戦争に至らざるを得なかった状況を当時の人々の気持ちになり捉えることが大事である。それは不可能であるかもしれない。ただ焚書された本の中にその息吹が隠されているとすれば、その息吹を汲み取ることが先決である。戦後GHQによって選択されたものの系統ばかり読まされている我々は、ただ一律に「日本軍国主義によって戦争への道を歩まされた」、「たとえABCDの包囲があろうとも狡猾な外交で戦争が回避できた」などのコメントを書く論者がいるが、これはまったく焚書を読まずして育った世代である。また敗戦利得者の系統の人間であるといえる。>
  西尾も書いている。「歴史のなぞはこうした焚書図書の中に潜んでいるはずです。私はもちろん、戦争に至る歩みを軍国主義であるとか私たちの犯罪の歴史であるとか、そんなことは微塵も考えておりません。歴史は起こるべくして起こった必然の流れの道を歩んでいきます。滔滔とした流れの中でここまで来たのであります。」
第二章 一兵士の体験した南京陥落
  この章から、具体的な実例を引きながら、当時おかれていた日本人の心理はどうであったか、戦争に至るまでの連合国側の動因、その心の動きは戦後も続いていることを確認する。戦争が終わると、戦争が終わったと思いがちだが、実際は「戦後の戦争」は続いていたのである。
つづく