GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#6

<この章では、谷口勝歩上等兵の書いた「征野千里」という焚書になった本の紹介がなされている。この本には「一兵士の手記」という副題がついている。現在南京大虐殺と騒いでいるが、一兵士が観念でなく直接的、具体的に南京陥落まで、そして陥落後の正月の様子などを克明に書いている。彼は文学者ではないので、文学者風なオーバーな形容はなく、一兵士の、素朴でそれでいて真実あふれる文章を書いている。西尾が引用している文章だけでも膨大になるので、相当カットしてお知らせする。全文読まれたい人は本を買われることを薦める。買って読む価値はある。> (注:ある旧漢字や表記できない文字は現代風に変えた)
「保(ほ)定(てい)城外の民家だった。少し萎れてはゐたが、支那兵のちぎり残した葡萄が澤山蔓に残ってゐた。永(えい)定(てい)河を渡ってから十日間,來る日も來る日も野菜をかじつては泥と弾の中をすすみつづけて來た私たちには、萎れてゐてもその小さな青いまる味の果物が、世にも珍しい貴いもののやうにさへ思われるのだった。・・・誰かが豚を一匹ひつ捕へて來た。・・・晩は豚の御馳走に、舌鼓うつた。寝ようとすると部隊全部にはじめて千人力飴が配布された。・・・昨日までやつてゐたあの激しい戦争などをすつかり忘れてしまつてゐる。・・戦場といふものは飛び出すことも早いが忘れることも早い。一貫した想念といふのが全部無くなつて、ただ瞬間々々の想念の外にはなにも考へないーーこれが戦場だつた。従って兵隊はみんな子供のやうに、その場その場の感情で動いている。十日間の洗禮で明日の命を考へる馬鹿ものなどは一人もゐ無くなつてしまつた。・・・」
「・・・せつせつと故郷の肉親から知人からありとあらゆるところへ手紙をかいたりした。・・・」
  南京陥落は、周知のとおり、12月13日である。以下はその、2,3日前、南京に行く途中の情景である。
「・・・目の前にクリークがある。なんとしても突撃ができなかつた。ただ河をへだてて射ち合ふより外はなかつた。・・・田の中を伏せては走り、伏せては走りしてゐると、目の前の稲がゴソゴゾと動く、オヤツ、と思って稲の中をうかがふと女の姿が見えた。・・土民の若い女と爺(じじい)と婆(ばばあ)が稲の中を這い廻つてゐる。・・・私の姿をみると三人は抱き合ふ様にして掌をあはせた。若い娘は十八、九歳で断髪にして青い綿入れの便服を着てゐた。爺も婆もアカでヨレヨレになつたやうな黒ツぽい服だつた。老人たちは皺でクチャクチャの顔をしていて、殊に婆の顔はとても小さかつた。三人とも歩かうとするのだが腰から下が動かないらしい。イモリのやうにして、足をブラブラ引きずつて田の中を這いずり廻つてゐる。・・私は生まれてはじめて腰を抜かした人間を見て可笑しかつた。・・・だが、必死となつて掌を合わせる三人の目を見た瞬間、胸を突かれた。もう笑へなかつた。私はこの両親をかばつてただ助けてくれと懇願してゐる若い娘をみてふと妹を考へたし、爺の骨ばった手をみて、故郷の父を幻想した。そして、黙って、顎を沈めて震へてゐる小さな皺くちゃな老婆の顔を見て死別した母を考へた。・・・這いずり廻るこの土は祖先が生れ、そして自分たちが生まれ育った土だつただらう。この自分の國土のうへでさへ生命の完(まつた)きを懇願しなければならない土民たちーーー何といふ國民だろう。暗澹(あんたん)たるものがあつた。私は三人から目をそらした。『心配しなくたつていいんだ』といつてやりたいが、それはいへない。目前に弾が飛び交つてゐて心配しなくていいわけはちつともなかつた。『婆さんもう少しの辛抱だ。あんたたちの子供か、いや孫たちにはきつと分かるんだから・・・』さう日本語でつぶやいて私は一さんに田の中を部落へ走つて行つた・・・・同情だらうか、憐れなこの國民たちへの同情だらうか。いやーー私は故郷を考へてゐたのだ。弾雨の中でたまらない郷愁に自分自身が逃げ廻つてゐた。・・・」
<このような戦記を読んだことがない。本当に戦場を経験したことのない人間には書けない文章である。それにしても、戦場の緊張感が漂いながら、どこか拍子抜けした、ほんのりとした場面である。また谷口上等兵の人情味がよく出ている。彼のような純朴な兵隊が弾丸の飛び散る索漠としたところでも冷静に中国民衆のことを考え、また自分の故郷の父母を思いながら戦っていたのである。ここには善悪を寄せ付けない、確かな目が存在していた。私の解説など余計である。これからどんどん南京城に近づいていく。>
「・・敵は一せいに退却してゐた。頂上を乗り越えて、逃げる敵を追ついて山を下るとほのぼのと夜が明けてきた。轟々(ごうごう)と山に響く爆音――山の下の大きな道を、幾十台といふ戦車が一列に呻つて走つてゐた。そしてO砲は(注:軍事秘密のところはOというように伏字になっている)いくつもいくつも、すさまじい響きをあげて猛烈な速さで前進してゐた。砲車は轟々と軋み、馬は鬣(たてがみ)を乱して大道路を蹄(ひづめ)を鳴らす。・・・燃え上がる民家は、中に弾薬を隠してゐたものか、轟然たる大音響をあげて空を噴きあがつたり。或いは焔の中で幾萬といふ小銃弾が次々に炸裂して花火のやうな綺麗だつた。私たちはこの山を走つて進軍する。進軍しながら石原上等兵が、「おい、さつきの山のトーチカを見たか」といつた。「そんなもの見とれるかい」「いやわしは見たがな、どいだけわしらがトーチカを抜いて後へ廻つてゐても射ちつづけてゐやがつたろ。その筈だ。奴らア三人足を鎖で結へられてゐたぞ。弾薬をトーチカ一杯につめられてなア・・・」憮然(ぶぜん)たるものがあつた。「射つよりほかに仕方なしさア」大軍は南京へ、南京へ!と驀進(ばくしん)する。」
<これが中国の戦い方である。兵隊の脚に鎖をつけて逃げられないようにしておいて、部隊は立ち去ってしまう。下っぱの兵隊はただただ弾を撃ち続けるほかはないのである。ロシア兵も同じであった。普通の兵隊が最前線に置かれ、もし後退でもしようものなら、後ろにいる味方の射撃隊によって射殺される。だから前進しかないのである。これは私がロシア人から直接聞いた話である。>
<ついに南京入場>
「すでに中華門は五百米の近きに聳えてゐた。南京城に夜が來る。城内から射ちだす敵の迫撃砲はいよいよ猛烈をきはめて、軍工路といはず、畑といはず、一面に灼熱した鉄片の花火が散りつづけた。砲撃に目標となるので火は絶對に炊けない。星が満天に散つてゐた。
『ここでは死ねねエなア』
と石原上等兵がいふ。
『五百米づつ走つて、あの城壁の上でなら死ねる』
『さうよ、だからここでは死んでも死ねねエ』
・ ・・・夜が明けるまでにこの大城壁の前に幾人の戦友が残るのだろうか、とおもうふほど敵は砲をベタ射ちつづける。やがて夜が東の空から白々と明けてきた。・・・夜が明けるとすぐ城門への突入がはじまつた。前方には城壁を取り巻いて幅三十米ほどのクリークがあった。クリークの土手は三間ほどの道路になつてゐて、そこに塹壕があつた。城門はすでにピツタリ閉ざされて、泥や砂が一杯積んである。・・・片つ端から友軍の重機に薙ぎ倒されて、山のやうに重なって倒れて行く。友軍の工兵が、材木に板を並べた筏のやうな渡架橋をもつて走つた。城壁の上から手榴弾と機関銃が降ってくる。渡架橋は水煙をあげてクリークに投げ込まれた。城壁が轟然と音をたてて爆破される。大きな坂が出来たやうに土砂がザーツと崩れ流れた。やがて城門をうずめた小山のやうな泥の坂のところで日章旗がしきりと打ち振られた。戦車は轟音をたてて動き、私たちもまた一せいに進軍下。『十二時十二分!』
つづく