GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#2

その一方で不確定な情報をもとに小泉批判をしたことが原因で、自身も大きな批判を受けた(→小泉訪朝における空白の10分間事件を参照)。これについて本人は「小泉政権の陰謀」だと主張している。
また、その際には小泉を自民党左傾化を推進してきた野中広務加藤紘一と同一視し、批判に拍車をかけている。郵政解散以降は、かつて激しく批判していたはずの派閥政治とその温床になってきた中選挙区制に関しても評価に転じている。更には、小泉が2001年の自民党総裁選の公約通り2006年の終戦の日靖国神社を参拝した際にさえ、小泉を激しく罵倒している。
近年の主張
核武装の積極推進論者でもある。
慰安婦問題に対しては「性奴隷説」に異議を唱える立場であり、2007年7月13日に米国大使館に手渡された米下院121号決議全面撤回を求めるチャンネル桜主導の抗議書[2]にも賛同者として名を連ねている。[3]
宮内庁からの抗議
WiLL2008年8月号(ワック・マガジンズ刊)において、西尾は「これが最後の皇太子さまへの御忠言」において、会田雄次が1968年に語った「いまの皇太子(今上天皇)は,あんな不自由な寒くてしょうがないところはいやだといって,都ホテルへ泊まられるのですよ。この点は,訓練の相違もあるんでしょう。これは大きな問題だと思うのです。」を引用したが、宮内庁から当時の資料からそのような事実はないとの抗議を受け、誌上での訂正を求められている[1]。
   
    ウィキペディアの記事は生々しい。「朝まで生テレビ」出演や、「新しい教科書をつくる会」設立に関与したのだから、当然批判の矢面にたらされる立場なのだろう。私は実際に彼と会っている。名刺もいただいた。人相学というのではないが、私の直感的な人間観察から、何か言えるのだが、ここでは慎みたい。それに、上記のウィキペディアの記事を参考にはするが、深追いしない。これからは、西尾の本に対する感想のみにしたい。私のこれから書く記事に対して、自由に反応してもらって結構だが、即文的なコメントにしてもらいたい。どこかの週刊誌的な(ウィキペディア的なものも含めて)反応はお断りする。
  このブログでは、西尾の 本のあらましと木庵の思いを綴っていく。木庵の考えは、<  >の中に書き込む。
第一章 「GHQ焚書図書」とは何か
  <GHQが焚書したであろうことは、予想がついていた。しかし、実際に焚書があったという事実はこの本で初めて知った。> 「焚書」とは紀元前3世紀の「焚書坑儒」からきている。「焚書坑儒」とは、秦の始皇帝儒教の書物を焼き捨て、儒者たちを穴に生めて殺してしたことからきた言葉である。要するに焚書とは、世に出版されている書物を廃棄処分にして国民に見せないようにすることである。<江藤淳の「閉ざされた言語空間」で述べているように、戦後GHQが言論統制をおこなったのは知られている。ところが焚書までとはと思う人が多いのではないか。焚書の日本国民に与えた影響は絶大なものがある。日本人が持っている文化の一部を抹殺されたのである。この政治的、社会的、文化的意味をしっかりと考えるべきである。> 昭和3年(1928年)1月1日から昭和20年9月2日までの間に約22万タイトルの刊行物が日本で公刊された。その中から9288点の単行本を選び出し、審査に掛け、うち7769点に絞って「没収宣伝用刊行物」に指定したのが焚書行為である。占領中の相手国の憲法をつくってはいけないという国際法を踏みにじったアメリカ、<焚書ぐらいはするであろう。>
  焚書作業をアメリカ人だけで行えるはずがない。日本人の協力がなければできるものではない。その関与に協力したのに東京大学文学部であった。名前まで挙がっている。尾高邦雄(1908−1993)、金子武蔵(1905−1987)、牧野英一(1878−1970)である。牧野は江戸時代の空気の残る明治前期に青年時代を送り、明治後期から大正にかけて活躍した人であるのに反し、尾高と金子は大東亜開戦の年にそれぞれ33歳と36歳で、仲間の大半が戦場で散ったといわゆる戦中派に属している。
  「追想、金子武蔵」という追悼文を集めた本(非売品)の尾高邦雄が書いている。「金子武蔵先生のこと」の中に、「・・・第二次大戦が終わって、GHQによる戦犯の調査がはじまたころ、東大文学部にもそのための委員会が設けられ、どういうわけか、先生とわたくしはそれの委員に選ばれた。・・・・」と。
   <ここで注目すべきことは当時の東大総長は南原繁であったということ。彼こそ、戦後GHQに協力し、左翼勢力を日本に拡大させた張本人である。>この3人がどの程度積極的に焚書に関与したかどうかのはっきりした証拠はない。<しかし、西尾が調べていくうちに、消極的に協力するにせよ、焚書を拒絶できない、また抵抗できない状況をGHQは作っている。当時焚書に携えることのできる能力のある人間でも、食べるのも不自由な時代であった。そのような時代に、日本の文化、歴史を裁断する作業に従事することにそれほど抵抗がなかったのではないか。尾形の文章のなかに、当時の学者の状況が描きだされている。>
「ある日、その委員会の用事で、二人連れ立って日比谷の交差点近くにあったGHQを訪れたことがある。公式訪問であったにもかかわらず、そのときの二人の身なりは珍無類で、わたくしも戦災にあってろくな衣類をもたなかったが、金子先生はもっとひどかった。ヨレヨレのズボン、それに破れ靴を穿き、くたびれたソフト帽をあみだにかぶって、掃除の行き届いた第一生命ビルの立派な階段を、のっしのっしとのぼっていった。出迎えに二世の係官が驚いて、ジロジロと見あげ見下ろしていたのを思いだす。ところが先生は少しも動ぜず、平然として調査結果を説明していた。」
  <この記事から少なくとも金子と尾形の焚書への関与は証明された。ところで、だれか協力するふりをして、たとえばある本を焚書にするのを避けるような抵抗もできただろうが、たとえ些細な抵抗、サボタージュも発覚すれば、すぐにその仕事から外されるというダブルチックシステムをGHQはつくりあげていた。また焚書を進んでする左翼学者、左翼的な人間を動員したところもあるようである。たとえ思想的に左翼でなくとも、食べるためには何でもした時代である。食べるためには焚書ぐらいはやったであろう。それほど、良心の呵責がなくても。また当時日本人のほとんどが、戦争の敗北により、自己否定、日本の文化、伝統否定、戦争をおこなったことへの反省、失意のようなものがあったのではないか。そうだとすると、歴史を裁断する焚書にそれほどの抵抗もなく従事できたはずである。>
つづく