GHQ焚書図書開封(西尾幹二)#1

唐沢俊一氏と、帝京大学教授、元陸将志方俊之氏の田母神俊雄批判に田母神擁護を行なう予定であったが、ここでやめておく。田母神擁護を続けたところで、大体の議論は予想もつくし、このあたりで頭を切り替えて新しいトピックスに入る。
今回は、著書、「GHQ焚書図書開封」、発行所:株式会社徳間書店:著者:西尾幹二、第1刷、2008年6月30日、に対する私の感想である。
まず西尾のことをウィッキペディアで覗いてみる(全て載せると、スペースをとりすぎるので、私の興味のあるところだけにしておく)。
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
西尾 幹二(にしお かんじ、1935年7月20日 - )は、日本のドイツ文学者、評論家。電気通信大学名誉教授。 新しい歴史教科書をつくる会の運動を進めた人物としても有名。西尾の基本的な政治哲学は「米中両国の狭間で、日本はいかにして生存するか」である。
東京都に生まれる。東京都立小石川高等学校東京大学文学部独文科卒業。同大学院修士課程を修了。1979年、学位論文「初期のニーチェ」で東京大学より文学博士の学位を受ける。「新しい歴史教科書をつくる会」名誉会長(2001年9月〜2006年1月)。
ニーチェの研究家
ニーチェの研究と翻訳で知られる。主要著作『ニーチェ』、『国民の歴史』等。
保守系文化人として
竹山道雄西義之と続く、ドイツ文学者出身の保守系文化人として、すでに、1970年代後半から名は知られていた。小堀桂一郎とは大学の同級生。朝まで生テレビに番組開始時から多く出演する。論壇での活躍が圧倒的に増えたのはやはり「つくる会」以降である。NHKの対中報道などが迎合的で偏向しているとして、また、人権擁護法案に危険性があるとして早くから指摘する一方で、「カルト系右翼」や「神社右翼」にも厳しい批判を加えている。
台湾独立運動については否定的で、「台湾も所詮は中国と同根の反日集団であり、擁護に値しない」と雑誌『正論』などで批判し、金美齢らの怒りを買った。西尾の台湾独立運動批判に対して、とりわけ激しく反応したのが小林よしのりで、小林は「まるで、後ろから斬りつけるような卑怯な姿勢」と強く非難。西尾と小林はこれを境に対立関係に陥る。西尾と小林との対立は9・11を契機とする親米・反米、親小泉・反小泉を巡る論争と考えられがちだが事実ではない。西尾は親米というよりも、核武装を主張していることからも、むしろ反米的傾向が色濃い。
2007年には南京大虐殺虚構論を唱える映画「南京の真実」に多くの右派・保守系知識人達と同様賛同した。西部邁など自身と政治的に対立した人物とも大同団結した形となる。西尾は製作記者会見にも出席し、東京裁判の不当性を訴えた。
政党政治では一党優位政党制を支持しているが、「保守政党が永続的に政権を握り続けられるような制度を法的に整備する」事を前提としており、むしろヘゲモニー政党制支持に近い。
今日の皇室の在り方を憂慮しており、特に皇太子徳仁親王に対して月刊誌『WiLL』2008年5月号から「皇太子さまに敢えて御忠言申し上げます」と題して定期的に執筆している。ただその御忠言は皇太子以上に、皇太子妃雅子への批判が主となっている。また、「雅子妃は病気ではなく健康である」と主張している。2008年8月30日に出演したテレビ朝日朝まで生テレビ!」でも同様の主張を展開した。しかし、『WiLL』の中でも久保紘之などからや、『正論』でも、皇太子妃・徳仁親王妃雅子を批判することに、反対する声も上がっている。たかじんのそこまで言って委員会でも、こうした批判についての議論が行われた。(2008年8月17日放送、ゲスト所功を招いて)
つくる会での活動
西尾は「新しい歴史教科書をつくる会」の設立人の一人である。1996年8月、西尾と藤岡信勝が出会い、各界有志に呼びかけを行ったことが「つくる会」の始まりである。翌1997年1月30日、「つくる会」の初代会長に就任する。2001年に会長の座を田中英道に譲り、名誉会長となる。
2006年1月17日、「若い人と話が通じなくなった」という言葉を残し「つくる会」を突如離脱する。だが、会を離脱していながら側近を通じ事実上の院政を敷いているとの批判は後を絶たない。離脱したはずの「つくる会」で、会長だった八木秀次が無断での訪中などを口実にその後解任され、八木が「つくる会」に対し、抗議の脱会をする事態にまで発展する。また、八木が脱会した際には、西尾が傀儡として後任に考えていたとされる東大の同級生、種子島経も西尾の創業者意識の強さに幻滅して八木に同調してしまった。八木は、西尾の「つくる会」への介入を文化大革命と評している。西尾の一連の活動に対しては、日本人の歴史再認識に果たした役割を高く評価する声も保守派の中には依然としてあるものの、ここ数年の西尾に対しては、そのあまりの硬直性を批判する意見も少なくない。旧版教科書の改訂その後についてはインターネット日録(現在休載)に概要がある。
藤岡信勝とは元々性格が合わないとされる。種子島経は西尾と藤岡の関係について「この二人はいずれ劣らぬ自分中心の天動説論者で、宿命的に仲が悪いのだが、ただ、誰かを呪い潰そう、という際にだけ共同戦線を組むこともある。いうなれば呪い仲間である」と指摘している[1]。
9.11テロ以来不仲だった小林よしのりから2006年ごろから小林の作品の欄外で肯定的なコメントをかかれるようになり、西尾自身も『わしズム』夏号に小林からの寄稿依頼に応じて論文を執筆するなど、両者の関係改善が進んでいるようである。
小泉・安倍内閣への評価
小泉純一郎内閣に関しては、その中期までは大変好意的で、2003年9月に小泉が自民党総裁に再選された際には、北朝鮮に対する融和姿勢に懸念を示しつつもそれ以外は手放しで礼賛している。1990年代の自民党左傾化に終止符を打ち派閥政治の象徴だった竹下派支配と派閥順送り人事を小泉が徹底的に破壊しつくし、その直後に安倍晋三を幹事長に据え自身の後継候補として育て上げたことを高く評価している。
しかし、好意的だった小泉への評価は、第二次訪朝を期に完全に批判的なものに転じる。同政権の対北朝鮮・対アメリカ外交、郵政民営化をはじめとする規制緩和路線などを過激な筆致で徹底攻撃(月刊誌『Voice』2005年10月号では「狂人宰相」とまで呼んでいる)している。郵政民営化路線を徹底的に批判し、城内実衛藤晟一ほかの造反議員の応援演説までしている。父親が旧鉄道省官僚だったことに加え、かつて旧郵政省の関係団体「逓信協会」の機関誌で長年にわたり評論文他を書き、また編集長だった池田俊二と共著を出している。(洋泉社新書040、2001年)ことも遠因とされる。なお城内実の父で、警察庁長官を務めた城内康光とは同期の友人でもある。
つづく