自然農法(わら一本の革命)#44

自然農法(わら一本の革命)#44
我思う、故に我あり”
「人間が、まずある。万物の霊長である人間、神の子である人間、最高の動物としてつくられた人間がまずここにある。それからすべてがスタートしている。この世に何があるかないかというすべてのことは、人間から出発している。人間が実在を証明している。この考え方が、自然を人間のための自然にしてしまっている。東洋の思想では、人間は自然の一員にしかすぎない。犬やネコやブタ、ミミズもモグラも人間と同列である。・・・チョウやトンボを犠牲にしても、芝生があればいいという。人間尊重といえば尊重に見えます。しかし、そこには何か傲慢というか不遜というか、感じる。便器のそばで化粧するということ。昔の日本人は化粧するのを大っぴらにやったでしょうか。やはり平気でおれない。近代生活に慣れれば慣れるのかも知れませんが、あれが快適な生活には見えない。美とか醜とか真とかいうものが狂ってきているということを感じた。狂ってきている根本は、やはり出発の間違いだと思う。セミナーでは、デカルトのことだけで一日過ぎてしまったんですが、とにかく、アメリカの衣食住全体はとんでもない狂いを生じているんじゃないか、ということなんです。」
<西欧の現代合理主義は、デカルトの“我思う、故に我あり”から始まる。この我とは自我の我であり、小我の我である。自然から遊離したる我であり、思い上がりの我である。そのような我を持つアメリカ人は自然が分からない。せいぜいイミテーション自然で満足してしまう。アメリカ人が犬、ネコが好きで、動物愛護の精神はすごく高いと考えられているが、犬、ネコをペットの領域で捉えることしかできない。犬の躾もしっかり出来ているようで、木庵から見ると飼い主のエゴで躾しているように見える。犬猫が人間と同じような仲間と思えば、もっと違った付き合い方が出来るだろうに。本来動物愛護精神があるなら菜食主義者になるべきなのに、平気でビフテキを食べている。木庵>
九合目くらいしか分からない
「自分たちが感じたり、論じたりすることができるのは全部、この程度のこと。頂上ではなくて、八合目、九合目のところしかわからない、ということです。頂上に立てば神は見えるが、途中では神は見えないのに、神がわかった気になり、神を説く、しかし、神は頂上(相対界)を超えた空(絶対界)にあり、言葉にもならず、字にも書けない、絵にもならないのだが・・・。自分はアメリカでユダヤ人と会って、ユダヤ人の宗教とか思想とか、夜中まで話した。彼らは非常にすばらしい考えを持っているけど、最後にいくと、非常にがんこと言えば、がんこなところを持っている。キリスト教の話をしても、神道の話をしても、八合目、九合目までの話は合うわけなんです。ところが、話が合わないのが頂上のことなんです。もし、頂上からみた空は同じだろうということであれば、どちらから登っても、その点では一致できるわけです。頂上の上の空は、誰も所有するところでない。その空は、西洋人の空も、日本人の空も、アメリカ人の空も皆一緒だというのと同じようなもんですね。その空(くう)という点に行けば一緒になれるはずのものが、そこまで行けないために、八合目、九合目までしか行けないために、頂上のこととなると、想像するだけだから、すべてはバラバラになってしまう。神仏の合体、宗教の一致ができない。」
<ある宗教に凝り固まった人は、「これは、真実ですから、譲ることが出来ません」のようなことを言う。一つのドグマ主義に陥っているのであろう。説や主張などどうでもよい。ようするに、頂上の上の空から見ればよい。ただ人間である以上見えなくとも、見える世界があるんだと思い、見るためにまず自分の持っている自我や信念のようなものさえ、横に置く謙虚さが必要であろう。その点、日本人にはこの謙虚さを本来持っているように思える。悪く言えば自信がない、よく言えば自然と溶け合う無私の精神があるように思える。無私こそ天空に近づける一番の道であると思うのだが・・・。木庵>
拡大志向の機械文明の行きづまり
「今まで、アメリカ人はみな、小より大がいい、貧しさより豊かなほうがいいと、どんどん拡大の方向に向かっていた。政治も経済も、すべてのものが拡大の方向へ向かって暴走してきた。これが近代文明であり、近代の発達である。しかしこれは、頂上から奈落に向かっての下落でしかない。・・・自分は、ニューヨークに数日、生活してみて、街も夜、歩いてみました。一人一人会ってみると、あの黒人のハーレム街でもどこでも、何も恐ろしいような感じがしない。みんな非常にいい人たちだと思う。腹の底から笑えるのは、むしろ、あの黒人ではないかとさえ思う。あの大きなニューヨークの街の真ん中に酔っぱらい街がありますが、そこで昼間に酔っぱらっている人たちの顔を見ていると、これが本当の底抜けに明るい顔だ、ということです。ところが、利口な人、生活の豊かな人たちの顔といったら、満足している顔は一つもない。みんな悲劇の、行きづまった顔しかしていない。これは、あの文明の行きづまりを端的に表わしていると思うんです。・・・人生にはこういう目標がある、どういうのが生き甲斐であるなんて言うけれど、人間には目標なんかもとからありはしない。何をしなければいけないということも一つもありはしなかったんだ。ということを、四十年前に知った。人間が勝手に設定しただけにしかすぎない。豊かになる、幸福になるという錯覚をおこして、仮の目的をこしらえただけにすぎない。・・・人間はなにもしないようにするしかないんだ。もしも自分が社会運動をするとすれば、なにもしない運動をするしかしようない。全ての人がなにもしないようにしたら、自然に世の中は平和になるし、豊かになるし、言うことはなくなってしまう。」
<黒人が腹の底から笑えるというのは当たっているのかもしれない。しかし、黒人が幸せであるとは思えない。アメリカ文明社会に取り残されて、諦めの境地になっているので腹の底から笑っているように見えるのであって、本当に心の底から笑っているのであろうか。福岡氏が指摘するように、我々人間は仮の目標に向かって進んでいるだけで、本来人生に目標などないのかもしれない。そのことを悟っている福岡氏から見ると利口な人、生活の豊かな人たちは、悲劇の、行きづまった顔をしているように映るのだろう。アメリカ文化論として興味のある記述である。アメリカは拡大の一途を辿り、人間の欲望も上昇するばかりである。この欲望が世界の経済を盛り上げている原動力になっているが、それも限度を超して、欲望の火の車に乗っているようなものである。もともと資本主義というものは人間の欲望を肯定したところに成り立っているのであるが、それでは欲の亡者になり、欲望の大きい人間が勝つ弱肉強食の世界になる。そして弱肉強食に勝つような人間はより大きな欲望に向かい。負けている人間は、ただ諦めるか、富の不平等を武力で取り返そうとする。武力で訴えようとするのが共産主義で、結局共産主義国家が誕生しても、その中での権力闘争、弱肉強食が行われている。本当に人間というのはどうしょうもない。だから福岡氏の言うように、社会運動をするなら何もしない運動をするというのが正解なのかもしれないが、何もしない運動はことを起こす人間にとって都合のよい存在になる。ということは、結局人間には欲望の節度が必要であることを説くしか方法がないのかもしれない。誰もかれも福岡氏のような無為に生きることはできない。せめて仮の目標に向かって一生懸命生き、この世を去るときに、自分の設定した目標が夢、幻であったんだと悟って死ぬしか術がないようである。木庵>
つづく