自然農法(わら一本の革命)#40

自然農法(わら一本の革命)#40
食物の本質
「動物は、食べて、遊んで、寝ておればよい。人間も、快食、快便、安眠ができれば上出来とせねばならぬだろう。食べるものがおいしくて、楽しく遊び、よく寝る者こそ妙好人である。・・・ところで、お釈迦さんは色(もの)即是空(こころ)、空即是色といった。仏教語の「色」は物をさし、「空」は精神(こころ)であるから、物も心も一つであるといっていることになる。物にはいろいろ異なった色、形、質があり、これに対して心もいろいろと揺れ動く。物心一如ということは、ここのところをさすとみてよかろう。」

「この世には七つの色があって、別々の色(物)にみえる。ところがこの七色は合体させると、白色になる。もともと一つの白色光がプリズムで分光されて七色に分かれたに過ぎなかったともいえる。人間が無心にみれば、色に色がなくて、無色で、有心でみれば、七色の心が七つの色となる。心は即色、色も心も、もともと一つとみてよいのである。・・・自然食の目的は、上手に解説していろいろの食物を選択する知恵者を造ることではない。自然の園から食物を無心にとっても天道にそむかない、無智の人間を造るためのものである。孫悟空の如意輪棒はふりかざして役立つものではなく、収縮消滅して初めての融通無碍のものとなる。東洋の哲理もみずからの立場を捨ててはじめて、真の目的を達することができる。色に迷わず、無心になって、無色の色を色とすることから、真の食が始まる。」

「・・・春の七草に、七つの味があって、人間の味覚にどう作用するかを調査するのが大切なのではなく、現代人はもう本能を失って、春の七草をとって食べようとしなくなってきていることが問題なのである。目・耳・口が完全作動をしていない。目は真の美を、耳は妙音を、花は気高い香気を、舌は真の美味を、心は正味のところを捉え、伝達してゆく能力を失っていないかどうかが問題なのである。狂った人間の智恵と、麻痺した人間の本能で捉えた味が、本当の美味しい味とは言えない。・・・『どの食品からとろうと、蛋白は蛋白、ビタミンBはビタミンBでよいのではないですか』、『ところが、それは重大な思考と責任のすり替えで、肉や魚も同様な運命をたどり、肉が肉でなくなり、魚が魚でなくなり始めとなり、石油蛋白が上手に味付けられたりして、一切が科学的人工食品に変わっても気付かない平気な人間が転落することになる』・・・『人間は美味しいものを食べて美味しいのではない。美味しいと思う条件がその人に揃ったとき、はじめて美味しくなるのである。牛肉や鶏でも、そのままでは美味ではない。肉体的あるいは心理的に毛嫌いする条件のある人はまずい食品となる』・・・美味しいものがまずくもなれば、まずいものもまずいという観念をうえつけた最初の条件を取り除いたりすると、逆に美味しいものに転換できるのである。狐に化かされて、人間が木の葉や馬の糞を食べる話があるが、笑いごとでなく現代人は頭で食事をして、体で食事をしているのではなく、パンを食べて生きているのでもない。現代人こそ観念というカスミの食物をとっているのである。・・・美味しいいものを造らず、空腹であれば、美味しいものがこの世に充満してる。・・・昔、貴人が聞香(もんこう)と言って、色々な香りを炊いてその香りを言い当てるというのどかな遊びをしたとき、途中で鼻がきかなくなると、大根をかんで、嗅覚をよみがえらしたという話などは、ぬか味噌くさい貴人の顔などが想像され、誠に愛敬のある話で、味とか香りが自然からにじみ出るものであることを端的に表していると言えるだろう。」
栄養
「一昔前のこの附近の百姓の食事は,麦飯の醤油のもろみ、漬物で結構美味しくて、それで長寿で体力もあった。月一回の野菜の煮ものがついた小豆飯は最高の御馳走であった。・・・西欧の栄養学は一見科学的で緻密な計算の上になりたつっているから、いつどこで適用しても何の間違いもおかさないだろうと考えられ易いが、根本的には大禍をおかす危険があるのである。第一の問題は、西洋の栄養食には人間としての目標がない。人生の終局目標を見失った盲目人間の献立表を見る思いがするということである。自然に近づくよう、自然のサイクルに合わそうとする努力が見られない。人間にたより、人間を過信するため、むしろ反自然的孤立化人間を造るのに役立っているようにみえる。第二に人間が精神的動物であることが忘れられていないだろうかということである。人間を単に生物的、機械的、生理的対象として捉えただけでは不完全である。人間の日々の生命、肉体をきわめて流動的に精神的にも波乱にとんだ動物である。・・・第三に西洋の栄養学は部分的,局時的把握に始終していて、とうてい全体的把握とはなりえないということである。」
<福岡氏は食物の本質をわかりやすく説明してくれた。これ以上付け足すことはない。ただ、木庵は化学調味料を入れた料理を見分けることができる。ロスでも多くの日本食レストランがあるが、多くの場合化学調味料を多くつかっている。日本食レストランと言っても多くはアメリカ人が主な客である。彼等は化学調味料と鰹節でとっただしの区別などつかいない。リトル東京にある所謂高級日本レストランで化学調味料が入った料理を出されて失望したことを覚えている。店の内部は高級感漂わせ、ウエイトレスも上品で洗練されているのだが、料理がこうだとげっそりする。それでも身なりの良い紳士淑女が美味しそう食べていた。まさに現代アメリカ版、狐の化け料理である。一ヶ月ほど前、ジャパンフードフェスティバルがとあるホテルで開催され、ホテルで日本から来た海産物輸出業者の方に上の話をした。彼の話によると、日本人はまだ化学調味料と本物の調味料の区別が付く人が多いという。だから日本の高級料理店で化学調味料で料理したものを出すと客はすぐ遠のいてしまうという。ところで2年前帰国したとき、私の田舎に美味しいラーメン屋があると弟や弟の娘と行って食べてみたが、見事化学調味料が多く入っていた。それを彼等は美味しいと連発していた。残念ながら、私の身の回りに味覚の麻痺した者が現れていることになる。木庵>
自然食についてのまとめ
理想の自然食(無分別の食)
「人間は自分の力で生きるのではなく、自然が人間を生み、生かしているのであるという立場に立つ。真人の食は、天与の食事であって、食物は自然の中から人間が選択するものではない。天が人間に与えるものである。」
自然人の自然食(理法の食)
「自然には万物があって、あり余りことがなく、一物が不足するということもない。自然の食物は、一物全体で、一物全体の中に、味覚、滋味、妙味の全てが凝結させている。」
一般病人食
「病気は、人間が自然から離れたときに始まり、遠離の程度におおじて重体になる。だから病人は自然に還れば,病気も治るのは当然である。・・・このごろ、大都会の中に生活していて、自然食を手にいれようとする人々が実に多い。たとえ入れたとしても、それを受け入れる肉体もなければ、自然な心で食べられるわけもないから、自然食を食べることにはならないのだが・・・。煮たきすることによって、人間の食が豊かに、健康にもよいと主張する者があれば、病人を造るのに役立つだけだと説く者もある。生水が良い、いや悪い、塩ほど貴重なものはないと言えるかとおもうと、塩のとりすぎがもとになる病気が多いと説く者もいる。果物は陰性で猿の植物で人間の食ではないと遠ざける者もいれば、果物と野菜が最高の延命長寿の食べ物だと主張する者も入る。時と場合で、いずれの説も正しく、いずれも間違いと言わざるを得ないのだから、人は迷うのみである。というより迷った人間からみれば、全ては迷いの材料になるだけである。」
つづく