自然農法(わら一本の革命)#39

自然農法(わら一本の革命)#39
五章 病める現代人の食(自然食の原点)
自然食とは何か
「自然にあるものをそのまま食べるのが自然食だと漠然と考えている者もあれば、この頃は、公害になるような農薬や添加物が入っていない食品を食べるのが自然食というのだろうと思っているものも多い。自然食というのは、明治の石塚左玄に始まり、二木・桜沢両氏によってほぼ大成されたともいえる。陰陽思想や易経の思想をもとに組み立てれた無双原理に基づく食養の道から出発した言葉である。普通、玄米菜食をとるので、一般には玄米を食べる運動だと理解されている。しかし自然食というのは、玄米菜食主義というようなことで簡単に片付けてよい問題ではない。では何か。・・・自然とか、自然食とは何かと言えば、だれでも一番身近なものでわかりきったことと思っている。けれど、自然とは何かと問いつめてみると、明瞭にわかっているわけではない。早い話、人間が火と塩を使って料理して食べるのは自然食か不自然食かと言うと、どちらにもなる。・・・問題の混乱は、人間の智恵に二通りがあり、自然の解釈に二通りがあり、しかもその区別がつかないで混乱しているところにある。二つの智恵というのは、無分別の叡智と、分別の智恵である。ところが、無分別の智というのは、分別によらず、直感で認識する以外に方法がないので、一般にはわからないままで、簡単に本能として観念的に認められても、実際には無視されるところの智恵である。人間は、分別によってのみ間違いのない認識が可能になるものと信じているから、実際に世間で通用している人間の智恵というものは、すべて分別智の範囲内にとどまるものである。だから一般にいっている自然は分別智による自然である。この二つの智恵は相対立するものでありながら、前者は否定され、後者のみが肯定され、幅をきかしてきた。・・・分別智によって西洋に自然科学が発達し、東洋に陰陽・易の哲理が生まれた。だが科学的真理は絶対真理になりえず、哲理もまたこの世を解釈するにとどまる。どちらも分別を出発点とした相対観であることには変わらないで、ともに相対を超えた根源の自然そのものを知り、自然の全体の姿を把握するということにはならない。結果から見ると、科学的智恵で把握された自然というのは、壊された自然という物体にすぎず、いわば形骸があって魂のない幽霊である。哲学的な智恵で把握された自然というのも、人間が心で組み立てた自然という名の理論にすぎず、魂があって姿形のない幽霊である。人間は、自然という名の得体の知れない幽霊にひきずり回されているが、一茎の白百合の美をめで楽しむのに、科学的に百合の花を合成したり、哲学的に解釈する必要は何もなかったのである。自然の本質、すべてを知ろうとすれば、分別の心を捨て、無分別の心で、相対の世界を超えて、自然をみるしかない。自然を無分別の心でみると、本来東西なく、四季なく、陰陽もなしということになる。・・・おいしいものが食べたくなったら、食卓に御馳走を並べるより、先ず、まずいものを食べることである。美味しいものを食べたいなんて言わなくなったとき、本当の味があじわえる。御馳走を真に御馳走にすることができる。自然の中にいて、自然のものを自然にとる、ただそれだけのことだが、それが分別智に邪魔され、我欲に出発した嗜好に迷わされてできない。それが出来始めるまでの道は遠い、そのための道標が、陰陽の道である。まず陰陽の道に徹してのち、その道を越えねばならない。」
<近頃のグルメブームは商業主義に踊らされているように思う。「美味しいものを食べたいと思えば、まずいものを食べることである」とは、興味のあるコメントである。人は美味しいものを食べる習慣がつくと、より美味しいものを求めるようになる。考えてみれば自然の食べ物はもともと素晴らしい味が付いている。それに味をつけて、その味をつけたものに舌が慣れてしまうというか麻痺してしまい、もともとの味を味わうことが出来なくなる。断食をした後のお粥の味は体全体がお粥を吸収するための準備が出来て実においしい。テレビの漫画「一休さん」で、金持ち(将軍だったかな)が一休さんに美味しい御馳走をよばれることになり、寺に招待されたのだが、いくら待っても食事が出てこない、お腹の虫がグーグー鳴いている。もう、辛抱の限界に達したときにようやく運ばれてきたのが、お粥とつけもの一切れだけである。それを食べると今までに味わったことのないお粥の美味しさを発見したという話である。玄米だけでもよく噛んで食べると、実に味深い美味しさを味わうことが出来る。レタスでもドレッシングをかけるより、何もかけずに食べた方がレタスの本当の味が分かる。小野田さんがジバング島で生活した時、塩は魔法の調味料だと感じたという。文明社会に生きている我々は塩どころか色々の調味料を嗜好しているが、何もつけていない自然のままでいつも食していた小野田さんにとって、塩一振りが魔法のように味を変えてしまったということなのだろう。木庵>
自然食のとり方
「動物の肉は陽性で植物は陰性、中庸は穀物である。人間は陽性の雑食性の動物であることから、中庸の穀物を主食とし、なるべく陰性の菜食をとり、共食いになる極陽の肉食を摂らないという理法があみだされてくるわけである。しかし、やれ陰だ陽だ、酸性だアルカリだ、ナトリウム、マグネシウム、ビタミン、ミネラルなどということにあまり神経をつかい、深入りすると(勿論医学的まるいは病気治療からは必要だが)、科学の領域に入り、肝心の分別智から脱出を忘れてしまうことになる。・・・第(2)の図表(注:表記できないが、大根、松茸、葡萄、マグロを、野菜、きのこ、果物、魚の極相であり、その中に色々の植物が網羅されている)は、この地上で、人間が容易に食糧となしうる食物となしうる食物を集め、やや分類的に並べてみたものである。これをみれば、いかに無限の食糧が、生きとし生けるもののために、地上に用意されているかが分かるであろう。この動植物の発生系統図は、そのまま自然のマンダラ(曼荼羅)と言ってもよい。悟境に住む者からみれば、この世の一切の動植物は何ら分別する必要もなく、一切のものが法悦界の妙味、御馳走となるわけである。・・・早春、褐色の大地から春の七草が萌え出た頃から、七つの味を百姓は味わうことができる。春の七草に配するに、自然は茶色の食を代表する貝類をもってくる。早春、タニシ、シジミ、海のハマグリ、サザエが美味しいとなるのは自然の妙味といわねばなるまい。緑の季節になれば、ツクシ、ワラビ、ゼンマイなどの山菜は勿論、桜の若葉,柿、桃、山芋の若葉など、食べられないものはないばかりか珍味となり、薬味となる。筍が出れば、タケノコメバルが美味となり、麦刈りの候になれば、ムギワラダイやムギワラリサギが豊富にとれてしかも美味しい、春のノボリサワラの刺身で皿をなめ、菖蒲の節句にはショウブタチウオを供えて祝う。春はまた磯遊びの候、青の食物といえる海藻が美味となる。梅雨のあける頃梅をつける。・・・極陽の真夏に太陽の下では、涼風の樹蔭で陰性のウリを食べ・・・・・初秋になって様々な果物が実り、・・・秋がくれば家庭では秋刀魚を焼く季節という。霜がふり始めると、焼き鳥屋の屋台を覗きたくなる。・・・正月のおせち料理・・・厳寒の冬にはネギ、ニラ、ノビルを添えた鴨やシシの肉がからだを暖めてくれる。・・・春を待つ間はこれまた、雪の中にフキノトウがのぞき・・・このように、日本は四季の食物を身近な所からわずかにとり、その美味,滋味、妙味をかみしめながら、つつましく生きていく食生活の中に、天の配剤を見ることができる。また、天地の流転に従った、無為、無心に生きていく静かな人生の中に、かえって壮大な人間のドラマがかくされているのである。・・自然食は足下にあり、無心、無欲にして、農村漁村の人々は、天の理法にもとづいた食をしていたといえる。
<一応の栄養学的な知識はあったほうがよいが、それに拘ることなく、自然のものを自然に食すればよいのであろう。問題は食を受け入れる自分の体、ひいては心の問題であろう。出されたものを感謝して食べる。それでよさそうだ。それにしても、日本は四季があり、本来身のまわりに自然の栄養のある食物が豊富であることが分かる。もしどのようなものが食できるかの知識があれば結構食生活が豊かになりそうである。木庵>
つづく