自然農法(わら一本の革命)#38

自然農法(わら一本の革命)#38
戦争も平和もない村
「地球上の。動物、植物、微生物は所謂生物連鎖の姿をとって、適当にバランスをとりながら秩序整然と生きてきている。これを弱肉強食の世界と見たり、共存共栄の姿と見るのは人間の勝手だが、この人間の勝手な解釈が実は地球上に風波を起こし、混乱を起こす火種となっているのである。大人は蛙を可哀そうと思い、その死を哀れに思う一方、蛇を憎んだ。人間の哀歓、喜悲、愛憎の発生は、自然発生に見える。人間のそれらの感情と思考は当然のこととして是認されているが、そうだろうか。・・・他の動物は闘争するが、戦争はしない。強弱、憎悪に出発する戦争をなしうるのが人間の特権といえば、喜劇であり、喜劇を喜劇と知らないところに人間の悲劇がある。・・・子供には自然本来の生命の歓喜があっても死の恐怖はない。優劣がなければ、勝者も敗者もない。矛盾対立のない世界に安住するのが子供である。大人の目に映る二相の愛と憎しみは、元来別個の二つのものではない。一枚の紙を表と裏からみたに過ぎない、愛は憎しみによって裏付けされ、愛を裏返せば憎しみになる。虚偽の愛と憎しみである。・・・人間は自他を分別する。自己を愛するごとく、汝の敵を愛せよと言ったキリストの言葉も、自他を区別しての自己であり、他人である限り、人間の愛憎は救えない。邪悪の自己を愛する心が、憎しみの敵をつくっているのである。自己を愛する前に、先ず人間の分別による知恵を憎み、自己を斬ることが先決である。キリストの言葉は、裏をかえせば、汝の敵を憎むごとく、汝自身を憎めである。人間にとって最初の最大の敵は、己れ自身である。」
<福岡氏の言う「人間の分別による知恵を憎み」とは、仏教でいう無分別の分別、ソクラテス無知の知の世界であろう。問題は己であり、己がわかったと思っているところに、大きな落とし穴がある。現代人は「客観的な真理」とよくいう。客観的な真理はどこかにあるのであろうがそれを認知するのは己である。己が曇った、色づいた眼鏡で見ていては、客観的な真理など見えてこない。ところが現代人は客観的な知識をもっていると思っている。ただし、それは数式化されたものであり、デジタル化されたものにしか過ぎない。デジタル化とは自然現象を二進法でYes,NOと抽出しているに過ぎない。自然そのものではないのである。木庵>
わら一本の革命
「山小屋をめざして来る若者の中には、人生に絶望して、わらをもつかむ気持ちで来る者が多い。私は彼等に何をしてやることもできない。長い間黙って働き、黙って去る若者に、わらじ銭すら与えられない心身の貧しさをなげく老農だが、たった一つ彼等に与えることができるものがある。一本のわらである。・・このわらは軽くて小さい。だが人々はこのわらの重さをしらない。このわらの進化を多くの人々が知れば、人間革命がおこり、国家社会を動かす力となる。文字通り革命になるのだが・・・。私の子供のころ、犬寄峠に億万長者がいた。この人は馬の背に木炭をつんで、峠から郡中港までの一里の道を運んでいるだけである。なぜ一代で長者になれたのかというと、帰り道で、道ばたに捨てられた牛馬の古わらじやフンを拾って帰って畑にいれただけだという。わら一本を大事にし、手ぶらで歩かない。むだ足を踏まないというモットーが彼を長者にしたのである。」
二宮尊徳はご飯を薪で炊くにしても、三本を二本で済ませる工夫があることを農民に教えている。まず釜の底についている煤(すす)を取ることによって、火の通りがよくなる。そして火が釜の下にいくようにすれば二本で炊ける。余った一本を買ってやった。所謂貯金である。考えてみれば我々は無駄金を使っている。もし、二宮尊徳や犬寄峠の長者の知恵があれば、確かに一代で億万長者になれそうである。木庵も金だけのことを考えたとすると、今では億万長者になっているであろう。木庵>
京の夢
「・・・京の夢を起爆剤の火種は、寺と学校にある。両方を鉢合わせて火花が散れば、それが口火となろう。・・・『やはり、現代の病根はお寺と学校にある。両者の大手術が必要ですか』、『昔から医者と坊主と先生は、芸者にきらわれた』、『威張るからきらい、とは言ってみても、医者と坊主がいなきゃ、困るのは芸者と庶民、とも言える』、『本物の医者と坊主はもういない。医者知らずの健康人間、迷いのない妙好人みょうこうにん)、疑問の雲ひとつない賢人を造る役目の医者や坊さん、先生は絶滅した?・・・先生は何をしてきたか。学生に勉強させて、寄せ集めの知識を切り売りすると疑問がますます増えるから、それを解くため、ますます多くの大学や教授を造らねばならなくなる。大学は膨張しマンモス怪物となった。坊さんが宗教活動を盛んにして、人心を混乱させて、迷う人を増やしてゆけば、信者が急増し、寺はますます繁昌する。医者が病人の生命の引き伸ばしをすると、病人と老人が地上に満ち、収容施設の病院ホームの拡充発達が行われ、医者は儲けて儲けてということになる。学問は学校経営に役立ち、医学は病院に役立ち、宗教は社寺に役立つだけで、これもしもじもの人間のために何の役にも立っていない』・・・」
<尊敬されるべき先生、医者、坊主が、物、金中心に考えるようになったので、福岡氏にこのようなことを言われるのである。昔は本物の先生、医者、坊主がいたように思える。現在でも人数が少なくなったとしても本物がいることを信じる。木庵>
葦の髄から天のぞく
「山小屋の柱に、小心庵と落書きがしてある。尋ねて来た人は都会から逃げてきた小心者の住む小屋とみる。ひねた者は無心の一歩手前の小さい心と解釈したりもする。この小心という言葉に、小さいセンターという意味をもたらすと、きわめて壮大な夢をもった心ともなる。幼い頃、麦笛や女竹で鉄砲を作るとき、よくその茎の小さな穴に目をあてて天をのぞいたものであった。“葦(よし)の髄から天のぞく”というわけである。この山小屋にいても天はのぞける。本来この世の中心は一つであり、その中心、真ん中の心がわかれば万事がおさまるはずである。だが色々のところで、色々の人が、これが中心だ、原点だといってもめるわけである。・・・『大体、中心というのは、真ん中の心と書かれている。この心というのは何だろう。どこにあるのだろう』・・・『そう思うという言葉は田の心と書く、心が田を知るのか、田圃から人間の心が湧くのか』・・人間にとり、寂しさや悲しみの感情は無用と考える医者は、当然その感情の発生源となる大脳内の神経細胞を摘除しようとする。現代医学は、トラックの運転者に不眠不休で働ける肉体と大脳を改造して、高速道路の孤独な深夜運送に耐えられる強い心をもたす技術をすでに、開発している。その結果は殺人運転も平気な超人が出来るだけである。・・・宇宙の心、真の中心、真の心が自己に宿れば葦の髄(心)から天ものぞける。自己に心がない人間にはこの世の何一つわからない』、・・・『例えば十字架がわかるか、理解できるか・・・人は一点を左右に並べて横線を描き、上下に延ばして縦線を描くことができた。だが人間が知ったという十字架は,点の縦横の延長にすぎぬ線(時間)と、線の交叉によって確認された点(空間)を知ったに過ぎぬ。それは相対的な時空の概念にすぎず、真に一点、一線の十字を把握したのでないから、キリスト教徒にはなれても、キリストにはなれない。時空を知ったのではない。一点、一線が時空であり、十字架である。一時は万事、十字の心がわかれば万事の心がわかる。・・・すべては同根異相、なにもないが・・・一つあるだけである。それは無のスパイラルといってもよい」
<福岡氏はキリスト教の十字架、仏教の大法輪、神道イザナギイザナミ、天の御中主神を図式している。これら全てが中心でクロスしているとか、中心から広がっている。ここは抜粋するところが不適切であるためか、論旨がはっきりしない。ようするに、中心になる自分が大事であるといいたいのか???木庵>
つづく