自然農法(わら一本の革命)#37

自然農法(わら一本の革命)#37
「科学が人間に役立つと思っているのはどういうわけか。人間は役立つ条件を先ずつくっておいて、役立つものを造って一人で悦に入っているというのが実相である。宇宙船が役立つのは、月世界に宇宙船の燃料ウランをとりに行くためであった、というような喜劇を、人間は平気でやっているのである。数年前までこの川の水で回っていた水車は、石うすとは比較にならぬ巨大な威力を発揮していたが、水車で間に合わなくなった人間はダムを造り、水力発電を起こし、製粉工場を建てて米や麦を粉にした。発達した機械はどのように人間に役立つ仕事をしてくれたろうか。玄米をつくって白米にしたということは、玄米の皮、即ち健康のもとである糠(ぬか)をけずり捨てて、白い米すなわち粕(かす)にしたことである。製粉工場は米を粉砕して粉ごなにしてしまうことに役立った。生命のもとである玄米を病人食にもならぬ粕にし、さらに粉ごなにくだいてパンにした。胃の弱い人間を造っておけば、消化し易い白米がありがたがられる。消化し易い白米食(粕)を常食にしておれば、栄養不足してバター、ミルクという栄養食が必要にもなる。水車や製粉工場は人間の胃腸の働きの代わりをして、胃腸をなまけ者にすることに役立っただけである。農業に役立ったように見える科学技術も、ほとんど幻想でしかない。水を研究して、常時灌水すれば稲の成長が盛んになったといって喜ぶが、レンコンの穴を太くして大きなレンコンが出来たと喜んでいるのと同じである。・・・田に水を入れ,鋤でかき混ぜ、土壌粒子や構造を破壊してしまった時から、土は死んで酸素もなく微生物も棲まない田となり、毎年耕耘機で耕耘せねばならなくなった。自然に大地が肥沃になるような手段をとっておけば耕耘機は必要でなかった。生きている土を殺してしまい、病体の稲を作るようになれば、即効性の栄養肥料が必要になり役立つようにみえるのも当然である。自然の土は自然に土を肥やし無肥料で作物が出来る。百姓にとって真に必要欠くことのできないものは何もない、肥料も農薬も機械も、絶対必要なのではない。ただ、それらを必要とする条件を作れば科学的な力が必要になる。・・・科学が一切無用であることを確信して、これを証明しようとして、自然農法の道に入り、ここ40年近く私は人生の大半を棒にふってしまった。が、科学農法で、米の反収が昔も10俵今も10俵内外に低迷しているとき、自然農法でより以上の収穫をあげ得たことは幸いだった。一切無用の農法が幻想ではないとすれば、科学は幻想になる。時空を越えて流れる行雲流水は知っていた。」
禅宗の修行僧のことを雲水と言うが、この雲水とは行雲流水からとっている。雲が行くごとく、水が流れるごとく、自然にまかせて生きていく。これが雲水の生き方である。粗末な墨衣を着て、「寝ては一畳、起きては半畳」、雨露を避けられる所さえあればよい。人生は旅と托鉢でその日の食を得て、子供達と日の暮れるまで遊ぶ。良寛さんの世界である。良寛さんの書を見ると、自然に生きた人間とはかくも自由であるかがわかる。構えがない、こだわりがない。日本人は良寛さんの生き方を尊敬し憧れる。しかし、彼のような生き方をしようとはしない。福岡氏の自然農法の素晴らしさに驚愕する、しかし、我々は福岡氏のように山小屋に住んで科学を完全に否定した農民になりたくない。綺麗な家に住んで白米のご飯に美味しいおかずがいっぱいある食事をしたい。そんなものである。またそれでよいと思う。誰もが良寛さんや福岡氏のような人であれば、日本は全くの原始時代に戻るであろう。福岡氏だって電車を利用している。電車は科学の産物である。現代人は科学を否定などできない。しかし、本当の精神の人は科学から遠ざかり、行雲流水と自然の流れの中に身を寄せているのである。木庵は思うのだが、日本よりもインドにはこのような人が多くいる。それだけインドは精神の深いところを悟った人が多くいることで、インドの精神文化を深めていると思う。日本にも福岡氏のような自然の奥義を極めた人がいることは日本も捨てたものではないことになる。木庵>
相対性理論くそくらえ
「今年は古い昔の稲を主に植えたので、稲が頑健で、よほど鎌をといでないと刈れない。・・・時空の問題を解明したアインシュタイン相対性理論は、あまりにもむつかしい理論で、その難解さに敬意を表してノーベル物理学賞がおくられたといわれる。彼の理論がこの世の相対の現象を解明し、人間が時空から解放し、楽しい平和の世としたというのであればともかく、時間と空間についてむつかしく解説し、この世をわけがわからぬほどのむつかしい世と人びとに思いこませたのだから、むしろ人心惑乱罪が適用されるべきだった。人間にとって最も大切なことは、この世を相対の世とみたほうが得か否かであった。この世は他の動物にとっては天地未分の世界である。・・・大体人間には三つの道がある。(1)雨が降るといって洪水を心配し、晴天になると旱魃がくると嘆く小人の道、(2)晴れて耕し、雨降れば書を読む、晴耕雨読、心耳に従う大人の道、(3)雨降ってもよし、晴れてもよし、雲の上は青空、晴雨共に晴天と笑う超人の道。科学者は雨に悩み、晴れて喜ぶ小人の喜悲の心情すら知らず、雨滴を分解して素粒子の世界をのぞき、太陽の光線をみて核分裂核融合の爆弾を造って得意になる。人間的喜悲の感情を失った反自然的コンピューターつき機械化人間が科学者である。彼等の頭から生まれた科学が、本当は人間に役立つものではないというのは、科学的真理が絶対的真理でなく、常に反自然的であるからである。アインシュタインの頭脳がどんあにすばらしいものであっても、絶対時間とか絶対的空間を解明することは出来ない。なぜなら彼がこの世を相対の世界と見る限り、時間を超える時間、空間でない空間を見ることも、これを計るものさしも、彼はもつことができない。」
<我々は鉄や竹でできた物差しで、長さを測っている。厳密にはこれらは少し伸縮しているが、基本としては不動であると考えてより。ところがゴムバンドを物差しとすればどうであろうか、測る基本となるものが変動している、基準となるものの状態によって、測るものが変わってくる。机の長さは一定であるがそれを測るゴムバンドの伸び縮みの状態によって長さが違ってくる。相対性理論というのはゴムバンドで長さを測るようなものである。基準がしっかりしていないので、ものごとの判断がわからなくなる。社会現象をみるのも、基準がしっかりしないとわけが判らなくなる。ここで、koreyjpさんのブログで興味のある記事があるので紹介する。koreyjpさんは福岡氏とは違った角度から、現在日本人がわけが判らなくなっている原因について述べている。木庵>

  以前、私が通ってゐた病院には、医師や看護婦が集まる部屋にかういふ貼り紙がしてあった。

「判りやすい病院にならう」

私はこれを見て、感心した。言ひ得て妙とはこのことだ。「判る・・・つまりストンと胸に落ちることで、これはなかなか並大抵のことではできない。

明治と言ふ時代は、大変判りやすい時代であった。当時作られた歌の歌詞は、これでもかこれでもかといふほど、「判り易い」(例:戦友)

ところが、現代はまことに判りにくい。例を宮崎駿のアニメにとる。(全部を見たわけではないが)

となりのトトロ。判りやすい。
魔女の宅急便。判りやすい。
紅の豚。判らない。主人公がなぜ豚になったのか、また豚から人間に戻ったのか????????
千と千尋の神隠し。判らない。特に千尋が魔女の家から風呂屋に帰ってくるあたりが
天空の城ラピュタ。よく判らない。特にロボットにまつわる話が。
平成狸ばやしポンポコ。よく判らない。最後に宝船で狸たちが去っていくところが。

これらをよくご存知でないかたには、それこそ「判らない」であらうから恐縮であるが、これらの判り難いアニメは、宮崎氏の勝手な思ひこみが根底にあるから、判り難いのであらう。ではなぜ「勝手な思ひこみをするやうに」現代の人はなったのであらうか。何?価値観の多様化だって? そんな言葉で誤魔化すな、と私は言ひたい。私はそこに、あへて思想の混乱を惹起するやうな占領政策、なかんずく占領憲法の影を見るのである。(混乱をさけてまとめるやうなもの、たとへば教育勅語は国会で廃止決議といふ不当なる仕打ちを受けた。)

思想の混乱の最たるものは、憲法9条自衛隊の共存である。この矛盾を解かない限り、日本は永久に判りやすい国にはならないだらう。

判りにくい国は不健全な国、判りやすい国は健全な国である。混乱の元凶、亡国憲法を一日も早く廃止し、大日本帝国憲法を復原し、それを現代に適合するやうに改正しよう!!!!!