自然農法(わら一本の革命)#36

自然農法(わら一本の革命)#36
木庵さん
私も学生時代に臨済宗円覚寺坐禅の修行をしましたが、その中で食事は作るのも食べるのも大変重要な行持でした。私は典座をやらせて貰ったことはありません。飯代官(はんだいかん)といふ給仕役を何回かやらせて貰った程度です。食事をする前に唱える言葉が色々とあります。全部は覚えてゐませんが、

一つには己が徳行のぜんけつとはかって供(く)に応ず。
二つにはまさに良薬を事とするはぎょうこ(身体のこと)を療ぜんがためなり。
三つには仏道を成ぜんがために、まさにこの食(じき)を受くべし。

一口以断一切悪(いっくいだんいっさいあく)
ニ口以修一切善(にくいしゅいっさいぜん)
三口以度諸衆生(さんくいどしょしゅじょう)
皆供成仏道(かいぐじょうぶつどう)

こんな具合です。食事は成仏のための大切な行為であり、また儀式であるわけなんですね。やはり禅宗は貴族的、武士的な高い次元のもののやうです。
2009/5/26(火) 午後 11:48 [ koreyjp ]
[ koreyjp ]さん、禅宗は貴族的、武士的ということは宗教として洗練されているのですが、泥臭い世界に目を向ければ、違った世界も見えてくるとおもいます。洗練さを温存しつつ、泥臭い農業に目を向けるも本来の禅にあっても良いとおもいます。木庵
お馬鹿さんは、だれ
「いつも小便してゲタゲタ笑ってばかりいる子、二人で馬乗り遊びをするが、いつも下で馬にばかりなる子、うまいことだました食べ物を取り上げる利口な子と、知恵遅れの子供の中にも差がある。クラスの委員長を選ぶ前に、先生はあらかじめ、利口で他人の世話の出来る指導者とはどういう子か、こんこんと教えておいて、選挙してみたら、何べんしても小便小僧が当選した。先生はつくづく考えた末、この子供たちの世界ではそれなりの考えがあるのだろうと結論づけたという。・・・下で馬にばかりなる子供が損をしていると見るのは、損得を考える利口者の考えることである。多くのものを統率できる子を先生は偉いと見たが、この子供達は他人を拘束する、悪賢い友達としか見ていなかったのだろう。人の世話ができ利口なのが偉いと思うのは、偉いを偉いと思う大人の言うことで、この子供達には名誉も偉さも無縁である。平常何もせず寝て食って、立小便の壮快味に快哉(かいさい)を叫び、何のくったくもないものこそ最高の偉いやつと映るはずである。なにもしないやつほど偉いやつはない。小便小僧を委員長という王様に推薦したのは当然である。田舎で「器用貧乏村宝、隣の阿呆(あほう)に使われる」という言葉がある。阿呆は何もせず、隣の器用な利口者を呼んで手伝ってもらい、口でほめあげ、腹でゲタゲタ笑っているのである。・・・イソップ物語に、蛙たちが、指導者のいないのを寂しがり神様に王様を請求したら、神様は丸太ン棒を与えた。このでくの棒を馬鹿にした蛙たちが、もっと偉い王様をと申し出たら、神様は一羽の鶴をよこした。ところが鶴は蛙をつつき殺してしまったという話がある。先頭に立つ者が偉いと、あとに続くものはしんどい。馬鹿を先頭に立てておけば、後のものは楽だった。日本人は強くて、太くて、早ければ偉いと思っている。だから一国を引っぱる総理もデコイチの機関車のような人を選ぶわけである。『どんな人を総理に選べばよいかな』『でくの棒か、達磨さんより他にない』私は言った。・・・発達より収縮、膨張より凝結の時代が来ている。科学万能、経済優先の時代は去り、科学の幻想を打破する哲学の時代が到来している。なんて言いだすと、達磨さんが黙ってにらんでいるようだ。達磨さんとにらめっこするしかない。笑った方が負けである。笑いごとではない。」
<巷では他人を馬鹿にする小賢い人をよく見かける。そういう人を見ると、その人自身が賢くないように見える。でくの棒をリーダーに選ぶとその組織は無政府状態になることがある。結局構成員がしっかりしていれば上がでくの棒であろうが、達磨であろうが上手く行くものである。上を批判する前に構成員である自分の実力を検証してみる必要があるだろう。木庵>
私は保育園に行くために生まれてきた
「犬が西向きゃ尾は東、簡単明瞭な世の中でありながら、この世ぐらいむずかしい所もない。般若心経の中で、お釈迦さんは“色即是空、空即是色、物質も精神もひとつ、しかも一切は空なり、人間は生きているのでもなく、死んでいるのでもない、生ぜず滅せず、老いも病もなく、増えもせず、減りもしない”と断言している。全くやけくその言葉である。・・・人間が見た生と死の現象は、近視眼的視野からの、一時的認識でしかない。この草にとって春の生と、秋の死はどのような意味があるのであろうか。人間は生を歓びと思い、死を悲しむが、草の種子は、春、土の下で死んで芽を出し、秋、草の茎葉などは枯れてはてても、小さな子実の中に充実した生命の歓びが潜んでいる。生命の歓びは死に絶えることなく、永遠に生き続けていて、死は刻々の死でしかない。この野草に、生命の歓喜はあっても、死の悲しみはなかったと言えないか。・・・人間は日々の生を生として喜ばず、死の直前になってはじめて生に気付いて生に執着し、生への執念が、死の恐怖となってあわてふためいたりする。あるいは過ぎ去った過去や死後の生死のことばかりを気にして、今日生きていることを忘れてぼんやり一生を過ごしてしまうということである。・・・人間の世界が物と心でできていて、人間の心があらゆる物象を分別して陰陽だ、有無だ、実在だ、虚有だとしてきた。生と死、増減,老若もいわば心の所産である。物があって人間がこれを認め、心が確認してはじめて物が人間の物になったとも言える。・・・先日電車の中で、若い二人の母親がしゃべっていた。“今朝4歳の女の子に、お母さん、私がこの世に生まれてきたのは何のため?保育園へ行くため?と迫られて困りましたわよ”と。まさかそのお母さんは、そうだよ保育園へ行きなさい、と言わなかったでしょうが、それにしても人間は何のために生まれてきたのだろうか。・・・保育園に行き始めたときから、人間の憂いが始まる。人生は楽しかったのに人間は苦界を造り、苦界脱出を願って苦闘する。自然に生死(しょうじ)があって、自然は楽しい、人間社会に生死があって、人間は悲しい。」
<全く仏教の話である。それにしても何のためにこの世に生まれたのだろうか。単純に保育園にいくためとした方がわかりやすいかもしれない。植物は動物はそのような問いを発しない。ただ生を謳歌し、死に赴くだけ。それだけである。人間だけがこのようなことを考えて苦悩する。その苦悩から解放され、いつか生死を離脱したいものである。木庵>
行雲流水と科学の幻想
素粒子原子核の中を超高速度に飛び回る状況は、あたかも大宇宙を流星が飛びかう状況そっくりだという。極微の世界と思った素粒子の世界が、原子物理学者の目には大宇宙の世界であり、最大の宇宙と思った小宇宙の外に無数の大宇宙があるなどと言い出すと、天文学者の目には大宇宙はまた極微の世界になる。問題は水滴は小さく、岩は不動だと思っている人々は幸せな馬鹿で、水滴は巨大な大宇宙で、岩石は素粒子が流星のように飛びかう激動の世界であることを知った学者は利口馬鹿であるということである。麻糸を解くつもりで縺れさしたら人々は怒るだろう。科学者はこの世を解明しようとして、反対に混迷の世界にしたにすぎない。科学はものごとを完全に解明するものではないからである。月の石を持ち帰って喜んでいる科学者が、「お月様いくつ十三七つ」と月の年を数えている幼児より、より月を把握(悟る)しているのではない。名月を見て夜もすがら池畔をめぐった芭蕉は、月に対決する人間を解明することによって月を解明した。土足で月を踏みにじった科学者は,月に行って月を見失った。そして月の神秘に近づこうとする人間の意欲を失わしめるのに役立っただけである。」
つづく