自然農法(わら一本の革命)#35

自然農法(わら一本の革命)#35
自然農法の使命は何か
「自然農法というものは、もう、何千年の昔から存在し、そして、現在でも農業の源流としてあり、将来においても、やはり、農業の究極目標として残っている農法だと思います。それで結局、時の流れでいうと、原始農法に見えたり、現代農業の先駆の役目を果たしたりしてみたり、あるいは、未来を先取りした農法にもなる。まあ、ひと口にいえば、変化自在で、しかも縮小も拡大もしない、不動の一点である、と。これから外れて、右に左に、あるいは近代とか、非近代とかいったり、科学であるとか、非科学的であるとかいって、ゆれ動いている農法が科学農法ですが、自然農法というものは常に不動で、それ故に、無限の生命をもっているわけです。過去で言えば、鳥は種も播かず、田も耕さないじゃないか、それで、しかも食っていける。人間はパンのみによって生きているんじゃないというような言葉をキリストが語っている。お釈迦さんがやっていたのも、やっぱり自然農法であるし、インドのガンジーがやっていたのも、無手段の手段っていうか、達磨の無手勝流です。無抵抗の農法、それがおのずから、もう、自然農法になっていると思うわけです。老子無為自然と言った。この一言を見ても,老子が百姓であれば当然、自然農法をやっていたと思われるわけです。・・・とにかく、自然農法を人間生活の起点にして、はじめて、本当の人類の幸福、未来の展望が開かれて来ると思うんです。私は山小屋に、正食、正行,正覚という言葉を落書きしておりますが、この三つは、きりはなすことのできないものであります。どの一つが欠けても、何一つ達成できない。その一つが出来れば、全てのことが出来る。そして、この三つを達成する、その第一の出発点、誰でもできる、しかも実行可能な出発点が、自然食と、この、自然農法だと思っているわけなんです。しかしその前途は多難で、絶望的だと言えます。」
<自然農法は絶望的と福岡氏は言っている。確かに、自然農法のよさを取り入れ、福岡氏のような生き方をすることは相当の覚悟が必要である。ある意味の現代文明の否定をしていかなければならない。否定の上に否定を重ねた世界のような気がする。人間は生に対する執着がある。生きるとは欲望を満たすための活動である。その欲望の根を引き抜くという作業は誰でもできない。ドン底を味わうとか、相当の懐疑心のある人にしか到達出来ない世界である。福岡氏は「誰でもできる」と言っているのは、人間の本質として誰でも出来る素養をもっているということであって、その本質に到達することは難しい。だから到達した人を我々は聖人と呼ぶ。福岡氏もこの聖人の域に達せられた人と見る。福岡氏の言う国民皆農とは一つの理念であり実現は不可能であろう。またそれを政治的に実現しようとするなら、毛沢東の学生や反政府主義者を放農したことに通じる。福岡氏の説く自然農法とは、一つのユートピアの世界であり、本気に取り組めば、人生の究極の道を捉えることが出来るという実は現実的な世界でもある。しかもこれは政治や宗教に絡めたりするような強制的なものではない。個人の自由裁量に任された世界である。そうではあっても、福岡氏の実践は人類に大きな惠をもたらしている。現に彼の実践から得た知識が世界の砂漠化防止であるとか、世界の農業を変えているのも事実である。また日本において自然農法がどこまで普及しているか知らないが、その前段階の有機農法は相当普及しているようだ。日本人が健康な食生活、健康な生き方に興味を持ち出しているのも、福岡氏という着実に自然農法に取り組み成功したサンプルがあるおかげである。近頃のように産業が肥大化したものを全て否定して自然農法に還れなど、イソップ物語である。しかし、近頃のように若者の仕事がないとか、また定年後に欲望の人生から脱して本物の人生を探求する人がいるとすれば、退職金で過疎の農地を購入して大地に根ざした生き方をするのは、素晴らしいことである。このような道を求める人に対して、確かな生きる術のサンプルを示してくれた福岡氏は文化勲章受賞に相応しい人であると思う。木庵などは、科学技術に寄与した人、文化芸術に寄与したどのような人よりも福岡氏の方が素晴らしいと思う。そう思うのは木庵の勝手であり、この思いを他人に強制するつもりはない。ただ、木庵の思いと同調する人が多く現れることは、日本に本当の成熟した人間が出現することなんだと、傲慢にも思う次第である。木庵>
四章 緑の哲学(科学文明への挑戦)
わかるが、わかっていない
「『何んでもよい、日々の茶話を』と言われ、日ごろの百姓同士のうっぷんばらしでもできればと思い、つい引き受けてはみたが、困ったことになりそうである。というのは、元来私は、一切無用論者で、人間は、無知、無価値、無為、何も知らず、何をやっても徒労に終ると主張してきたのであるから、今さらものを言ったり、書いたりするわけにはいかない。しいて書くとすれば、書くのは無駄だということを書くしかない。因果な話である。・・・道後平野を南にのびる国道が、山間にかかったところで、川の向こうの丘の上のミカン山に、二つ、三つの山小屋がある。そこには、都会から脱出してきた青年達が集まって、原始生活をしている。電灯や、水道はない。谷の水を汲み、ロウソクの下で、玄米、菜食、一衣一椀の生活をしている。どこからか来て、何日か滞在し、いつか自由に飛び立って行く。大体自然の懐で、静かに自己を見つめたいという型の若者が多いが、農民志願兵、ヒッピー、渡り鳥、学生、学者、フランスの巡礼、玄米食アメリカ人、老若男女、千差万別である。私の役目は、山のふもとの茶屋の番人というところで、往き交う旅人にお茶を出し、また野良仕事を手伝ってもらいながら、世間話を楽しんでいるわけである。と言えば聞こえがよいが、実際はそんななま易しいものではない。私が“何もしない自然農法”を標榜しているので、寝ていて悠々自適の生活ができる理想郷と思って、来て見てビックリ。早朝からの水汲み、薪割り、泥まみれの大変な百姓仕事をみて、早々に引き上げる者もいる。・・・天文学者は、天文学的な天を知り、植物学者は葉と果実を知り、詩人は、美的緑と赤を知ったにすぎない。自分の脳裡で解釈しうる範囲内の影像を把握したに過ぎない、本当の自然そのもの、大地や空、緑や赤を知ったのではない。人間は何一つ知り得ないまま、自然を知ることが出来る、自然を活用することもできると考えているのである。・・・人間は自然を壊せても、自然を作ることはできない。子供が玩具をいじって壊すようなものである。人間の知恵は、いつも分別に出発してつくられた。したがって人知は分解された自然の近視的局部的把握でしかない。自然の全体そのものを知ることは出来ないで、不完全な自然の模倣品を造ってみて、自然が分かってきたと錯覚しているにしかすぎない。・・・天地を知るためには、天地を分けず、一体としてみるしかない。天と人との融合である。統一、合体するためには、天地に相対する人間を捨てる、自己滅却以外に方法はない。・・・『利口になるより馬鹿になれということで』と、したり顔の青年に、私はどなりつけた。・・・『自然は凝視しても分からない、ぼんやり見ていたのでは、なにもわからない。分かる、分別する、判断する、理解する、どの言葉も本当にわかる(悟る)ことではなかったということがわかるまでは、血の出るような追求が必要になろう。利口にもなれず馬鹿にもなれず、立ち往生しているのが君の姿じゃないのか』。いつの間にか、自分自身のわけの分からぬ言葉の繰り返しに腹が立ってきた。秋の日はつるべ落とし、はや老木の下には暮色が迫り、瀬戸の残照を背にして、無言で帰る若者達の影に、私も黙って従うしかなかった。」
<ようやく、福岡氏の哀愁が出てきた。本来福岡氏は老子の無為の思想の持ち主なのだろう。人生無価値としたいところであるが、生きるためには食しなければならない。そこで最小限の労働で生きていくということは、労働の中に人生の意味を見出しているのではなく、自然と溶け合う悟りの世界を追求した人なのだろう。だとすると、koreyjpさんのコメントは 一つの問題を投げかけているように思う。木庵>
農とは確かに大切なものです。大自然の神と交流する、人間の基本的な営みですね。岡先生も日本の百姓は勤勉で「自分で耕して自分で得る」喜びを知ってゐる(これを自作自受(じさじじゅ)と言ふのださうです)」と仰ってゐます。しかし福岡氏が言ってゐることは無為の喜びであって、これは老荘思想に通ずるものです。
猶、福岡氏とは逆の考へ方を道元がしてゐます。道元は、食べるものを得るための営みなんて、仏を極める仏道に比べたら最低のものだと喝破してゐます。道元は、農業も唯物論だと言ひたいのでせうか。
2009/5/25(月) 午後 11:14 [ koreyjp ]
[ koreyjp ] さん、道元は食べるものを得るための営みに集中することは駄目で、食することは重要な修行の一つであると思っていたように思います。現に、曹洞宗では典座(てんぞ)(料理をつくる係)を重要に扱っています。道元が中国に渡った時、椎茸を買いに来た老僧に、「もう遅いから舟に泊まっていけばよいではないですか」と言うと、この老僧は「日本からこられた若い方、まだ仏教の意味が分かっていないようですね。私はこの歳になってようやく典座になれたのです。私の寺では多くの修行僧が腹を減らして待っているのです」のような会話があります。ですから禅宗では食事を大事な修行と考えております。ところが農業そのものに対して道元がどう言ったかは知りません。貴族出身の道元は農業その
ものに興味がなかったのかもしれませんね。上座仏教でも僧侶は生産に従事するのでなく、信者から供されるものを食べることを良しとするところがありますから。木庵
つづく