自然農法(わら一本の革命)#16(特別編、岡潔論#3)

自然農法(わら一本の革命)#16(特別編、岡潔論#3)
<[ koreyjp ]さんが述べている「すみれの花と情緒」の話をもっと詳しく読者の人に知ってもらうために、新聞の記事を抜粋する。木庵>

岡潔の言う『情緒』とは何か。岡自身の言葉で確認したい。随筆集『風蘭』(昭和39年)に次のように記している。
<たとえば、すみれの花を見るとき、あれはスミレの花だと見るのは理性的、知的な見方です。むらさき色だと見るのは、理性の世界での感覚的な見方です。そして、それをじっさいにあると見るのは実在感として見る見方です。これらに対して、スミレの花はいいなあと見るのが情緒です。これが情緒と見る見方です。情緒と見ればすみれの花はいいなあと思います。芭蕉もほめています。漱石もほめています>
  解きほぐすなら、『情緒』こそが人間の土台であり、古来日本人は『情緒』によって理解しあい、平和で高度な文化を形成してきたというのだ。岡に即して言えば、美と調和をめざす数学の研究で何よりも大切なのは『スミレの花はいいなあ』と感じる『情緒』だった。」
 
<数学とか科学と情緒を結びつけるので、一般の人は後ずさりしてしまうところがある。そのアプローチは、木庵流に言えば、岡先生もこの新聞を書いた桑原聡氏も情緒を知的に説明しすぎていると、知性に欠ける木庵はここであえてへそ曲がりに解釈してみることにする。
  木庵流情緒解釈とは、「ただ懐かしい」と思う気持ちである。木庵が子供のときに感じた、「この人は良い人だ、側に行きたい」と思った単純な感情を情緒と考える。木庵に才能があるとすれば、子供のときから現在までの記憶を実に克明に覚えていることである。幼稚園(当時は保育園と言ったが)の入園のときに、もう一年保育の経験をしているN君が肩をいからせて歩いてきた。「なんて、保育園は怖いところなんだろう」と思った。そのようなことが幼稚園から私の脳に深く刻みこまれているのである。特に先生に対する感情ははっきり残っている。どの先生が一番懐かしかったかというと、いわゆるやり手の先生、親から信頼があるような先生に限って、木庵少年の情緒は「なつかしい」とは思えなかった。それはきっと、その教師が無理をしていることを木庵少年は見抜いていたからであろう。新しい戦後教育の理念に沿った教育をして、そのことがその先生の立身出世と関係していたのだろう。それに対して、あまり評判が良くなく、親ならこの先生に自分の子供を持って欲しくないと思われているような先生に、どこか「なつかしさ」を感じたものである。その先生は、立身出世などから置き去りにされ、力はないのだが、目が子供の方に向いているところがあったからなのだろう。ようするに、教師としての「はからい」がない人程なつかしく思ったようである。
   このような「懐かしさ」を情緒と結びつけると、教養があろうがなかろうが、裕福であろうが貧しかろうが、日本人には誰も情緒を持っていることになる。ただ自分らしさを表現している人は誰でも懐かしい人に木庵には思える。そういう意味の懐かしい人は木庵の子供時代に多くいた。ただ時代が進むにつれて、この懐かしい人が少なくなってきているように思う。その理由は何なのだろうかと、少し考えてみることにする。
  先ず女性についての「懐かしさ論」(情緒論)を書いてみる。一番懐かしく思うのは私の母であった。私の母は美人ではない。どちらかというと躁鬱の気がある、すぐに落ち込む人であった。二人姉妹の下の子供として両親に可愛がられて育ち、木庵家に嫁ぎ、あまりにも姑の意地悪に傷つきすぎたのである。この姑は世にいう鬼婆で、木庵の父の本当の母親ではない。父の母親は父が6歳のときに他界している。父の父の後妻である。木庵家の複雑なところは、またの機会に述べるとして、複雑な家に嫁いだ母は傷つきすぎた。芸術家肌の母は、母親として、主婦として、平均点以下の女性であった。ところが、木庵には懐かしく思うのである。それは、正直で善良であったからだ。嘘がないのである。悲しければ愚痴を言い、嬉しければ喜ぶ、実に単純な女性であった。普通なら父を助け、子供の模範になるような行動をとるものであるが、そのようなところが一切なかった。母親であるより子供そのものであった。そのような天然そのものの母親に懐かしさを感じたのである。今も懐かしく思う。そのような母と接してきた木庵は、近頃の女性に「懐かしさ」を感じない。それはきっと、ありのままの女性の姿を表現していないからだろう。俗っぽい言い方をすれば「カッコつけている」からである。綺麗に化粧はしていても化粧の下に品のなさが見える。まともなことを言っているようで、中身がない。きれいごとを言っているようで、本当はがめつい。上流ぶっているが、ちょっとした言動に成金の娘であることがすぐに分かる。戦後のどさくさ時代には「カッコなどつける人」などあまりいなかった。だから懐かしい人がたくさんいた。ところが経済大国となり、物質的に豊かになり、うわべの着物を多く着るようになり、着るものばかりをみせびらかし、裸の自分を隠すようになった。だから懐かしく思えないのである。この私の情緒論はきっと岡先生も支持してくれると思う。「すみれの花がいいなあ」と思うことは、私が述べた子供の単純な感情と通じるからである。数学者である岡先生は、一見数学の言葉とは対極の「情緒」という言葉を使って、日本人に日本本来の心を取り戻してほしかったのだろう。数学の最高峰に昇られても、大衆の情緒も十分理解されていたにちがいない。木庵>
  
   <次に上記と関係があるのだが、戦後の社会的な状況から「情緒喪失」の原因を、新聞の記事を参考にしながら述べることにする。木庵>

「24年に奈良女子大学の教授となり教育に携わるようになった岡は、戦後の教育が『情緒をなおざりにしていると直感し、教育を晩年のテーマに据えた。『春宵十話』(38年)の『一番心配なこと』にこうある。
<今の教育制度は進駐軍師範学校を二段とびに大学にするなどだいぶん無理をして作ったもので、よくない種子をまいたのは進駐軍だが、しかしそれをはぐくみ育てたのは日本人である。それでも原則から悪くしたのに害がこの程度ですんでいるのは、日本人が情操中心でこれまでやってきた民族だからで、欧米のように意志中心の国なら、すみずみまで原則に支配されるからもっとひどいことになっていたに違いない>
  高知市岡潔思想研究会を主催する横山賢三さん(57)は18歳のときに聞いた岡の講演会に深く感動し、40年にわたって岡の全著作といまだに活字になっていない草稿を読み込んできた。その横山さんはこう話す。『欧米の利己主義、物質主義の限界を岡先生はいち早く見抜き、『情緒』を中心に据えた人づくりをしなければ、日本と世界に未来はないと警鐘を乱打され続けたのである』・・・岡の警鐘は初めこそ興味深く受けとめられたが、高度経済成長のただ中にある日本人の心にきちんと届くことはなかった。次第に著作は売れなくなり、出版されることもなくなった。」

<木庵の大学時代、岡潔の本を読む学生はあまりいなかった。ただ父の世代の人には多く読まれていたようである。高度経済成長と反比例するかのように岡先生のことは顧みられることがなくなっていった。木庵ももうほとんど岡先生のことを忘れていたのが、[ koreyjp ]さんのコメントから思い出したというのが実情である。近頃の若者の顔を見ると高度経済成長によって誕生した顔に見える。懐かしさがないのである。体格も立派になったし、女性のプロポーションもヨーロッパ人並みになり、自己主張もしっかり出来る。しかし、何かが欠けていると思うのである。それはきっと情緒の喪失なのであろう。物中心で考えるくせがついてしまって、日本人としての心がどこにあるのかさえ分からなくなっているのであろう。ここで先ほど届いたkayomi さんのコメントを紹介し、#3を終える。木庵>
正直、日本が素晴らしい国だと思えるようになったのは最近です。
四季がはっきりしていて、その季節毎の行事もあり、景色にも慰められます。情緒は、この環境からも教えられるような気がします。こう思えるようになるまでは、外国にたいするコンプレックスがありました。インターネットの発展は、世界を身近にしてくれました。世界の国を知って、日本のよさがわかったように思います。
2009/4/28(火) 午後 4:23
つづく