自然農法(わら一本の革命)#14(特別編、岡潔論#1)

自然農法(わら一本の革命)#14(特別編、岡潔論#1)
木庵さん
仰るやうに、本物の男はごく少数ですが、確かにゐて、野に隠れてゐます。しかしさういふ男が、やがてまた頭角を現すときが来るでせう。
さきほど、産経新聞で2回に分けて、岡潔特集を組みました。大変良いできだったので、それを木庵さんにお送りしました。あと1週間ほどで着くでせう。その記事から引用します。「(昭和)40年に刊行された随筆集『春風夏雨』に収められた「六十年後の日本」で岡はこんな予言をしてゐる。
<<六十年後には日本に極寒の季節が訪れることは、今となっては避けられないであらう。教育はそれに備へて、歳寒(さいかん)にして顕れるといはれてゐる松柏(せうはく)のやうな人を育てるのを主眼にしなくてはならないだらう>> (原文現代仮名遣ひ)」

つまり、松や柏は寒さに強いので、それに例へて、道徳的に堕落しきった社会でも、それに染まらず、黙々と日本民族のために働く男女を育てなければいけない。それはきっと、男らしい男、女らしい女なのだと思ひます。
2009/4/23(木) 午前 2:24 [ koreyjp ]
< [ koreyjp ]さんが約束された産経新聞の記事(4月12日、19日)が送られてきた。丁寧に手書きで、次のようなコメントも添えられていた。「やはり、これからの日本、そして世界も、岡先生一本でいかなければ駄目な様子になってきました」と。岡先生の講演を木庵は一度聴いている。木庵が岡潔の存在を知ったのは確か高校生の時だったと思う。父が岡先生の著作を読み、木庵に読めと推薦した。その本の名前は、『春宵十話』であったと思う。高校生の木庵には程度の高い内容であり、今考えると読んだのか読まなかったのかはっきり記憶にない。おそらく大学生になってから少しは読んだのだろうが、断片的に父の言ったことが今になって思いだす。「数学は情緒であると岡潔は言っている」、「岡潔は数学の問題を解きだすと、周囲から完全に遮断された世界に突入する。そのとき、まさしく周囲から全くの奇人と映る」、「普段からゴム靴を愛用し、服装に一切気をかけない岡潔が、はたして文化勲章授章式に革靴を履いていくのであろうか」。
   新聞の記事には、「昭和35年11月3日、皇居で行われる文化勲章親授式にのぞむ岡潔。後ろは妻のみちさん」という説明書きとともに写真が載っている。燕尾服に、間違いなく革靴を履いている凛々しい岡先生と奥深さが漂っている奥さんの姿の写真である。顔の表情をみると緊張はなされているが、どことなくひょうきんな先生の人柄が出ている。「先生、文化勲章おめでとうございます」と声をかけると、こちらをふりむいて、『ありがとう』と返ってきそうな表情である。もう一枚の写真、若い頃の写真が満面の笑いをうかべているのがあるので、神妙な親授式の顔のそこに、快活な先生の人間性が隠されているのが理解できる。また先生が育った南海高野線紀見峠駅からのぞむ桜が集落をほんのり染めている景色(写真)が岡潔少年の情緒を育てたと思うから、なお神妙な顔にどこか懐かしさを感じるのである。
  本来なら岡潔の本を読んで、その書評を書けばよいのであるが、ここから新聞の記事を基にして、曲りなりの岡潔論を展開する。大数学者、大文化人をこの新聞の記事だけで料理するなんて無茶なことは承知している。記事の中で、九州大学准教授高瀬正仁氏の岡への業績の説明に、「・・真に優れた数学者にとっては、無から問題を造形することが生涯をかけるテーマだという。岡は造形に挑み成功した世界でも数少ない数学者のひとりなのだ」というところがある。へりくつだが、木庵は、岡をほとんど『無』に等しい情報の中から、彼の人間性、思想に挑戦してみる。これから述べることは記事から派生させることであり、前後一貫性がないことを先に述べておく。いつものことだが、今の段階でどう岡潔論が展開するか無の状態である。[ koreyjp ]さんや読者の皆さんの参加を期待する。<
  「『春宵(しゅんしょう)十話』は昭和35年に文化勲章を受けてその名を一般的に知られるようになった数学者岡潔が、37年4月から毎日新聞に連載した随筆を中心にまとめたものである。掉尾(ちょうび)を飾る『自然に従う』に印象的な一節がある。<情緒の中心の調和がそこなわえると人の心は腐敗する。社会も文化もあっという間にとめどもなく悪くなってしまう」」
<情緒とはどういうものなのだろうか。木庵流に解釈するなら、「情緒とは子供のときに感じた、自分の周辺のものに対する懐かしさ」である。情緒を情緒として感じるためには、岡潔が育ったような美しい自然に囲まれた、暖かい人間関係が構築されている環境が必要である。人々が信頼しあい、相手の立場にたって考えたり行動が出来る余裕がなければ情緒は育たない。本来人間には情緒を感じる素養が具わっている。自然に逆らうことなく、自然の暖かさに抱かれるとき情緒が一番際立って表現される。それに対して、自然条件が厳しすぎたり、たとえ自然が優しくても、人間関係が信頼関係ではなく敵対関係になっているとき、この情緒は崩れてしまう。岡は「春宵(しゅんしょう)十話」に書いている。『僕はね、世界も日本民族もね、ほろびなければいいがと思っているんですよ。こんど東京へ行ってよけいはっきりわかったんですが、何もかもあまりめちゃくちゃなんです。敗戦の結果、いちばん痛手を受けたのは人の心です。心がすさんだのですね。こんなすさんだ心の畑には、科学の種子なんかまいても育つわけがありません。戦後のさまざまな施策が日本人の情緒を濁らせている。岡は長女、鯨岡すがね(76)に語っている。『新憲法は、利己主義のどこが悪いのかって大見えを切ったような代物だ。フランス革命には自由と平等、それに博愛があった。でも新憲法には自由と平等しかないって。教育をテーマにした講演会でまず育てるべきは情緒であると訴えても、理解はされるが何もアクションが起きないんだ』と。戦後生まれ、戦後育ちの木庵の周りにはまだ情緒の世界があった。それは木庵が田舎で育ったからであろう。田舎にはまだ戦争に敗れたとはいえ、日本人の心を芯から腐らせていない戦前のよさが残っていたためだろう。木庵にとって情緒を一番感じたのは、母方の里に行った時である。木庵の家は戦後貧しく、貧しさの故なのだろうか、両親は仲が悪かった。元々両親は善良な人で、その善良なところから情緒を受け取ることができたが、それ以上に母方の人々にはより情緒を感じたものである。母の姉が養子をとった家であるが、木庵の家より裕福で、どうもこの家系には人と争うということがないようである。義理の伯父といえばよいのであろうか、教育者の伯父がニコニコしながらパンツいっちょうになり、お腹をつきだして歩いている姿を、子供心に大人のおおらかさと感じたものである。また母の姉に当たる伯母の慈しみ深い表情を今も忘れることが出来ない。ところが彼等の長男、私とは親子ほどの歳が離れている陸士60期(陸士最後)の従兄弟には、どこか違和感を感じた。それが何であったのか、今では理解できる。敗戦を期に、戦中のエリートである従兄弟の心がすさんでいたためなのである。ところで母の里は、名前は覚えていないのだが、奈良か平安時代の皇后の墓を管理する家柄である。戦前、戦中では誉ある家ということができる。戦後も高松宮様がこの御陵を参拝されたとき伯父の先導する姿が神戸新聞に掲載された。そのネガを従兄弟が神戸新聞に申し出て現像したのが何枚か伯父の家に飾ってあったが、高松の宮が、『戦後になっても、皇室のことをそこまで思ってくれているのか』という風な表情で伯父の方を向いている写真がある。木庵にとって伯父は戦前の情緒そのものと感じることが出来た。ところがその情緒の崩れを従兄弟に感じた(従兄弟は40年前40歳という若さで死んだ)。岡が述べているように敗戦がいかに日本人の心を無茶苦茶にしたかを木庵の感性(?)が感じとっているのである。木庵には戦前の人間のよさを見る覗き穴がまだあるのである。だから岡がいう情緒という意味が何とか理解出来るのである。たとえ戦後の人間がどんどん心がすさんでいこうとも、伯父や伯母の情緒が木庵の心の中の源泉として確かにあるのである。この源泉は、岡の述べる情緒ではないだろうか。情緒があれば心が和む。木庵はどちらかというと数学が得意である。もちろん、岡とは比べるほどのものではないが。例えば灘中の難しい問題を難なく解いてしまうようなところがある。そのような難問に突き当たったとき、心を無にして情緒の世界にはいると情緒が問題を解いてくれるようなことがあった。またいまブログで文章を書いているが、情緒に触れたときいつの間にか情緒に触れた(???)文章になっているなと、傲慢にも思うことがある。木庵>
つづく