自然農法(わら一本の革命)#12

自然農法(わら一本の革命)#12
木庵さん
アメリカの宇宙飛行士が初めて月に着陸したとき、岡先生は感想を訊かれて、「そんなことはやるもんじゃない」と語気を強めて言ってをられました。つまり、空間を無闇に移動することは、仏教でいふ「迷い」になると言ひたかったやうです。それから、人間と神とは一つの心でつながってゐるのですが、その神からの声は、ささやきのやうにか細いものなので、人の心が何か他のことに奪はれてゐると、聴こえないことがあります。福岡さんは、なんとなく神の声に従ったのでせうね。
2009/4/24(金) 午前 2:08 [ koreyjp ]
<「空間を無闇に移動することは、仏教でいふ『迷い』」ですか。ということは科学は仏教では『迷い』になりますね。科学とは所詮自然を分割して見る、分析作業ということで、自然そのものを知ることではないですね。福山氏は科学をどう見ているでしょうか。自然をどう見ているのでしょうか。木庵>  
人間は自然を知っているのではない

「私は、近頃つくづく思うんですが、この場所にたって、この一枚の田圃をながめるのは、分科した専門の科学者だけの頭ではだめだ。本当は、科学者と哲学者と宗教者の三者は、もちろん、あらゆる畑の人、政治家も芸術家も含めて、ここに集まって、ここで評議して、果たしてこれがいいのか、という結論を出すところまでいかなきゃいけないと思います。・・・私は、私の所へ手伝いに来て、山小屋で自然農法を学んでいる青年たちによく話すんですが、誰でも緑の山の木を見ている。朝に晩に、いつも自然というものに接して、その中に住んでいるように思っている。ところが、人間は自然を知っているのではないんだ。そして、この“自然を知っているのではない”ということを知ることが、自然に接近する第一歩である。自然を知っていると思ったときには、自然から遠ざかったものになってしまう、と。・・・何故、自然というものを知ることができないか。自分たちが知っている自然とは何かといえば、自然そのものの本体を知っているのではなくて、自分の頭で勝手に解釈した自然というものを、自然と思っているに過ぎないんだ。・・・むしろ、本当のものを見てるのは、赤ん坊とか子供なんです。何も考えないで見ている。子どもの目はストレートに澄み切っているから、ストレートに緑を見ていて、緑は緑だという感じしかない。・・・一つの立場から見たものは、本物でないということを各自が知り合わないと、本当の、一つの話にはならない、と私は思います。・・・『先生、先生はクモの研究をしているから天敵の中でもクモだけを捕まえているのでしょうが、それでは、実はだめなんです。今年は、クモが大発生したけれど、先年は、ツチガエルが発生した。その前は、何がよく発生したかというと雨カエルだった。こういう差があるんですよ』と。その年、その時期によって、何が役立っているかということは、実は、部分的な研究や、把握では、つかまえられないと思います。クモが発生したから、ウンカが少なくなったという場合もある。あるいは、雨が多くて雨ガエルが発生したために、クモがいなかったという場合もある。あるいは、逆に、雨がなくて、旱魃になって、田圃の水がなかった。そのために、セジロウンカが発生しなかったということもあるんです。私は、ウンかの防除にわざわざ薬剤かけて労力かけてやるよりも、反対に、田圃を干し続けて、水を入れない、あるいは、腐った水を掛けないということの方が、どんなにか大きな効果があるか分からない、というふうな実験をずいぶんやてきている。田圃の水を、入れる入れないということと、虫の関係などが無視さえた病虫害の防除対策というものは、実は、無駄なんです、ウンカとクモとの研究という立場からの研究も、実を言うと、クモとカエルとの関係というようなものを、にらみながらの研究でなきゃいけないんですよ。こういうことになってくると、カエルを研究している先生も、ここへ来なきゃいけない。クモの研究をしている人も来なきゃいけない、生物の先生も、水と稲との研究をしている先生も、ここへ集まってこなきゃいけないんだ、さらに言えば、クモなんかでも、この田圃には4種類も5種類もいる。その中での、あるクモなんかは、まるで飛行機のようにクモの糸に乗って、飛散していくやつがある。これは、年によると、稲株を刈った翌朝なんかに行ってみますと、前日までは何ともなかったのに、一晩のうちにですね、もう、絹糸は張ったように、クモの巣が一面に張られている。そしてそれが朝露にくっついて、きらきら光りながらゆれていて、まことに見事な情景を呈しているようなことがあるんです。近所の人が、福岡さんの田圃は、遠方から見ると絹の網を張ったように見えるが、あれは何を張ったんですか、と言うから、いや、別に、かすみ網を張ったということもないんだが、何だろうといって、とんで行って見たことがあるんです。それほど見事に張ることがあるんです、それが一日、二日のことで、それだけ変わってしまうのだから驚異です。よく観察してみると、もう一平方センチに1匹か2匹はいるんですよ。それはもう、びっしりとすきまのないほどです。一反の田に何万なんて数字ではない、幾百万、幾千万ということがある。そしてまた、それが、2,3日して、行ってみると、特に風のふく日なんかには、2,3尺から数メートルほどの絹の糸が、風にのって、サーッと飛んでいる。いったい何が飛んでいるのかとよく見ると、クモの巣の糸が切れて、風に飛んでいて、それに5〜6匹のクモがぶらさがっているんです。ちょうど、松の実やタンポポが、風にのって飛んでいくあんな状態です。クモの糸を、飛行機代わりにして、それにすがって、クモの子が遠方まで飛行していくわけです。その情景というものは、全く、すこいというか、自然の大きなドラマなんですね。そんなものを見ますと、これはもう、芸術の世界というのでしょうか、そこにはやっぱり詩人とか芸術家も参加していなきゃいけないんです。そうしてこそはじめて、自然というものは、どういう営みをしているのか、どういうドラマが行われているのか、ということもわかってくる。田圃の中に、薬をかけたら、そういうものは一ぺんに死滅します。おどろいたことには、そのクモなんかもですが、私が一度、かまどの灰をふるくらいならさしつかえないだろうと思って、かまどの灰をふったことがあるんです。そうすると、一ペンに絶滅してしまった。クモの糸が切れてしまうわけです。切れてしまって、2,3日していってみると、クモがいなくなってしまっている。あの全く無害だと思われるような、かまどの灰でさえも、それを一握りふることが、何万匹のクモを殺傷することになる。そして、そのクモの巣は、無残に破られてしまう。灰でさえもそれだけの破壊をしているわけなんですね。そういうことから言いますと、一つの農薬をふるというようなことが、たんに、害虫であるウンカを殺し、天敵であるクモを殺すということだけでなくて、どんなに、自然の中で行われているドラマを破壊するかということに、気がつかなきゃいけないんです。」

<自然のドラマは不思議なものである。本来日本の田畑では、クモのような自然のドラマが展開していたのに、農薬や化学肥料によって、自然の名役者が登場しなくなってしまったのだろう。木庵も今のアパートに移る前、引越しごとに開墾して野菜を作った。一軒家に移ってからは果物も植えた。その経験では虫害の被害をほとんど受けなかった。ところが、今住んでいるアパートで畑を作ってから7年目になるが、昨年ナメクジ、カタツムリ、団子虫によって、きゅうり、トマト、茄子がほとんど全滅した。今年はある程度野菜作りを諦め、果物を中心に、果物の間に少数精鋭の野菜を育てようと思っている。今のところ、トマトを5本植えたが、一本が完全に食べられて後の4本は何とか健在である。きゅうりや茄の苗は虫にやられないように、台の上で育てている。ある程度生長すれば、じかに土に植えかえようと思っている。果物は調子が良い。今年は金柑がたわわに実った。蜂蜜漬けにした。おそらく1ヶ月以内に台湾バナナが収穫できるであろう。店で買うバナナとは味が全然違う。スモモも小さい実をたくさんならしている。イチジクも数個見つけた。柿は今年は当たり年かもしれない。昨年は20個ほどしか出来なかったので、今年は期待している。枇杷は一個もならなかった。昨年多くの実がなりすぎたためだろう。薩摩ミカンも花を咲かせている。昨年は2個梅をならせたが、今年は全くだめである。一本だけでは実がなりにくいと聞いて2本に増やしたのに、一個も実をならしていない。最初の一本は植えてから6年たつ、待ち遠しい。昨年の秋に植えたザボンが若葉をつけていたと思っていたが葉っぱを全部食べられているのが昨日分かった。生き返ってくれるのだろうか。木庵の家庭菜園は自然農法というより放任農法である。水は毎日しっかりやっている。福山氏ほど徹底しないけど、畑から自然の何かがつかめるとよいと思っている。それより季節の野菜や果物を賞味でき、畑の緑によって夏場は涼しい。それだけでも幸せなことである。木庵>
つづく