自然農法(わら一本の革命)#11(特別編、女傑と安上がり人生の醍醐味 #6)

自然農法(わら一本の革命)#11(特別編、女傑と安上がり人生の醍醐味 #6)
<ありがたいコメントを頂いた。それも。女性と男性からである。まさしく大和なでしこと大和おのこの代表である。木庵>
私の感じていることが全部書かれていました。
未熟者で、言葉が見つかりませんが、「我々の本来持っている感性は
自然から離れる事によって鈍くなっている」事、真実だと思います。
2009/4/23(木) 午前 1:36

木庵さん
仰るやうに、本物の男はごく少数ですが、確かにゐて、野に隠れてゐます。しかしさういふ男が、やがてまた頭角を現すときが来るでせう。
さきほど、産経新聞で2回に分けて、岡潔特集を組みました。大変良いできだったので、それを木庵さんにお送りしました。あと1週間ほどで着くでせう。その記事から引用します。「(昭和)40年に刊行された随筆集『春風夏雨』に収められた「六十年後の日本」で岡はこんな予言をしてゐる。
<<六十年後には日本に極寒の季節が訪れることは、今となっては避けられないであらう。教育はそれに備へて、歳寒(さいかん)にして顕れるといはれてゐる松柏(せうはく)のやうな人を育てるのを主眼にしなくてはならないだらう>> (原文現代仮名遣ひ)」

つまり、松や柏は寒さに強いので、それに例へて、道徳的に堕落しきった社会でも、それに染まらず、黙々と日本民族のために働く男女を育てなければいけない。それはきっと、男らしい男、女らしい女なのだと思ひます。               
2009/4/23(木) 午前 2:24[ koreyjp ]
<kayomiさん、言葉など見つからなくてもよいと思います。感性は感性ですから。でも、貴女の詩のなかにいっぱい感性が入っていますよ。
[ koreyjp ]さん、岡潔先生は今の時代を予言していましたか。道徳的に堕落した時代でも、それに染まらず、男らしく、女らしく生きている、野に隠れている人がいるのですね。とても心強いコメントに嬉しくなりました。日本も棄てたものではないですね。このようなやり取りをすることが私のブログの目的です。私も信じます。若い世代に本物の日本人がまた現れることを。そのためには我々が濁流にのまれることなく、脚下照顧の自然な生き方をすることが必要だと思います。木庵>
福岡氏の自然農法に戻る
「自然は、人間がほんのちょっとした知恵を加える、ちょとしたハサミを加える、ちょっとして技術を加えたときに、とたんに狂ってしまう。その木の全体が狂ってしまう。取り返しのつかない狂いを生じてしまう。・・・科学者にしたって、そうですね。偉くなろうと思って、夜も昼も一生懸命本を読んで勉強して、近眼になって、いったい何のために勉強するんだといえば、偉くなって良いメガネを発明して有頂天になっている、これが科学者の実体だと思います。もう少し具体的に言うなら、ロケットをこしらえて、月の世界へ行くようになって、人間はえらいことをやったと喜んでいるけれども、そのロケットを何のために使うかというと、ロケットを打ち上げる燃料が足らんから、ウランを取りに行くんだ、という。ウランを持って帰って、ロケットを打ち上げる。そして打ち上げるロケットには、原子炉の火が出来た、ウランを燃やして出来た廃棄物の死の灰を、地球では捨てる場所がないから、結局、コンクリートづめにして宇宙の外まで発射するのだ、と石原さんが言っておりました。あのメガネの話と寸分ちがわないことが起こっている。いくら、偉い科学者だ、教育者だ、芸術家だといっても、結局、究極の原点から見直しえみると、人間は何をやったわけでもないんだ、ということです。それをこの一株の稲や麦が、そして、ミカンが証明してくれたんです。人間の知恵というものは明らかに否定してくれたんです。」

<自然を究極的に追求した福岡氏ならではのコメントである。以前湯川秀樹博士の講演を聴いたことがある。湯川氏の晩年は科学を離れ、哲学や人生論のような著述を多く書かれた。しかし、自然ということに関して、福岡氏ほどの追及があったのだろうか。ノーベル賞をとり、世間的に尊敬される偉大な人に間違いないのだが、講演での彼から受けた感じとしては、自然的ではなかった。どのような科学者、教育者、芸術家も命を保つため、永らえるため食事をする。その食事は大地からの惠である。自然からの惠である。我々人間は自然を造ることなどできない。自然からの惠を頂いている、それは原始の時代から何等変わっていない。ただ自然の表面的なところを改造して、自然を変えたと傲慢に思っているだけで、その改造が結局、人間に害を与えていることを理解していない。自然の恵みに感謝し、自然そのものの力を引き出す農業、そしてこの農業から、福岡氏は人類に貴いメッセージを残しているのである。人間のあらゆる知恵を否定し、だれもが求めたところと逆の道を歩んだがゆえの、思わぬ自然からのご褒美を福岡氏はもらったように思う。木庵>

自然農法が何故普及しないのか

「私は、小さな村の中ではありますが、7、8反の、あらゆる条件の違った田圃で、米作り、麦作りを20年、30年とやってきて、普遍性があるか、ないか、ということに関して、最重点において試験してきたつもりです。部分的にだけ、あるいは局部的な場所で適用できる手段を開発しようとしてやってきたわけではありません。あらゆるところで実施できる、普遍性をもった手段でなければ、実際の農業技術とはいえないと思っております。現在、各地の試験場で試験してみて、この農法でお米が田植え以下の収量になった、一般にやっている高うねの麦作りよりも収穫が低いという成績が出ている県はほとんどない、現在のところは、そういった各方面からの資料に基づく限り、何の不安材料もないんです。ではなぜ、これほどはっきりした、歴然とした事実が、一般に普及しないのか、ということになってきます。それは、結局のところ、今の世の中というものが、あらゆる点で専門化され、高度化されてきたために、かえって全体的な把握ということが非常にむずかしくなった、という点にあると思います。・・・農家というものは、科学否定というところまではもちろんいかなくて、折衷したようなところでいこうとする。・・・ゆるやかな一歩だけれども、本当の農業の源流に還ろうとする気配はある。とはいえ、すぐ二歩、そこから離れるという結果も見えている。そういうことをくり返していきますと、世の中は本当にどちらを向いて進んでいるのか分からなくなってくる。結果的にみたら、やっぱり一歩も自然農法に近づいているのではなくて、むしろ、やっぱり離反しているのではないかと思えてならないんです。」

<結局自然に還るというのは徹底しなければ分からないだろう。二股をかけていては分からない。別に自然農法だけでなく、ある世界を極めるということは、わき目も振らずに一つに集中することである。その極めつくした結果それが普遍性へとつながるのだろう。福岡氏は下手をするとただの変人に終るところだった。ところが自然とは何かを徹底的に研究した結果、人の手をいれないこと、人間の知恵を排除しつくした結果自然の力が見えてきたのであろう。神というものがいるとすれば、福岡氏のような常識を否定し、ある意味で人生も否定した、人間の世界では変人と映るような人にこそ神の意思、自然の意思が伝えられているように思う。それが[ koreyjp ]氏の言う、「野に隠れてゐます。しかしさういふ男が、やがてまた頭角を現す」ことになるのだろう。野に隠れているのは、世間の常識に即していないからである。神の意思に従おうとして、世俗的な意味で損をする人生を歩んでいるからである。福岡氏が山に籠り、自然農法を開発しようとしたときに、彼の農法が今ほど注目されるとは想像さえしていなかっただろう。ただ、「こうしなさい」という神の声を聞いたのかもしれない。木庵>
つづく