自然農法(わら一本の革命)#10

自然農法(わら一本の革命)#10
  女性論。今のところこれ以上のことが浮かんでこないので、自然農法にもどる。ただし、読者の皆さんから女性論に反応があれば、続きをおこなう。

「それからの35年、私はもう、全くのただの百姓で、現在まできたわけなんです。その間、一冊の本を読むわけでもなし、外へ出て人と交際するでもない、ある意味で言いますと、まるっきり時代おくれの人間になってしまいました。だが、その35年の間に、私はただひとすじに、なにもしない農法を目ざした。ああしなくてもいいのじゃないか、こうしなくてもいいのじゃないか、という考え方、これを米麦作りとミカン作りに徹底的に応用した。普通の考え方ですと、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか、といって、ありったけの技術を寄せ集めた農法こそ、近代農法であり、最高の農法だと思っているのですが、それでは忙しくなるばかりでしょう。私は、それとは逆なんです。普通行われている農業技術を一つ一つ否定していく。一つ一つ削っていって、本当にやらなきゃいけないものは、どれだけか、という方向でやっていけば、百姓も楽になるだろうと、楽農、惰農を目ざしてきました。結局、田を鋤く必要はなかったんだと、堆肥をやる必要も、科学肥料もやる必要も、農薬もやる必要もなかったんだ、という結論になったわけです。・・・人間が、医者が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病弱になる環境を作りだして¥いるかれ必要に名手来るだけのことであた、病気のない人間にとっては、医学も医者も必要でない、というのと同じことです。健全な稲を作る、肥料がいらないような健全な、しかも肥沃な土を作る、田を鋤かなくても、自然に土が肥えるような方法さえとっておけば、そういうものは必要でなかったんです。あらゆる、一切のことが必要でないというような条件を作る農法、こういう農法を、私はずっと追及しつづけてきたわけです。そして、この30年かって、やっと、何もしないで作る米作り、麦作りができて、しかも、収量が、一般の科学農法に比べて、少しも遜色がない、というところまできた。ということは、人間の知恵の否定です。それが、今こそ実証できたということになる、これはもう一事が万事であって、他のあらゆることにも適用できるはずなんです。・・・教育ということに関して、私はこういうことを感じていました。終戦前に一度ミカン山へはいって、自然農法を標榜したときに、私は剪定ということをやって、放任した。私ははじめ、『放任』ということと、『自然』ということを、ごっちゃにしていたんですね。ところが、枝は混乱する、病害虫にはやられるで、70アールばかりのミカン山を無茶苦茶にしてしまった。・・・自然型とはこれだな、という確信を持てるようになった。自然型というものを作るようになってくると、病虫害の防除も必要なくなって、農薬がいらなくなった。剪定というような技術も必要なくなった。自然というものが分かれば、人間の知恵なんて必要ないんです・・・いわゆる放任状態にしておくから、教育しなきゃならなくなってくるとも言える。自然だったら、教育は無用なんです。たとえば、子供に音楽を教えることだって、不自然で、不必要なんです。子供の耳は、ちゃんと音楽をキャッチしている。川のせせらぎを聞いても、水車のまわっている音を聞いても、森のそよぎの音を聞いたって、それが音楽なんです。本当の音楽なんです、ところが、いろんな雑音を入れておいて、耳を混乱させておいて、つまり、間違った道に子どもを導いて、子どもの純なる音感を堕落させてしまう。これでは不自然な状態、いわゆる放任状態になってくる。そして不自然な状態において放任しておくと、もう小鳥の声を聞いても、風の音を聞いても、それが歌にならないような頭になってしまう。」

<最後のセンテンス「不自然な状態、いわゆる放任状態になってくる。そして不自然な状態において放任しておくと、もう小鳥の声を聞いても、風の音を聞いても、それが歌にならないような頭になってしまう」は、意味深長である。
木庵も福岡氏と競って、木庵流自然論を展開することとする。この地球上で自然に歯向っているのは人間だけである。ありのままの自然では、自然の思いのままに料理されてしまう。だから、人間は自然を人工というプロセスを通して、改造していったのである。それは創造的であり傲慢であった。ところがいつしか人間の力を過大評価して自然を征服したと思い込んでしまった。そしてその結果今自然からしっぺ返しを食らっている。人間は多くの病原菌を発見し、それを退治する薬を開発した。それによって、自然から淘汰されるはずの人間の命を永らえさせることが出来るようになった。これは科学の勝利である。ところが薬によって本来人間に味方する微生物も殺してしまい。自然治癒力を減退することになった。薬は即効性はあるが副作用を伴うものである。薬は本来毒であるので、薬漬けとは毒漬けに他ならない。以前読んだ本に、「癌とは現代病である」というようなことが書いてあった。江戸時代、それほど癌で死ぬ人はなかったという。だれでも癌細胞は持っていて免疫機能が正常なら癌細胞が増殖することはないという。精神的ストレスや薬漬け、汚染された環境の中で免疫性が損なわれ、癌になるのであろう。つまり福岡氏の言う自然の状態に人間の体を維持すれば癌や病気にならないということになる。
  我々の本来もっている感性は自然から離れることによって鈍くなっている。福岡氏は「35年間、外へ出て人と交際するでもなくまるっきり時代おくれの人間であった」と書いている。木庵は福岡氏ほどでもないが、大学卒業してから一年間仕事につかず、完全に世間から途絶えた生活をしたことがある。新聞、本は読まず、テレビは観ない。この経験は貴重であった。自分が本来持っている本能に戻ったように思った。その後仕事についているが、この一年間の世間から断絶した習慣は今だに持続している。つまり、世間とのつながりとつながらないことを使い分けているのである。家に帰れば仕事のことを一切忘れ、自分に閉じこもるのである。休みは絶好の自己に戻る機会であった。そのような生活を送っていると、私の周りの人間が不自然に見えてくる。常識とか社会的通念に縛られて自然ではない。それがすぐに分かるのである。それに子供は自然であるが成長するにつれて不自然になるのが分かる。犬や猫はもちろん自然的であるが、木庵が自然的になっているかの検証に犬猫とのコミニケーションを試みた。犬は簡単だが猫が難しい。余り表情をださないからである。ところが猫と付き合うようになって、猫ともコミニケーションが出来るようになってきた。犬猫とのコミニケーションの試みはアメリカに来てからであるが。
   ここまで書いたところで、ブログをみると、kayomiさんからコメントが届いていた。
こんばんわ。未熟なコメントを取り上げて頂いてよろしいのでしょうか〜^^
確かに、男性が女性化し、女性が男性化しているように外見は見えます。それでも、傾いたとしても、そのものには慣れませんし、中途半端です。記事にありますように、男性としての逞しさ、毅然さ、潔さ、それに肉体の力強さがあれば、女性は母の様な暖かさで安らげてあげたいと思うでしょうね。
私は、いつもニコニコ笑っている事を求められました。そういうことを女性に求める男性は、女性は男性を支えるべきという観念があるのか、または、そういう家庭で育ち、それが当然な事なのかもしれませんね。逞しさ潔さを備えた男性は、私の父親の世代までのような気がします。私は父が理想の男でした。
2009/4/22(水) 午後 10:41
< Kayomiさんも認めているように、「逞しさ潔さを備えた男性は、彼女の父親の世代まで」になる。近頃の政治家の様子を見ると、逞しさ潔さがない。つまり自然というものが分かっていないのである。日本社会のエリートの階段を上り詰め、自然つまり戦後の通念常識から外れる経験をしていないのである。もし、そのような経験をしておれば選挙で当選などできない。選挙民の機嫌をとらなければ国会議員などなれない。今、日本で本物の人間は表にでていない、福岡氏のように野に隠れている人であろう。ところが男という者は、世間で戦って上昇しようとする性格が本能としてある。野に隠れている人間はこの上昇気流に乗れなかった僻み者という側面がある。ということは、逞しさ、毅然さ、潔さ、それに肉体の力強さを持っている、野に隠れている本物の男はごく少数ということになる。木庵>
つづく