自然農法(わら一本の革命)#9(特別編、女傑と安上がり人生の醍醐味 #5)

自然農法(わら一本の革命)#9(特別編、女傑と安上がり人生の醍醐味 #5)
   「女傑と安上がり人生の醍醐味」のまとめを書かなければならない。ちかごろ私のブログを訪問して、コメントも書いてくださっているkayomi さんという方がおられる。彼女は子育てを終えたというより、もう成人した子供さんととてもよい関係を継続されておられる。彼女自身もアルハンドラと共通点を持っていると書かれている。そこで、まず彼女とのやり取りを紹介し、女性問題、母親問題について何か文化論のようなものを書いてみようと思う。それに自然農法というトピックスが、「安上がり人生の醍醐味」に派生したのであるから、自然農法とは直接結び付けられないであろうがどこか自然的に生きるということと結びつけられればつけてみようと思う。実は今のところどのようなことを書くかはっきりと浮かんでこないのである。いつもコメントを下さる[ koreyjp ]さん、kayomiさん、それに読者のみなさん、アプローチください。最初は私が書きますが、後は共同作業で何か文化論ができればよいと思います。ところでkayomiさんのブログアドレスは次の通りです。
    この記事のURL: http://blogs.yahoo.co.jp/kayomi19521201/27010874.html
    
写真、可愛すぎて笑ってしまいました。ワンちゃんは、教え込まれたのでしょうか.(笑)
アメリカ映画に出てくる女性は、男性と同等に働いて、だからといって男っぽいのではなく、やはり女っぽいですよね。
今は日本も随分変わってきましたが、やはり、女性だからという理由で、女性のほうが甘えている部分もあるような気がします。
アルハンドラさんのように逞しく生きている女性って、ステキです。
2009/4/20(月) 午後 3:52
kayomiさん、この写真は以前にも使ったものです。kayomiさんのために載せたものです。昨日可愛い猫とカナリヤの写真が友達からメールで送られてきましたが、システムが違う場合はブログに掲載できません。貴女の後半のコメントはこの後のアルハンドラさんの生き方を通してのアメリカ文化論で採用させてもらいます。宜しいでしょう。木庵
2009/4/20(月) 午後 11:25[ takaonaitousa ]
いつもほんとうに引き込まれて読んでしまいます。
アルハンドラさんのあきらめない精神力とそれをじっと見守る木庵先生、その関係が感動です。お二人とも、根っこの部分で楽しんでおられるのを感じました。それに、アルハンドラさんに、自分と似ているところを感じました。修理は、構造を知ることでもありますよね?
アルハンドラさんほどの修理は全くできませんが、自分のスバルの小さい小さい軽自動車を大切にしています。苦労を共に越えてきた大切な友人のように思っています。自分で修理できる所は、お金をかけないで自分で修理します。自転車も全部します。近所の主婦達は、修理屋さんに持っていけば〜と言いますけど、だって、楽しいですからね。少しのお金を出せば済むことですけど、楽しさは買えませんから。女性がする事では無いという意識がある女性が多いと思います、
日本では。私は、もったいないなぁ、おもしろいのにと思う方なんです。ですから、このお話、とても気持ちよく読ませてもらいました。ありがとうございました、次回楽しみにしています。
2009/4/21(火) 午後 0:12
ayamiさん、アルハンドラは諦めない精神力をもっています。よく考えるのですね。この精神力は彼女をきっと幸せにするとおもいます。まず、彼女の精神力が子供を立派に育てております。長男は今年高校を卒業ですが、テクニカルカレッジの方から誘いがあります。それに陸軍にいくことも考えられます。貧しい家庭で育っても優秀な生徒には陸軍が大学で勉強させてくれるようなものがあるのだそうです。このあと、まとめを書きますが、貴女のコメントを参考にさせてもらいます。木庵
2009/4/21(火) 午後 0:57[ takaonaitousa ]
    カナリヤと子猫の写真は掲載に成功できなかった。残念でした。日本の女性が女性であることに甘えているところがあるという指摘、私もそう思う。
   女性問題となると平塚らいてうの「原始女性太陽であった」という言葉を抜きにして語れない。日本民族の母は天照大神であったが、歴史の展開において男性が政治、文化の中心になっていった。女性は月になり男性の光によって輝くようになり、己の力では光ることができなくなった。結婚して「あなたの色に染まる」ことが女の幸せであると思うようになった。美輪明宏が言っていたと教えてくれた女性がいる。「強い男を見たことがない、また弱い女性を見たことがない」と。なるほど、「一姫二太郎」とは、最初の子供は女の子がよい、二番目の子供は男の子がよいという意味らしい。男の子は虚弱で神経質で、最初の子供を育てるのは難しいということである。私も男であるが、何んて崩れやすく、傷つきやすい存在だと思う。傷つかないために突っ張っているだけである。だから女性に望むものは自分を暖かく包んでくれる母親のような存在なのである。ところが近頃の日本の女性は男性化して、本来持っている母性というものがどこかに行ってしまったように振舞う。そのような男性化したのをもろに出させると傷つきやすい男性はしり込みするか、虚勢を張って女性に腕力で勝負しようとする。平塚らいちやうが分かっていたのか分かっていなかったのか、よく分からないが、女性は女性だけで太陽になれない。男性の存在があって、男性を意識して太陽になるのである。男性と女性は本来別の存在である。二つの性の間には野坂昭如ではないが、「男と女の間には長くて深い川がある」。別の生き物である。陽と陰という説明の仕方があるが、摩訶不思議。男性が女性の性が分かればもはや男性でないし、女性が男性の性が分かればもはや女性ではない。だから、いつの世も、男女の仲をテーマにした戯曲が小説がもてはやされるのである。ただ言えることは、虚弱ではあるがその虚弱さを認めつつ、女性にはない男性としての逞しさ、毅然さ、潔さがある男性と結婚した女性は男性化しない。女性のままでおられる。太陽のようなおおらかさとおしとやかさを持続している。女性だって男性化などしたくない。乙女のままでありたいのである。結婚するとき花嫁衣裳に身を飾り、角隠しをして、おしとやかに結婚生活をしますと誓いを立てたのに、弱い男性のふがいなさに、夜叉の角が出てしまうのである。本来の女性が太陽であるために男性が男性でおれる社会が必要である。男性は社会の庇護がなければ男性的になれない。
     戦後GHQは戦前の男性社会を崩すため、憲法、教育、文化を変え、女性化させた。男性が女性化することは、女性にとっても悲劇であった。誤解を受けるだろうが、日本民族が一番男性的であったのは大東亜戦争の時である。命をかけて恋人、母親、子供を守るために若者が戦ったのである。戦う姿はやはり男性的であった。その時代に生きた女性は幸せであった。女性であればよかったのだから。ところが戦後男は虚勢され、なよなよしたものが文化的ともてはやされた。それはアメリカの策謀であることを未だに理解しない文化人が多い。少なくとも、アメリカに住んでいる木庵は、アメリカには男らしさ、男性文化が厳然とある。男が男らしいというのは自然な状態なのである。日本の男性が男らしないのは自然的ではない。アメリカによって人工的に作られた偽文化なのである。敗戦によりアメリカの奴隷化した日本の姿なのである。男はもともと虚弱にできている。だから社会や国家というものが男を男らしくする援護が必要なのである。私は日本にいるとき、戦後長年教育長をしていた人を知っている。彼は戦時中反戦教育をして刑務所に入れられたり、大陸浪人満州や中国を渡り歩いた人間であるが、戦中反戦教育をしたということから戦後英雄になり、教育委員長、教育長を長年するようになった。どちらかというと左翼の人間が、「戦後GHQによって日本人を骨抜きにされているのをひしひしと感じた。運動会で騎馬戦や棒倒しのような勇ましい競技は禁止され、学校音楽でも二拍子の力強いものがなくなり、「小さい秋見つけた」のような三拍子の音楽が多くなった」と言っていた。学校教育では、男女平等を教え、ただ静かに机の前に座っているような女性的男性優等生を優遇するようになった。学校では子供が事故を起こさないように、つまり男子生徒も女性のように静かに振舞えることを由とする教育をおこなってきた。そのよう不自然な教育を推進してきたのは文部省であり日教組であった。
つづく