自然農法(わら一本の革命)#3

自然農法(わら一本の革命)#3
「この体験の翌日(5月16日)、私は出勤すると、すぐに辞表を提出しました。上司も友達も、何のことだかわけがわからないで、ポカーンとしている。送別会を桟橋の上のレストランでやってくれましたけど、なんだか奇妙な空気なんですね。昨日まで、仲良くつきあって、別に仕事にも不満がなく、むしろ喜んで熱中していた私が、突然やめると言いだした。しかも、本人はうれしそうに笑っている。そのとき私は、こんなふうにあいさつしたんです。「こちら側に桟橋があって、向こう側に第4埠頭がある。こちら側があると思うから、向こう側があるんだ。こちらに生があると思うから、向こうに死があると思うんだ。死をなくそうと思えば、こちら側に生があるということをなくせばいいんだ。生死は一つだ」と。こんなことを言い出したもんだから、ますますみんなが心配した。何を言ってるんだ、頭が狂ったんとちがうか、と誰もが思ったんでしょうね。みんな気の毒そうな顔をして送ってくれた。私一人が喜んで、さっさと出て行ったわけです。その頃、一緒に寝泊りしていた友人が非常に心配してくれまして、少し静養でもしてこい、房総半島へでも行って来い、と言う。それで、私も出かけて行ったけど言われればどこへでもそのときの私なら行ったでしょうね。・・・海岸に一軒の旅館があって、その裏へ行くと、絶壁の上に、すばらしい見晴らしのいい所があった。私は、その旅館に宿をとって、毎日、そこへ出かけて昼寝をしておりました。何日いたのか、一週間いたのか、一ヶ月いたのか、とにかく、しばらくそこにおりました。・・・東京にもしばらく居りました。何ということはない。ただ公園やなんかで、昼寝をしたり、ごろ寝したり、道行く人を留めて話し込んだりするような生活だったわけです。友達が心配して様子を見にくる。「どうもお前は、架空の世界に住んでるんじゃないか。妄想の世界に住んでいるんじゃないか」と言う。「いや、お前の方こそ架空の世界に住んでいるんだ」と私は言い返す。・・・東京を出て、次々と下って、関西、九州あたりまで行った。遊びほうけたというか、放浪したというか、ただぶらぶらと歩きまわった。そして、いろいろな人に、一切無用論を吹っ掛けた。世の中にあらゆることは無価値だ。無意味だ。人間っていうのは何やったってだめなんだ。一切のものが無に帰してしまう。ゼロになってしまう。そして、この「無」こそ、広大無辺の有(う)なのだ。ところが、一般の世の中では、これは全く、きちがいのたわごとにしか映らなかった。この無用論を説くことが、重大なことに思えてならなかった。それで、実は、全国を説いてまわるような気持ちで、放浪して歩いたんです。家局、どこに行ってもまるで相手にされず、郷里の親の所へ帰ってきた。」

<福岡氏は相当変わっている。木庵は彼ほどの狂いはない。もっと常識的である。その分、木庵の到達する境地は桁違いに浅いように思う。世には彼のような狂った人が意外に多い。しかし、その狂いから常識というか当たり前の世界に到達する人は少ない。禅の世界での平常心是道とは、狂や異常な世界を通り越した常識の世界であろう。木庵はそれでも普通の人に比べれば変わっていると変な自負があるが、福岡氏には負けると認めざるを得ない(どこか狂いの競争をしているようである(笑))木庵が急に仕事をやめるとき、職場の同僚は無表情であった。二人の友人が送別会をしてくれたが、職場全体で送別会をしてもらうというものではなかった。それも「何故やめるのか」というような質問さえ受けなかった。何かよそよそしい空気があった。それは福岡氏に比べて職場で木庵があまり人気がなかったためであろう。福岡氏の仕事をやめてからの放浪経験と似たものは、私にも少しある。それは仕事をやめてからではなく、仕事を始めてから1年が終ったときの休暇に起きた。一年目は自分の全精神を仕事に集中し、上司に一切文句を言わせないほどの猛烈仕事人であったのであるが、その全投球の虚しさがこの休暇中に起きたのである。そこで、フラッと伊丹空港からキャンセル待ちで日本のどこでもいいから旅行をしてやろうと思った。偶然に高知行きが空いたので、飛行機に乗った。そのときが木庵の飛行機最初の搭乗であるが、高知空港に降りてからすべての移動をタクシーでおこなった。旅館についても別に観光地を観て回るのではなく、旅館で温泉に入りテレビを観ているだけである。旅館の女将は黙り込んでいる木庵がヤクザに見えたのか、緊張した表情で応対していた。移動するタクシーの運転手も、「遊び人の方ですか、宜しければよいところにお連れしますが」と。もし木庵が了承すれば、壷ふり場のようなところに案内されたことであろう。4日ほどの休暇であったが、何も考えることもなく、社会人になった汚れを流してくれた。この旅行は木庵が社会人として、もはや一生懸命やらないという猛烈仕事人をやめる決意の旅であった。現に2年目から怠け者の標準以下の仕事人に変身していた。一生懸命働くことがバカバカらしくなったのである。ところが不思議なことに、一年目の働き過ぎるときより、怠けている方が同僚とのつながりがスムーズになるという奇妙な現象を観察することになった。仕事などと大の大人が命を賭けるに足るものではないと思った。同僚たちの仕事への取り組みが茶番劇に見えて、それからというもの、人生を無為に生きだしたのである。木庵>.

「父がその頃、ミカンを作っていたんですが、そのミカン山に入りまして、山小屋で原始生活を始めた。私はそこで人間は何もしなくてもいい、という考え方を、百姓をして、ミカン作り、米作りの上で実証してみようと思ったんです。実証すれば、私の一切無用論が正しいということを自分で確かめてみたかった、というより、かたちの上にあらわして、やれる。人間は何も知っているのではない、ものに価値があるのではない、ということを、かたちの上で示してみる自信にみちていたので、なんのためらいもなく始めたのが、私の自然農法なんです。昭和13年頃のことです。ところが、ミカン山に入って、ちょうど生(な)り盛りのミカンの木を父から譲りうけたまではよかったのですが、父がすでに剪定して、いわゆる、盃状型のミカンの木を作っているところへもってきて、それを放任してしまったから、枝が混乱して、虫がつき、みんな枯れてくる、という始末になった。私にしてみれば、作物は出来るんだ、作るべきものではない。ほっときゃ、出来るはずだ、放任すればいいんだ、という確信でもってやったのだが、途中からそういう風な方法をとっても、うまくはいかない。結局、それはただの『放任に過ぎなかったんです。『自然』と言うことではなかったのです。それで父も驚いて、これはもう一ぺん、修行し直してこなきゃいけない、どっかに勤めないか、という話になった。当時、父は村長をしておりまして、奇言奇行の息子がいて、山の中に入っていたんでは世間体も悪いだろうし、戦争が激化する時期で憲兵の世話になるのがいやでしたから、自分も素直に父の言葉に従ったわけです。その頃は、技術者が少なかった時期で、すぐに高知の試験場に口がかかって、病虫害の主任として赴任することになりました。そして、高知県も迷惑な話しですが、それから8年間も長い間、お世話になったわけです。高知の農事試験場で、私は科学農法を指導し、研究して、戦争中の食糧増産にも挺身してきたわけですが、実をいいますと、その8年間、私は自然農法と科学農法の対比をずっとやっていたのです。人間の知恵を使った科学農法が優れているのか、人間の知恵を使わない自然農法というものが、科学農法に太刀うちできるものかどうか、ということをずっと問題にし続けていたのです。終戦の日になりましてね、その日から、あらゆるものが自由になったような気がして、私も、やれやれという気持ちで郷里へ帰り、改めて百姓を始めました。」

<結局、福岡氏は坊ちゃんということになる。本当に貧しい家庭に育った人間は、彼のような放蕩の考えをもたないし実行さえしない。生きていくことが精一杯で、福岡氏のような自由な発想はできない。岐阜高農農学部卒業というから、戦前では高学歴といいことになるのであろう。父親が村長というから田舎の名士である。それもミカン畑が用意されているというのだから、ある意味で最高の贅沢な生き方が出来る環境に彼は生まれ育っていたということになる。その点から考えると木庵もぼっちゃんということが出来るのかもしれない。木庵の家は福岡氏ほど裕福でもなく、貧しい家であるが、父親が名士というのはあるところで共通しているのかもしれない。木庵の父親は社会的にはそれほどの名士ではないが、精神的な名士であった。父の精神性の高さは木庵自身誇りに思っている。父が亡くなっても田舎で父のことを未だに尊敬してくれている人が多くいることは木庵の誇りある。この父と全然違う生き方をしている木庵ではあるが、普通の人生を歩めば父を乗り越えないと、アメリカ留学という破天荒な道を選んだのかもしれない。福岡氏は恵まれた環境に育った自由人であるから、前代未聞の自然農法というものを開発(?)出来たのであろう。何もしない農業をするために実は福岡氏は科学していたのである。科学農業を廃止するために彼は科学していたということが出来る。科学する精神というのは自由人でなければ出来ないところがある。木庵も相当な自由人であるが、このご福岡氏のような実績を残したいところであるが、果たしてどうであろうか。木庵>