自然農法(わら一本の革命)#2

自然農法(わら一本の革命)#2
私は横浜税関の植物検査かに勤めておりました。外国から輸入される植物の検疫をしたり、輸出する植物の病気害虫の検査をしたりするのが主な仕事でしたが、非常に自由な時間の多いところで、平生は研究室にいて、自分の専門の植物病理学の研究をしておればよかったんです。・・・多感な青年時代ではあり、研究室に閉じこもってばかりいたわけではありません。場所は横浜、遊びにはこと欠かない先進地です。その頃は、カメラにこっていて、こんなことがありました。桟橋を歩いておりました、一人の美人を見つけた。これは素晴らしい被写体だと思って、その美人に頼み込んで、外国船の甲板に引っ張り上げ、あちら向けこちら向け、と注文つけて写真をとったんです、分かれて下船しようとすると、写真が出来たら送ってくれ、と言う。どこへ送るのかと聴いたら、大船、と言う。名前は言わなくって、ただ大船とだけ言って、行ってしまったもんだから、帰って現像しながら友達に見せて、これ誰だか知ってるか、と聴いてみますと、これは近頃売り出している高峰三枝子だという。私は早速、大型の写真を引きのばして十枚ばかり送った。そうすると、すぐにサインをして送り返してきたんです。ただ、その中の一枚だけ抜いてあった。それは後で考えてみますとね、横顔のアップでとっていて、しわが出ていたのではないかと思うんです。私は、ちょっと女心を垣間見たような気がして、とても愉快だった、というような思いでがあります。また、私はこんな不細工な男なのに、ダンスの好きな友達に連れられて、南京街にあったフロリダというダンス・ホールに通ったこともありました。私はここで、歌手の淡谷のり子を見つけて、プロポーズして踊ったことがありましたが、その偉大なボリュームに圧倒されて、かかえ切れなかったというような、今でもあの感触が忘れられない、楽しい思い出もあります。」

<この逸話から、美しい高峰三枝子を見れば心が躍り、肉感あふれる淡のり子とダンスすれば、圧倒されたという、福岡氏もごく普通の男であったことがよく分かった。そのような人間がどうして、公務員として未来が安定されている身分を投げ捨てたのであろうか。そこのところが興味がある。木庵(注:“私”と書いてもよいが、そうすると福岡氏が述べる”私”と読者が混乱するおそれがあるので、あえて“木庵”という言葉を多用する)も安定した仕事についていた。普通通りにすれば生活するのに心配はいらない。ところがその安逸さが面白くなかった。生きている実感が欲しいと思ったのである。英語が出来るわけではないのに、急に辞表を提出し、留学することになったのである。特に父は驚いた。周囲の誰に相談するのでなく、瞬間的に辞表を提出してしまった。それからの人生が180度違う方向に行くことになったのであるから、自分でも何をしているのだろうかとも思うほどであった。しかし、瞬間的に決断はしているが、仕事についてからの欲求不満の蓄積がその決断をさせたのであり、自分の意志でしたというより、何か眼に見えないものに押されていたというようなものもあったと今になっては思う。一生懸命しようが怠けようが同じように給料があがり、生活向上のために周囲が一生懸命なのがそれでよいのかと思ったのである。それより、いつしか周囲に染まっていく自分が面白くなかったのである。自分を地獄に落とす必要があると思ったのである。歳とってからの地獄には耐えられないであろう。それなら若いときにと、金もない、英語の力もないのに、哲学という勉強をろくにしていないのに、哲学をアメリカで勉強するという無茶苦茶なことを実行してしまったのである。果たして福岡氏と私の決断との間に共通点があるのであろうか。木庵>

「とにかく、多忙な多幸な青年で、昼間は顕微鏡下の自然の営みに驚嘆し、自然の極微な世界が、広大無辺な宇宙の世界とあまりにも似かよっているのに、不思議な感に打たれ、夜は夜で、恋をしたり、失礼をしたり、人並み以上に遊びまわっていたんです。そんな若さ特有の、喜怒哀楽というか、人間感情のふれあい、働きに翻弄されて、心身の疲労が積もり積もって、結局、研究室で卒倒するうような自体にもなったんだろうと思います。ちょうどそのときに、急性肺炎を引き起こしまして、警察病院の屋上にある、気胸療法の病室に放り込まれるような始末になってしまいました。・・・個室であるし、人はめったにおとずれない。私は急に孤独な世界に突き落とされたような気がしました。今まで、平凡といえば平凡、順調といえば順調な生活をしていたのが、急に調子が狂ってしまった。今で思えば、全く無用な恐怖だったと思うのですけれども、まさに死の恐怖というようなものに直面してしまった。・・・病院はどうにか退院できたものの、いったん落ち込んだ苦悩の世界から抜けられない。いわゆる生とか死とかいうことに対して、徹底的に懊悩が始まったわけです。それでもう、眠れない。仕事が手に付かない、精神分裂症の一歩手前というような、悶々たる状態が続き、どうにもならないこの胸の燃えるような悩みを、夜空の星の下で癒そうとして、山の上や港を、幾晩さまよったことでしょうか。その晩もさまよい歩き、結局疲れ果てて、外人墓地の近くの港が見える岡の上にある大きな木の根元にもたれかかって、うつらうつらしておりました。寝ているのか、さめているのか、わからないような状態のまま朝が来たんです。それが5月15日、ある意味で自分の運命を変える日になりました。私は、港が明けていくのを、うつらうつらと見るともなく見ておりました。崖の下から吹き上げてくる朝風で、さっと朝もやが晴れてきました。そのとき、ゴイサギが飛んできて、一声するどく鳴きながら飛び去ったんです。バタバタッと羽音を立てて。その瞬間、自分の中でモヤモヤしていた、あらゆる混迷の霧というようなものが、吹っ飛んでしまったような気がしたんです。私が持ち続けていた思いとか、考えとかが、一瞬のうちに消え失せてしまったのです。私の確信していた一切の拠り所といいますか、平常の頼みとしていた全てのものが、一変に吹きとんでしまった。そして私は、そのとき、ただ一つのことがわかったような気がしました。そのときに、思わず自分の口から出た言葉は、「この世には何もないじゃないか」ということだったんです。”ない”ということが、わかったような気がしたんです。・・・私は、正に狂喜乱舞というか、非常に晴れ晴れとした気持ちになって、その瞬間から生きかえったような感じがしたんです。・・・しかし、変わったと言いましても、根が全く平凡な愚鈍な男でありますから、そのことに関しては今も昔も変わらない。外面も、内面も、自分ほど平凡は男はいない、平凡な人生を歩んだ男も少ないのではないか、ところが、ある意味から言うと、この時から、私は、自分ほど波乱万丈の人生をおくってきたものはいない。ドラマチックな人生をおくった者はいないのではないか、とも思うんです。私は、日本中の、どの人にも劣っているけれども、誰も知らない、ただ一つのことを知っている、という確信が、そのときから動かない。それが間違いではなかろうか、と30年、40年、常に確かめながら、考えながら歩んで来たけれども、私は一度だって、それが間違いだという反発材料を見つけだせなかった。

<福岡氏は若い時に悟り体験をしたということだろう。悟り体験とは、おそらく病気や人生に挫折した後についてくるものなのだろう。木庵の場合、福岡氏ほどのドラマチックな悟り体験というものはないのであるが、子供のときに死にそうになり悪夢を多く見たのが、福岡氏の急性肺炎で死を意識したのと共通するところがあるように思える。蟻地獄の中に引き込まれ、もがいてももがいても深い淵の中に吸い込まれていく、両親を呼べども、知らん顔で木庵のことなど構ってくれはしない。あの時の悪夢が、それ以降の木庵を縛っている。「金持ちになろうが、地位や名誉も得ようが、所詮人間は蟻地獄のような死の世界に落ちるもの」という動かしがたい、基調感情が木庵を縛っているのである。日本での仕事を没にしてもアメリカの苦学生としてやっていくことの決断を瞬時にしてしまったのは、子供のときに見た悪夢と関係するようである。このような大決心をするときだけでなく、平常な生活の中でも、自分でも理解できない魔性が私を引きずり込もうと絶えず襲いかかってくる。人生を楽観的に見えるようになったときほど、この魔性が元の木阿弥の世界におし戻すのである。そして、そのことにより、浮世の虚構から死への実像へと方向を転換させられてしまう。木庵も福岡氏が述べるように、自分を愚鈍であることは充分理解しておりながら、自分ほどドラマチックで波乱万丈の人生を歩んでいるという思い上がりのような感情がある。アメリカでの勉学を続けることの大変さは言葉では言い尽くせるものではなかった。優秀で元々英語が出来る人間の留学ではない。大学入試で英語が30点しかとれなかった愚鈍の木庵の留学である。金をいくらか持ってきたが、収入が殆どない、外国人である木庵には私学並みの授業料を払い続けるという状況の中での勉学の継続は、やってみないとわからない、試練の人生であった。これも思い上がりであろうが、人生の底を見たという自覚がある。その底から人を見ると、どのような社会的地位のある人もただの人と見えるのである。底から見るだけしか能のない愚鈍木庵の観点があるのである。木庵>
つづく