自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#12)#14自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#12)#14

<特別編:皇室論をぼつぼつ終らせる。最初OG氏から皇室に関する資料を送っていただき、それを基に考え、書き出した。そうしているうちに、koreyjpさんから示唆に富んだコメントを頂くようになり、予想外の展開になっていった。今回の皇室論シリーズでは感じるところが多くあった。もっと深められるのだろうが、一応このあたりで閉じたいと思う。今の段階での木庵の皇室への結論は、「存在しているだけで意味がある」ということ、「この伝統を守ることが大事」ということになる。最後に、最近のkoreyjpさんと木庵のやり取りを紹介する。木庵>
【koreyjpさんのコメント】お寺の山門で睨みを利かせてゐる仁王様のご指摘は面白いですね。現代の日本は優しさ一辺倒で怖いものがなくなったので、いろんな人が増上慢に陥るのです。西尾氏もその一人でせう。
さて、まず手始めに竹田恒泰氏の『怨霊となった天皇』を読みました。これはいはば天皇・皇室の裏面史ですが、実に多くのことを教へてくれます。竹田氏自身、怨霊の存在を信じてゐるらしく、事実、この本を書き始めてから、数々の怪異現象に遭遇し、大変怖い思ひもしたさうです。
第75代崇徳天皇は第77代後白河天皇の兄であったが、保元の乱に敗れて後白河天皇により讃岐の国に流された。そして悲運のうちに憤死されたが、竹田氏によると以後700年間、怨霊となって祟り、国中を恐怖と混乱に陥れた。しかし今では漸く成仏されたやうでこれからは国を護って下さるだらうと期待できる。竹田氏の指摘は大変奥が深く、話はイスラムとクリスチャンの争いにまで発展します。
私たちは、戦後、日本人の優しい心を忘れてしまったやうですが、それは「あの世」を国民が意識しなくなったことと決して無関係ではないと思はれるのです。
【木庵のコメント】あの世とか怨霊というものがあるかどうかは別にして、このようなことを考えることによって人間の想像力を豊かにしてくれるようです。先日私の知り合い(数人)と一緒に食事をしながら話をしました。そこで、皇室問題が話題にのぼったのですが、せいぜいゴシップ程度で、皇室の本質に関わるところまでには至りませんでした。要するに、現代の浅い、もの文化の中で生活している人たちに、想像力を期待するほうが間違っているのでしょう。少しは、あの世、怨霊にでも触れる感性があれば、我々の話も深まったことでしょう。木庵
【koreyjpさんのコメント】つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
これは平安時代にプレイボーイで鳴らした在原業平の辞世の歌です。
自分の死までユーモアのめすとは、プレイボーイの面目躍如といふところですね。しかし当時はテレビがなかった分、それだけ深くあの世のことを考へるとができたのかもしれません。今はやれ生命科学だ、遺伝子操作だとマスコミが騒ぐ割には、あの世のことはどこかお留守です。私は、この世とあの世と二つで人生のことは完成すると思ってゐます。また日本ほど先祖供養を熱心にやる国も珍しいさうですが、日本人は潜在意識の底に、常に先祖がゐる、それだけ幸せなのかもしれません。
【木庵のコメント】以前にも書きましたが、日本人は過去を、アメリカ人は未来を見る傾向があること。過去とは先祖が行ったことについて、霊界に行かれた人々のことを思うことですね。アメリカ人を観察していると、未来のことばかりを考えて、心が索漠としております。日本人が過去を思えるのは、具体的に、太古から続いた皇室がある、歴史を刻み込んだ神社がある、お寺があるという、過去と対話する雰囲気があるからでしょうね。この素晴らしい文化を大事にしたいものですね。木庵
【koreyjpさんのコメント】春めけば人様々の伊勢参り
参宮と言へば盗みもゆるしけり
これらは岡先生に教へて頂いた蕉門の句ですが、いずれも嬉々として神宮に慕ひ寄る庶民の気持ちを顕してゐますね。
ひんがしに雲ひとつなき伊勢の海
これは岡先生の句です。
私も、最初に伊勢神宮を参拝したときの感激は、今でも強く印象に残ってゐます。山も、川も、すべてがひとつになって迎へてくれる、そんな感じでした。
この千年以上の歴史の重みといふものは、それは大変なもので、今の人間たちは、兎に角それを無傷のまま次世代につなぐだけで精一杯といふところでせう。
【木庵のコメント】koreyjp さん、昨晩も女将と電話で話しました。不思議な縁です。彼女に伊勢を案内してもらい、彼女からパンフレットを送ってもらい、それが私の記事になり、[ koreyjp ]さんもコメントを書いてくださって、このようなことは不思議なことです。我々は長い伊勢神宮という伝統の温かさの中に生かされているのですね。木庵
【koreyjpさんのコメント】仰る通りです。ただ、アメリカ人は、未来を見ると言っても、それは「この世の未来」に限られてゐるやうに思ひます。但しそれがプリンシプルに適合してゐるか否かについてはこだはりますが、いずれにしても自分の考への枠外には出ない、それこそ索漠としてゐます。私も成人してから何回かアメリカに出張したことがありますが、かういふ風土の中にをかれると、死ぬほど退屈するといふことが、実感として分るやうな気がします。その分、心あるアメリカ人が永い歴史のある日本にあこがれるのも理解できます。本当に、日本の歴史文化は世界の宝であり、大事にしたいと思ひます。
【木庵のコメント】( koreyjp ]さん、<自分の考への枠外には出ない、それこそ索漠としてゐます。><死ぬほど退屈する>。この二つが貴方の言われるキーワードであると思います。枠外に出ないので想像力が乏しいのです。この世のことしか思わない人間の索漠さはかわいそうですね。だから死ぬほど退屈で、いつも刺激を求める人生を歩んでいるのです。多くのアメリカ人は一人で静かになれないのです。学問をする人はある程度それができるのですが、それも現世についての思考であるので、瞑想が浅くなります。顔を見ればわかります。深くないのです。木庵
【koreyjpさんのコメント】木庵さん

伊勢神宮を讃えた歌がありますので、ご紹介します。作詞したのは、現在伊勢に住んでゐる求道家で、古事記の研究家です。


伊勢神宮 作詞:野木梢隠、作曲:出田蒼空

1.
長いつかれも さらさらと
心きよまる 水の音
この天地の かあさまが
私をつつんで くれました
天照大神 天照大神
天照大神

2・
高い木立の 玉砂利に
心やすらぐ 足の音
日本をうんだ かあさまを
みんな尋ねて 参ります
天照大神 天照大神
天照大神

3.
白木づくりの 神殿に
もろて合せて 目をとじる
ただふかぶかと かあさまに
いだかれている わたしです
天照大神 天照大神
天照大神

(財団法人新教育者連盟発行『古事記物語』所収)
【木庵のコメント】[ koreyjp ] さん、<かあさまにいだかれている わたしです。天照大神>。そうなんですよね。我々日本人は天照大神を「かあさま」とお慕いし、彼女の温かさに包まれて生きているのですね。その温かさが伝統というものなのでしょう。木庵