自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#10)#12

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#10)#12   <藤原氏は、伊勢神宮に初めて参拝し、神官が「神様の食事で、朝夕二回、千四百年余り続けてきました」と言ったことに、衝撃を受けている。これこそ伝統というもので、世界のどこを探しても、このような形で伝統文化が継承しているところはない。
   約1年半前、木庵が伊勢神宮を参拝したことは、ブログに書いた。鳥羽のとあるホテルに泊まった。このホテルは上官(田母神氏のDVDを提供してくださった恩人)の紹介であった。泊まり賃を安くしてもらった上、女将の案内で伊勢内宮、外宮、鳥羽観光までさせてもらった。この女将とは今でも手紙や電話で交流があるが、先日、「志摩半島を巡る旅、伊勢神宮式年遷宮のご案内」というパンフレッド(32ページ)が送られてきた。美しい写真がたくさん掲載され、遷宮の意味、遷宮にいたる行事などが書かれている。「伊勢神宮とは」、「伝統とは」を、的確に説明してある文章をここに抜粋する。

「ここ伊勢神宮では、一年を通じ千数百回もの祭りが行われている。「伝承」「循環」といったキーワードが神宮の祭りを通じて色々な気づきを訪れる人々に示してくれる。20年に一度原初の姿を保ちながらも再生するこの場所に私たちも立ち返ってみたらどうだろう。一番古くて新しい日本人の魂の原点が見えるかもしれない」
式年遷宮とは、20年に一度神殿を建て替え、御神体をふるい神殿から新しい神殿へと遷す祭祀。神にお供えするご装束・神宝も新しくし、永遠の若々しさ、清々しさを祈る。古代から伝わるすべてを未来へと永遠につなげるこの伝統は、世界にも類をみない」
「朝、太陽の光が一筋さしたとき、鳥居をくぐり、宇治橋を渡る。その瞬間、全く違う空間に自分が入ったことに気づく。五十鈴川の清流の水音、森の香り、凛とした空気、それら静謐(せいひつ)な全てに包まれて、普段は都会の生活で退化している五感がどんどん研ぎ澄まされてゆく。自分が玉砂利を踏みしめる音は、まるで一定のリズムが瞑想を誘導するかのように、体の深い部分まで響いてくる」
「・・内宮、外宮、両正宮と14の別宮が20年に一度、109の摂社、末社、所管社もこれに準じ、建て替えられるのである」
天照大御神に導かれて伊勢の地、現在の内宮に辿り着いたとき、天照大御神からこのような御信託を頂いた。『この神風の伊勢の国は、常世の浪の重波(しきなみ)帰(よ)する国なり、傍国(かのくに)可伶国(うましくに)なり。是の国に居らむと欲(おも)ふ』。そして伊勢は神宮が永遠に鎮座する地となった。伊勢には海・山・川全てがあり、豊穣の地であった。『うまし』というのは、美味しいという意味と、美しいという意味の両方を表す。山で降った雨は田を潤し、そこで稲は育ち、森と稲田でミネラルをたっぷりと蓄えた水は川から海に注ぎ、海草や魚貝類が育つ。そしてその水は再び雨となって山に戻るのだ」
「生命の源である米・塩・水は太古から大御神の大切なお供えとされてきた。伊勢神宮では、今では稀になってしまった昔からの塩の製法・入浜式が今日までずっと守られている。・・・二見浦にある神宮の御塩浜(みしおはま)と御塩殿神社で行われる御塩作りを訪れた。そこには、人が自然に即して生きてゆくという姿があった」
「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる  西行

伊勢神宮とは皇室の先祖が祀られているところ。太古の昔から、内宮、外宮などが20年に一度建て替えられている。戦争もあったであろう、建て替えに必要な資金も労働に携わる人の確保も大変な時代があったであろう。脈々とこの建て替え作業が伝えられてきたのは、天皇制とかいう言葉でも説明できないものがある。この日本に伝わる伝統を次の世代に受けつくことが非常に大事である。理窟で伝承するのではなく。何事が起こっているかわからないが、かたじけなく思う心が、次の世に伝えていくのであろう。そうだとすると、藤原氏の言及も必要がないようにさえ思える。藤原氏が、憲法や世論では理解できない、「時代や理窟を超越したところに皇室のあり方がある」と、言っているが、それを述べれば述べるほど、皇室から離れていくようにさえ感じる。そのようなことを説明せずとも大丈夫、「長き歴史によって培ったものは戦後の表面的な政治、文化の変遷ぐらいで崩れはしない」、「存在しているだけで意味がある」、とゆったり構えたいものである。木庵>

皇室問題を寛仁(ともひと)親王殿下はどう思われているのであろうか。桜井よしこ氏との対談があるので、紹介する。OG氏によって要約されている。

天皇さま、その血の重み」
文芸春秋」誌、平成17年12月7日発売の記事より)

桜井:殿下から見た昭和天皇はどんなお方でしたか?
殿下:先帝様には逆立ちしても勝てない、という気持ちが強い。人格、人徳というもので、あれほど公平無私でいらした方はいらっしゃらないでしょう。
・皇族の役割
桜井:現在は福祉にたいへんお力をお入れになっておられますね。皇族の方々と福祉事業はご縁が深いですね。
殿下:例えばハンセン病ですが、高松の伯父様はこの病気の大家でいらした。藤楓協会という財団法人があります。ハンセン病について啓蒙活動を行うというのが設立の趣旨で、全国に13の療養所がありました。
日本の福祉は天平二年(730年)に聖武天皇のお妃であった光明皇后悲田院、施薬院をお作りになったことに始まるとされています。その時から、歴代の皇后様はハンセン病の面倒を見てこられました。それを、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)も貞明皇后大正天皇の皇后)も引き継がれたわけです。
十年ほど前、当時のアルゼンチン大使のご夫人、ポーリー・フェルマンさんの協
力を頂いて、全国の各種障害者施設、ハンセン病療養所を訪問し、ポーリーさんがピナノ演奏して慰問して回った事があります。ポーリーさんはこの体験をもとに、帰国後、アルゼンチンのハンセン病の患者達をサポートしたいと思って、患者達が集まって住んでいる町に出かけたそうです。ところが、町に住む人達から、近づくなと追い返されてしまった。ポーリーさんはすっかりショックを受けてしまった。さまざまな問題があるとはいえ、日本では美しい敷地に素敵な療養所が建っています。まず、そのことを認識してはどうでしょうか。
桜井:皇族の方々が自然とそういう役割を果たされてきたのは、やはり特別なご教育などがあったのでしょうか。
殿下:私に言わせると、皇族である以上、当然のつとめだと思っていますね。分りやすく言うと、政治とか行政が一生懸命やっても、なお及ばざる部分というものがありまして、皇族はそこに光を当てていかなければならない。ですから、皇族の仕事というのはニッチ(すき間)産業なんですよ。
・皇族であることは重荷か
桜井:美智子様雅子様を拝見していますと、やはり民間から皇族の中に入ると、難しい部分があるのかなと感じる事があります。
殿下:ある程度はあるでしょう。しかし、御所の中を知らない一般の人達が思っているほど異様な事をやっているわけではないですね。皇族の中にも、皇族であることを重荷であると考えて苦しんでいる人もいます。そう考えない人もいます。
学習院の初等科時代、クラスメイトから、「お前達は俺達の税金で食わせてやっているんだ」という嫌味なことを言われるのですよ。大変なショクを受けて帰ってきました
そんなこともありますから、私も、皇族は大変でしょうねと言われたら、それは大変だと答えますよ。
桜井:先ほどご自身のご病気のお話が出ました。下世話なことをおうかがいしますが、
皇族方には医療保険がないというのは本当ですか。
殿下:ありません。私は昨年、心臓の不整脈を起こして慶応病院に通っていますし、娘たちも喘息の気味があって、これも慶応の小児科に通わせました。こういうのは全部、現金で払う。稼げども稼げども我が暮らし楽にならざり、(笑い)ですね。
桜井:宮内庁病院は、皇族方の病院ではないのですか。
殿下:宮内庁病院は、基本的には宮内庁職員の為に作られた共済病院のようなものです。もちろん、病院の中には皇族病棟がありますが、これは両陛下を想定したもので、大きな部屋が二つあります。つづく