自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#7)#9

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#7)#9
[ koreyjp ]氏から、以下二つのコメントがあった。竹田氏、西尾氏、両氏に簡単に批判できなくなった。
木庵さん
ご尊父の、「他人を傷つけるより、自分が傷つけ」といふ言葉は、まさに名言ですね。た危機感といふことも、ドライに相手を批判するのと、「老婆心」として心配するのとではニュアンスがかなり違ひます。それから人を批判する場合は、ヨハネによる福音書の第8章にある、イエスが姦淫した女を赦した話も参考になりますね。いずれにしても、私たちは国を憂へてゐるのですが、憂の字に人偏をつけると「優」になります。国を自分のことのやうに想ふ優しい心が結局すべてを救っていきます。
木庵さん
今年の2月22日に旧皇族竹田恒泰氏の、天皇陛下ご即位20年日立市奉祝式典での記念講演会がありました。その録音を友人より送って貰ひ、今拝聴した処です。ここで言はれてゐることは、天皇・皇室といふことはあまりにも大きな御存在であり、それ相応の覚悟をもって取り組むべきだと言ふことです。天皇とは、そこに存在されるといふことが重要なのであり、その他のことは小さい小さいことになるといふことです。竹田氏は本を何冊か書いてをられますので、私もまずそれらをよく読んでから、またコメントさせて頂きたく存じます。それまで暫しお時間を頂きますので、ご了承下さい。

<[ koreyjp ]氏とは、なんと心の深い方なのだろうか。このように書かれてしまうと、竹田、西尾両氏の論争が(ここでは竹田氏が西尾氏の論文を批判する形になっているが)ただ単に相手の批判のための批判に見えてしまう。両氏とも国を憂へているのは間違いない。[ koreyjp ]氏が言われるように、優しく、老婆心として心配するという気持ちで、竹田氏の西尾氏批判を分析することにする。木庵>

1)「保守派を装った左派の論文」「百害あって一利なし」。過激な見出しである。相手を左派(右派」とレッテルを貼るのは、支那文化大革命で行われたのとよく似ている。日本の皇室を論じるのに相応しいとは思えない。「百害あって一利なし」は言い過ぎ。西尾氏も皇室の安泰を願って、止むに止まれず書いたところがある。その指摘も的を射ているところがある。
2)「東宮に対する不信」一言でいえば「卑怯」とは、これも過激な表現。皇太子は、記者会見で「雅子のキャリヤと人格について」と発言をなされた。堂々とした態度で、自分の妻を守ろうとする、平成時代に相応しい主人像をお示しになられた。普通はそれで通るのだが、皇室のそれも皇太子の言葉としては、適当でないと思うのは仕方がない。このような発言を許した宮内庁の役人、それに皇太子の側近に問題があると、国民として提言する気持ちは分かる。帝王学を指導する人間が皇室の本質を理解していないところから来ているという提言も分かるような気がする。「明治天皇の側には山岡鉄舟昭和天皇には乃木希介と、良き指導者がいた。ところが皇太子の側には山岡や乃木のような透徹した知恵者がいない」と言いたいところだが、時代に応じた、また時代を超えたものが皇室の伝統にはあると考えるなら、これも簡単にはいえない。皇太子を「マイホームパパのようで、帝王に将来なられる自覚が足らない」という西尾氏の提言を越えたところにおわしますことを信じたい。西尾氏の言うようなことを十分理解した上で、雅子妃を守ろうとなされていると信じたい。いま、雅子妃は孤立している。当然である。一般の家庭から皇室に嫁ぐ意味がどれほど過酷なものか、想像を絶する。だから、美智子妃殿下も通られたように、雅子妃が苦境に立たされている。それを皇太子が守ろうとしている。雅子妃は特大のカルチャーショックを受けていることを国民は同情すべきである。先ず雅子妃を思いやるところから、時が解決してくれるような気がする。しかし、時が解決することと、解決できないことがある。皇室が古から平坦な道を歩んできたことはない。いまも大変な時期に遭遇していることは間違いない。しかし、伝統というものは10年や20年の否60年程度の荒波で崩れるものではない。つまり西尾氏や竹田氏のボトルぐらいでびくともしない。それが日本の皇室である。

3)「西尾論文の構造」
【学歴主義と人権意識が皇室に流れ込んで、異質なものによる占拠と侵害が始まったのではないか】。西尾氏の分析が正しいかどうかは別にして、皇室が学歴主義に汚染されていないのは、我々庶民の願いであり信仰である。立身出世を目指すのは我々庶民であり、そこにある種の人生の目標がある。ところがその枠外に皇室があることは、いくら立身出世競争に勝ってトップにたどり着いても皇室を越すことが出来ないという、日本人に限度をわきまえさせ、節度をわきまえさせてくれる。ところが、皇室に競争原理が入ってくると、日本社会のこの節度が崩れてしまう。また、戦後憲法により、人権という新しい権利を国民は得た。そのことは国民として幸せなことであった。ところが、それを皇室に当てはめると、皇室そのものの基礎がなくなる。日本の皇室的伝統は、西欧的人権鋳型の中にはめ込むことは出来ない。「戦後の価値観の中に皇室を放りこむな」という西尾氏の主張は正しい。近頃雑誌などで、「雅子様が可愛そう」、「雅子様の人権が侵されている」という論法に対して、西尾氏が、「日本左翼の策動を刺激し、ひいては皇室崩壊を招く」と危惧しているのは皇室を親愛しているが故の態度である。「日本の皇室が、ヨーロッパの王族とは違う」という見地から、日本の皇室の本質とは何かを問い続けている西尾氏の態度は別に間違っていない。しかし、何かが欠けている。それは誰かを名だしで攻撃してしまうことからくるようだ。たとえ論理的に正しくても、他を非難した場合、日本人はそれを由としないものがある。日本文化には相手を攻撃する前に自己を顧みるのを由とするのがある。「ヨハネによる福音書の第8章にある、イエスが姦淫した女を赦した話」にも通じる。

4)東宮妃殿下は反日左翼か

  「東宮妃の思想を【反日左翼の思想】と決定するからにはそれなりの根拠を示すべきだろう。しかしながら、西尾氏はその理由として次の二点を示すのみである。すなわち、東宮妃殿下の父親でいらっしゃる小和田恒氏が【進歩主義反日思想の持ち主であることば紛れもない】ということ、そして東宮妃殿下が足繁く出向かれる【国連大学反日左翼イデオローグの集会の場と聞いている】ということのみである。
 西尾氏は殿下の一体何を見、知っているのか。論文に示された根拠は全て根も葉もない噂話の領域を出ていない。

妄想に始まり妄想に終わる

西尾氏こそ反日左翼では?」(注:竹田氏の文章から抜粋)

<西尾氏も竹田氏も相手を攻撃するために、「反日左翼」という言葉を使っている。彼らの「左翼」の定義は一体何なのであろうか。恐らく皇室の伝統を破壊する集団のことであろう。両者とも皇室の擁護を謳っている。ところが対立している。これはどういう意味なのだろうか。恐らく皇室問題に両者の政治思想が絡まっているように思える。竹田氏は元皇族の家系ということから、政治性を露骨に出さなくても保守の系図に位置できる。それに対して西尾氏は、保守の論客として、保守本流に位置しようとする。保守本流に留まるためには、どうしても皇室の伝統を守る論を展開しなければならない。しかし、現実の日本の保守陣営は揺れている。南京事件東京裁判史観などにおいても保守陣営の論点がずれている。それは戦後の保守の根がGHQによって相当破壊されたためである。保守の拠り所としての皇室に対して、ある意味の戦前の憧れがある。西尾氏の皇室観からすると、今の皇太子や雅子妃の言動は限界に達している。ところが竹田氏のお二人への見方はおおらかである。このあたりに西尾氏と竹田氏の争いの源があるようである。 koreyjp 氏が言われる、「ドライに相手を批判するのと、「老婆心」として心配するのとではニュアンスがかなり違ひます」というポイントを理解すれば、二人の間にある皇室擁護に対する共通点がもっと広がっていくように思える。木庵>
つづく