自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#6)#8

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#6)#8

では天皇の本質とは何か。戦後の神道界に絶大なる影響を与えた思想家・葦津珍彦(あしづうずひこ)は、天皇の本質は「祭り主」であるという。その著書には「神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体たるべく日常不断の努力をなさってゐる」という記述があるが、これは現在の神道界の基本的な考えになっている。
 この考え方によれば、西尾氏の言うように、本質たる制度の上にたまたま天皇在位者が乗っているのではなく、むしろ逆で、本質は制度の方ではなく、天皇の方にある。「神に接近し、皇祖神の神意に相通じ、精神的に皇祖神と一体たるべく日常不断の努力をなさってゐる」存在、それが天皇なのである。制度などは今後も変更される可能性があるが、今述べた「祭り主」としての天皇の本質は未来永劫変わることはない。
 また西尾氏は【天皇は伝統を所有しているのではなく、伝統に所有されている】ともいうが、天皇は伝統に所有されてなどいない。天皇と伝統は不可分一体であり、所有・被所有の関係にはない。

患者に対する配慮に欠ける

皇后は「祭り主」ではない

 西尾氏は東宮妃殿下が宮中祭祀を長らくお休みになっていらっしゃることについて、イデオロギーの話を持ち出して、【妃殿下のご病状が不透明なままに第一二六代の天皇陛下が誕生し、皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし何をしなくてもいい、という身勝手な(中略)異様な事態が現出することを私はひたすら恐怖している】という。
 だが、西尾論文は「皇后や東宮妃が宮中祭祀に参加されるべきであり、これなき場合宮中祭祀は不完全なものになる」という前提の上に成り立っている。
 確かに、宮中祭祀は重要である。先述したとおり、天皇の本質は「祭り主」であり、祈る存在こそが本当の天皇のお姿である。しかし、それは天皇の話であって皇后や東宮妃の本質は「祭り主」ではない。
 もちろん皇后陛下を始めとする皇族方が宮中祭祀に陪席あそばすことはあり、現在はそれが通例となっている。ところが、それはあくまでも「祭り主」としてではなく、付き添い役として陪席あそばすだけで、新嘗祭などに内閣総理大臣が陪席するのと同様である。現在の宮中三殿でもそのように営まれている。もちろん大祭にあたって全皇族方が祭祀に陪席あそばすことは理想であろう。しかし、天皇は「上御一人(かみごいちにん)」であり、全ての宮中祭祀天皇お一人で完成するのが本質であって、皇族の陪席を必要とするものではなく、また皇族の一方が陪席されないからといって完成しないものでもない。
 また、歴史的に宮中祭祀に携わらなかった皇后はいくらでも例がある。少なくとも皇后の名において行われる祭祀はなく、幕末までは皇后が祭祀に参加しないことが通例だった。そもそも皇后の役割は宮中祭祀ではない。まして東宮妃であれば尚更である。
 東宮妃殿下には一刻も早くご不例を癒し給うことを私は望むが、もし皇后になられたときまだご病気であらせられれば、無理に宮中祭祀にお出ましいただく必要はない。またそれによって天皇の本質が変化することもない。
 将来皇后が祭祀に参加されないなどの【身勝手な】【異様な事態】が生じたら、【天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない】という西尾論文の結論は、妄想の上に妄想を繰り返した身勝手な見解であろう。

必ずや立派な天皇
      
 皇室の将来を慮(おもんばか)るが故に東宮に期待を寄せるのは理解できる。だが、これ程東宮を扱(こ)き下ろす必要はあるのか。皇位継承の順位は次が東宮殿下、続けて秋篠宮殿下、秋篠若宮殿下の順であり、今後東宮妃殿下が親王をお生みにならない限り、いずれ皇統は確実に秋篠宮系に移る。
 将来天皇になられる東宮殿下・秋篠宮殿下・秋篠若宮殿下のお三方が、天皇の本質である「祭り主」を全うされればそれで皇室は安泰であるはずだ。東宮妃殿下に反日左翼のレッテルを貼り付け、身勝手な振る舞いが皇室を破滅に追い込むとの西尾論文の主張は、本質から完全に外れた論であろう。
 もし仮に西尾氏のいう東宮の諸問題が事実だとしても、それは制度の欠陥が原因であり、その程度のことで皇統は揺らがない。壬申の乱保元の乱のように、皇室の内部で殺し合いをした例はいくらでもあった。また終戦のときも皇室の危機だった。それらに比べれば現在の皇室の問題などは、問題の類には入らないのである。これまで皇室は幾度となく危機を乗り越えてきた。将来生じる危機も必ずや乗り越えていくことと私は信じている。
 また、東宮殿下が将来立派な天皇になられることについても、私は聊(いささ)かの心配もしていない。天皇陛下が即位あそばした直後、巷には一部「新帝で大丈夫か」といった心ない記事も見えたが、今はそのように書く人はいない。しかし、新帝は歴代天皇の鏡というべき立派な天皇におなりあそばした。
 伊勢の神宮が二十年ごとに行っている式年遷宮では、新旧二つの御正殿(ごしょうでん)が並び立つ瞬間がある。ある神職から聞いた話だが、始め新しい御正殿には何の趣もないが、御神体を移動した途端に新しい御正殿に後光が差し、それとは対照的に古い御正殿は俄かに朽ちたようになるという。
 東宮殿下も将来三種の神器をお持ちになり、即位礼と大嘗祭を済ませられて天皇になられ、葦津珍彦がいうように「神に接近し、皇祖神の神意に相通じ」れば、今上さまと同様、必ず立派な天皇におなりあそばすと私は思う。
         
読者よ日を覚ませ!

 皇室の問題は学歴主義とか東宮妃殿下の思想などにあるのではない。皇室の諸問題をスキャンダラスに騒ぎ立てることは逆効果であり、そのことこそが本当の問題なのである。西尾論文は結果として皇室全体のイメージを低下させただけだった。保守論壇はそのような無益な騒ぎを抑える方向に世論を導くべきである。
 西尾論文の結論は【この私も中核から崩れ始めた国家の危険を取り除くために天皇制度の廃棄に賛成するかもしれない】となっているが、これでは「天皇制度は廃棄されてしまえ」と結論していることと等しい。【天皇制度の廃棄に賛成する】人物に、皇室を思いやる発言をする資格はないと私は思う。私は西尾氏に問いたい。天皇制度を廃棄したら、一体如何なる世界が訪れるのか。それは共和制なのか。
 西尾氏が責任ある言葉を述べているとは私には思えないのである。西尾氏はたとえ冗談だとしても、このことを両陛下の前で言うことができるのか。もし西尾論文に賛同する読者がいるなら、【天皇制度の廃棄】について、一人ひとりの心に問いかけてもらいたい。
 そもそも、【天皇制度の廃棄】などという表現は言論人としての品格を疑うものである。自らの論調に酔った勢いで書いた言葉かもしれないが、言い方に品格があって然るべきだ。卑しくも評論家として一定の評価を受けている人物がそれなりの雑誌に寄稿するのであれば、その程度の要求があって当然だろう。
 作法は善悪を超える。仮に西尾氏の論が完全に正しいことだとしても、正しいことを振りかざして現実が混乱するのであれば、その正義は自らのエゴでしかない。
 皇室の最大の問題はお世継ぎ問題であり、先述したとおりこの点で西尾氏と私は意見が一致する。私は西尾氏には品格のある発言者として今後も活躍して頂きたいと思っている。
 私のような三十二歳の青二才が、人生の先輩にこのようなことを言うのは申し訳ないが、もし私のこの注告を読んで少しも思いを致すところがないとしたら、そろそろ世代交代の時期が来ているのかもしれない。そして、皇室を尊崇する良識ある読者よ、目を覚まして欲しい。
つづく