自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#4)#6

自らの身は顧みず 田母神俊雄論続編(特別編;皇室論#4)#6


皇太子殿下には成熟した男子として国民が期待しているのは、天皇ならびに国民に向けた謝罪のニュアンスのある言葉、今度の事件全体を統括した他の手の影響のないご自身の言葉である。自分達3人家族は幸せに暮らしていますと言うメッセージだけではもう十分とは言えない。国家と国民を慮った、自分のファミリーの側にも落ち度にも言及したお言葉が欲しい。「雅子は徐々に快方に向かっています」だけではもうあまりにも現実の要請から遠すぎる。

 このまま時間が推移していくのは恐ろしい。実は私などが一番心配しているのはこのことで、妃殿下のご病状が不透明のままに第126代の天皇陛下が誕生し、皇后陛下のご病気の名において皇室は何をしてもいいし、何をしなくてもいい、という身勝手な,薄明に閉ざされた異様な事態が現出することを私はひたすら恐怖している。

そしてそこに、外務省を中心とした反日勢力がうろうろとうごめく。中国の陰謀も介在してくるかも知れない。天皇家は好ましからざる反伝統主義者に乗っ取られるのである。そして、皇族に人権を与えよ、という朝日とNHKの声は高まり騒然とする。
そうならないためにも差し当たりの私の第二の提案は、宮内庁東宮に勤める外務官僚の辞任を実施することである。外務省も今のうちなら、ない腹を探られるよりその方がいいときっと思うだろう。
以上(西尾幹二「WILL」5月号‘08、「皇太子様に敢えて申し上げます」)
平成20年4月27日

<早速、[ koreyjp ]さんから反応があった。一応[ koreyjp ]さんのコメントがくる前に少し書きだしていたが、没にした。木庵の皇室に対する考えが甘いことに気がついたからである。木庵>

木庵さん
田母神さんの話から皇室論にまで発展しましたが、ポイントは唯物論と唯心論にあります。西尾氏は「皇室は日本のために祭祀を行ふ神主であり、神話からの出自を持つ尊厳なものだ」と唯物的に論じますが、そこにひとつ欠けてゐるのは天皇日本民族の家長であり、無私なみ心で国民をわが事のやうに想って下さるといふ事です。日本民族全体が無私の人の集まりですが、その象徴的御存在が天皇なのです。このことを端的に顕してゐるのが、「罪あらば我をとがめよ天津神 民はわが身のうみし子なれば」といふ御製です。(いつの天皇の御製かは失念しました)この無私といふキーワードには、岡先生も度々言及してをられます。(岡先生の祖父は、先生に「他人を先にして自分を後にせよ」といふ事だけを守らせて教育した。それが後で数学の研究にどれほど役立ったか判らない)
皇室について考えるのは、(といふより感じるのは)このやうな心情を持つ民のすることであり、民はそれに従って無私な生活を日毎に送り、日本文化を後代に伝へて行くだけです(一旦緩急あれば義勇公に奉じます。)
2009/3/20(金) 午前 9:25 [ koreyjp ]
<西尾氏、 koreyjp 氏の考えを基に、これから木庵の考えを述べていく。koreyjp 氏は西尾氏の論法は唯物的だと言う。西尾氏は日本の皇室は、現代の価値観では推し量れない長い歴史の上に培われた伝統で、世界に唯一残存する貴重なものだと強調する。木庵の解釈では、西尾氏は皇室の歴史的な意味、日本社会での役割について、ある意味の日本神学的に、皇室のあり方を述べているように思える。その意味でいくと、皇室の社会的機能が、特に戦後薄れ、また破滅の方向に向かっていることを、雅子妃殿下、皇太子、雅子妃の父小和田氏、それに左翼勢力の状況を踏まえて論じている。ところが、koreyjp 氏は古事記の世界から眺め、恐らく、西尾氏の危惧することも、歴史の流れの中で、それほど心配はいらないと楽観的であるように見受ける。木庵>
木庵さん
古事記では、イザナギノミコトが亡くなった奥さんのイザナミノミコトに会ひたくて、冥土まで追いかけて行きます。そして「あなたが待ってゐる間、私の体を見てはいけませんよ」と奥さんから言はれたのに、あまり長く待たされるものだから、痺れを切らしてつい見てしまふ。すると「汚い私の体を見たわね、もう生きて返すわけには行きません」とばかり、追ひかけてくる。そしてイザナギノミコトは我慢できなくなって「もうお前とは終りだ」と離縁状をたたきつけます。イザナミノミコトは「あなたがそんなひどいことをなさるなら、私はこれから毎日、あんたの国の人を千人くびり殺しますよ」と挑戦します。そこへイザナギノミコトは、「それなら私は一日に千五百の産屋を建てよう」と言ひ返しました。このプラス思考が日本民族の基本的性質として預言されてゐるのです。(預言とは、「かういふ場合はかうなる」といふ法則性を教えることです。一方「予言」は、ただ単純に「将来これこれのことが起きるだらう」といふ予測をすることで一種の天気予報のやうなものでせう)ぜひ「楽観を底に、危機感も持ち続けていきませう。)
2009/3/20(金) 午前 1:34 [ koreyjp ] 。
<koreyjp氏の言葉、「日本民族全体が無私の人の集まりですが、その象徴的御存在が天皇なのです」が光っている。私は皇室だけが無私な人々であって、一般日本人は自我が強く、お互いに自我と自我のため衝突するのは致し方がない。そのために皇室の無私の精神が我々の俗なる精神を清めていてくれると解釈していた。だから、皇太子が「雅子のキャリヤや人格を否定する」云々発言は許せないと思っていた。なぜなら、皇室は無私でなければいけない、当然皇室に嫁いだ雅子妃殿下も無私でなければいけないという、無私でない庶民からの要望、それはある意味の皇室に対する強制、脅迫にもつながるものを考えていた。ところが、koreyjp氏が言うには、庶民も無私であるとすれば、皇太子、皇太子妃に対して無私を強制するものでもない。自分たちと同じ目線で、お気の毒、時間が解決するでしょうと、暖かい目で見ることができる。この感情は、西尾氏が言う左翼的な平等観からくるものではない。日本人が古からもっている、無私の精神から来ている。そのような日本民族全体が相手を思いやる無私のものがあるので、今更、朝日やNHKなどのまがい者の天皇制を歪めようとするものに、何等影響を受けないものを日本民族はもっていると解釈してよいのだろう。そこが、koreyjp氏の言う皇室を唯心論的に捉えるという意味であろう。
  確かに私のような庶民でも、無私の精神を親から教わってきたように思う。例えば、私が若いときは、自我が強く(今でもそうだが)、他人と衝突することが多かった。大学に入ってから、小、中、高で同級生であった友達が、我が家に立ち寄ったことがあった。そのとき才気走った私は、この友人に議論を吹っかけ、勝った(?)ことがあった。意気消沈する友達とは裏腹に、「あいつは、何も知っていない」のようなことを言った。それに対して、父から、「他人を傷つけるより、自分が傷つけ」と寂しそうな顔で言われてしまった。その後も喧嘩をする人生を歩んでいるが、この父親の言葉が私の脳裏から離れることがない。「父の言葉がなければもっと私は自由になれるのに」と思ってきたが、私のわがままな性格は直らない。しかし、近頃になって父の言わんとすることが分かるようにもなってきているのも不思議である。このようなことが、日本の庶民の間に広がる、無私の精神なのだろう。
  唯心論的にみると、まったく違った世界が見えてきそうである。koreyjp氏の「楽観を底」が唯心論とするなら、「危機感も持ち続けていきませう」というのが西尾氏が言う唯物論的なことなのかもしれない。西尾氏の言うことも無視できないことである。木庵>
つづく